kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「愛と平和」ではなく、パッチギ!LOVE & PEACE

2007-05-27 | 映画
前作「パッチギ」から設定は4年後の1974年、東京。東京で在日朝鮮人の地域といえば台東区などが思い浮かぶが、小集落の枝川が舞台である。幻の東京五輪1940年に江東区から強制移住させられた朝鮮人集落、それが枝川である。当時はゴミ焼却場と消毒所しかなかった湿地帯に自らのコミュニティを築いていった様が作中、宇野重吉が見せる紙芝居で語られる。ストーリーは京都から移り住んだハンソン、キョンジャら兄妹の一家に息子チャンスは難病に。キョンジャは芸能界を目指し、家族を持たない日本人・佐藤のハンソン一家らとの交流を交えながら、アンソン・キョンジャの父=徴兵(もちろん日本帝国主義による強制)からの脱走、太平洋ヤップ島まで逃れ生き抜いた30年前を重層的に描く。さきの紙芝居一つをとってもエピソードが多すぎ、前作ほどのキレに欠けるようにも思えるが井筒監督、李鳳宇製作のかかると分かりやすさを失ってはいない。
分かりやすさはエンターテイメントの命である。李プロデューサー率いるシネカノンは「ゲロッパ!」や「パッチギ!」、「フラガール」など娯楽性がとても高い。特に「パッチギ」は在日韓国・朝鮮人「問題」という日本において最大の未解決在留外国人課題をテーマにしながら、おかしくて、切なくて、笑い涙した記憶は新しい。「フラガール」も炭坑という斜陽産業の廃れゆく街にスポットを当てながら、心温まる作品であった。
「LOVE & PEACE」というとネーミングとしてはクサい極致とも思えるが、本作の主題はそのとおりである。愛の力によって家族が助けあい、家族を持たなかった佐藤が家族に触れてゆく。戦争から逃げ出した父のおかげでアンソン、キョンジゃが生まれ、在日が生きていく術としての芸能界で出自の壁に跳ね返され、家族のもとに戻ってくるキョンジャ。「家族」というと、アンソン一家のような濃い血縁共同体が基本となるが、枝川自体は民族のコミュニティであって、みんなが血縁関係であるわけではないし、日本人の佐藤もアンソン一家を家族と感じるようになるのも血縁を越えた「家族」の姿である。ヨーロッパでは移民社会が当たり前であるため、さまざまなシチズンシップが成立、自国民との格差をなくそうと歴史的に試行錯誤が繰り返されてきた。日本においてはヨーロッパ型の移民ではなく、「強制連行」「強制徴用」という負の遺産ゆえの在日朝鮮人・韓国人社会が形成されてきたが、ならばなおのことシチズンシップ形成に努力するべきである。が、外国人登録証の常時携帯義務はいまだなくならないし(作中、警察官がアンソンらに外国人登録証を見せなければ逮捕する、と脅かしていたのは現在でも変わらない)、指紋押捺制度は92年に永住者には廃止されるまで残っていたのである。
キョンジャが芸能界で成り上がるために「三国人」発言のプロデューサーにまで取り入って得たヒロインの映画は、三流特攻映画。「死ぬことこそすばらしい」と繰り返すこの思い切りくだらない劇中作品が、「三国人」発言の石原慎太郎東京都知事による製作・総指揮の「俺は、君のためにこそ死ににいく」の井筒流のブラックジョークであることは間違いない。
いや、アンソン・キョンジャの父が住んでいた済州島の最初の場面で、女性が「給料がもらえるぞ」などと言われながら無理やり警察官にトラックに乗せられていくシーンがちらりとあるのも、「広義の強制性はなかった」などとまだ放言して、その後アメリカに平謝りしてる(謝る方向が違うと思うが)現首相に対する皮肉でもあるのだろう。
重いテーマゆえのエンターテイメント。シネカノンの次作にも期待したい。
(写真はキョンジャ役の中村ゆりさん)
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クイーン

2007-05-13 | 映画
ヘレン・ミレンがアカデミー主演女優賞に輝いたと聞いたとき、「ゴスフォードパーク」ではつらい過去を持つ使用人、「カレンダーガールズ」で保守的な地域で暮らす女性たちを元気づけたおばさん、それが女王にまで上りつめるとはと冗談を言ったものだが、それくらいミレン=女王である。
ストーリーはダイアナ妃の突然の死から公式声明を出すことを拒んでいたエリザベス女王が、首相になったばかりのブレアとの駆け引き・やり取りを縦糸に、王室内の思惑(特にチャールズ皇太子は当然ダイアナを追悼したいと思うが、フィリップ殿下などはそうは思わない)を横糸につむいだわずか7日間の出来事を描いたもの。しかし、ブレアの行動が王室を救ったという見方と、いや結局イギリス国民は王制を捨てないという見方に分かれる。少なくともブレアの妻シェリーのような共和派が大英帝国を制することはなかったようだ。
もちろん映画で描かれたことが真実であるかどうかわからないが、ダイアナ妃がたおれたときちょうどスコットランドのバルモラル城で避暑していた女王をはじめとする王室一家の動向は側近やその当時城で仕えていた者たちの情報によるものであり、完全なフィクションとは言えないだろう。どこぞの国のかの高貴な方たちも葉山や軽井沢などに行かれるようだが、その内部のことまで伝わっては来ない。パパラッチがダイアナ妃を殺したとの批判もあるが、そこまでいかなくても少なくとも国民の税金で食べている特権階級の人たちの動向がこれほどベールに包まれているというのでは民主主義国家とは言えない。まあ、葉山も軽井沢も域内で野生の鹿討ができるほどのものではないだろうが。
「プリンセスマサコの真実」(原題 Princess Masako:Prizoner of the Chrysanthemum Throne 皇妃雅子:菊のご紋に囚われの身 くらいに訳すのだろうか?)を出版するなと宮内庁が圧力をかけたのだと(多分そうだろう)される日本にくらべて「愛される」王室の公開度も高いということか、英国は。
いずれにしてもブレアももう首相を辞める。親米のメルケル首相やサルコジ大統領の出現で右傾化するヨーロッパから別の意味で目が離せない。ヨーロッパ映画も。
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歩くことで道は開ける  サン・ジャックへの道

2007-05-05 | 映画
コリーヌ・セローの社会風刺は厳しくシニカルであるが同時にとても面白い。出世作「赤ちゃんに乾杯!」(85年)で男性の育児というフェミニズムの主張をあたふたとする独身男性3人が次第に親性(父性ではない!?)に目覚めていく様をコミカルに描いて見せたし、ドラッグや売春で女性を食い物にする男や、家庭責任をすべて母・妻に押し付ける身勝手な男たちをぎゃふんと言わせた痛快物語「女はみんな生きている」(01年)もスリリングな展開ながら笑ってしまった。フェミニズムの旗手と呼ばれるセローの目は男に厳しいのではなく、人間に優しいのだと改めて感じ入ったのが本作。
無神論者のセローが選んだテーマは「巡礼」。それも差別的因習、旧弊の象徴とも目されるカソリックの3大聖地の一つサンティアゴ・デ・コンポステーラに仲の悪い兄弟と信仰とは無縁の人たちがツアーに参加するという物語。会社を経営、仕事仕事で財はなしたようだが妻がアルコール中毒で自身も服薬に頼る毎日の長男ピエール。失業中の夫を抱える教師の長女クララ。アルコール依存で一文無しの次男クロード。亡母の遺産相続のために嫌々巡礼の旅に出るがいがみ合ってばかり。3人に加え、お気楽気分で参加したティーンの女の子2人に、そのうちの一人に恋するアラブ系移民の子とその従兄弟ラムジィ。読み書きのできないラムジィはメッカに行けると信じている。抗がん剤の影響か髪がすべて抜け落ちてしまったのを隠すため終始ターバンやスカーフを巻いたマチルド。そして妻が友人と不倫中、病気がちの子どももいて家のことが気にかかりっぱなしのガイドのギイ。
仲違いしていた兄弟が和解、自分勝手だったピエールは他人に優しくなり、若いツーリストも自立していくロードムービーでお決まりの人間成長物語であるが、人間を中心に映していたのが、次第に雄大な自然にカメラが移っていくのも憎い演出。こわーい教師のクララがラムジィに読み書きを教え、修道院で「イスラムは泊まれない」と言う教会の人間に「おれたちは家族だ。」と啖呵を切ってみんなのホテル代を持つピエールもいい人になったものだ(バラドールが美しい!)。とてもわかりやすい。巡礼の合間にクララがカソリックの封建制、女性差別性、過去の侵略性を痛切に批判するが、一方で「巡礼」という宗教的行為を健康や物見遊山、他者からの見栄えなど自己目的に使う現代人への皮肉な視点もちらり。しかし、巡礼とは言わないまでも目的地まで歩き続けるという行為は誰にとっても誰がなしてもなにがしか神聖ではある。民主党の菅直人も四国八十八ヶ所巡りをしていたっけ。
歩くことが健康によいことは今更言うまでもないが(ウォーキング人口は確実に増えているそうな)、アスファルトやコンクリート地面よりやはり山を越え、丘を下り、時にはそこかしこにたむろする動物たち、移動することのない植物たちに包まれながら前に行くのは、精神衛生上もよいに違いない。そして一人より二人、背景の違った人たちと。
本稿を認めている時点ではまだフランス大統領選の結果は出ていないが、排外主義的な傾向のサルコジ氏よりフェミニストのロワイヤル氏の方が「違いに寛容」という点でよいだろう。しかし、そのロワイヤル氏は市場主義のブレア信奉者でもある。
スカーフを巻いた生徒は放校するという厳しい宗教政策を選んだフランス。セローの訴える違う人間同士がぶつかりあってこそ和が生まれるとするヒューマニズムは実を結ぶだろうか。
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