goo blog サービス終了のお知らせ 

kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

イタリア美術紀行5 ローマ2

2009-02-05 | 美術
ボルゲーゼ美術館は2度目である。その時も事前予約制ではあったが、まだネット予約ではなく、当日入館時間の1時間前に行って予約。1時間くらい公園をぶらぶらしてなかなかよかったのを覚えている。今回はネット予約で直前に到着。味気ないといえば味気ないが時間の節約にはなる。
ミケランジェロを超えたと言われるベルニーニの「プロセルピナの略奪」と「アポロとダフネ」は見とれる。特に「プロセルピナの略奪」は大理石とは決して信じられないくらい柔らかい。冥界の神プルートにさらわれたプロセルピナが助けを呼ぶ姿、それを押さえんとするプルートの指がプロセルピナの太ももに食い込む様はバロック彫刻を代表するベルニーニのおそらくは最高傑作。これほどまでに大理石は弾力があり、反発力があるものなのか。
そしてプロセルピナの表情。ミケランジェロの彫刻がどこかローマ的に突き放したような冷たさを内包しているのに比べ(ダビデ、ピエタなど)、ベルニーニの作品は、絶望や悲嘆を見事に表している。そこにまるで命が宿っているかのように。
バロック彫刻から、19世紀にロダンが登場するまで彫刻の世界は絵画のそれほどメジャーではない。しかし、ボルゲーゼにもあるカノーヴァの作品はベルニーニが完成させた柔らかな大理石(彫像)に成功している。カノーヴァは古代の理想の美を目指した新古典主義の大家であるが、ルーヴルにある「アモルとプシュケ」もすばらしい。が、ボルゲーゼのヴィーナス像、その寝具のマットの波打つ様はおよそ大理石ではない。
彫刻のことばかり書いてしまったが、ボルゲーゼはカラヴァッジョの名品も多い。「ゴリアテの首を持つダビデ」など、劇的な構図で魅了するカラヴァッジョの比較的おとなしいい作品は多いとも見えるが、「花かごを持つ少年」や「聖ジェローム」など見逃せないものばかりである。ほかにもクラナッハやラファエロなどルネサンス期の作品もぞろぞろ。
そして見逃せないのが館を彩る天井画。見上げ続けていると首が痛くなるが、寝ころんで満喫したい画の数々。それほど大きな美術館ではないが濃密かつ凝縮したボルゲーゼはローマに行くたび訪れたいところである。
(カラヴァッジョ「花かごを持つ少年」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア美術紀行4 ローマ1

2009-02-01 | 美術
イタリア美術紀行 4 ローマ1
バチカンは別に取り上げることにして、今回それ以外で訪れたところを。
まず、ローマ在住のライター岩田砂和子さんがブログで書いていて(All About Italia http://allabout.co.jp/travel/travelitaly/closeup/CU20081110A/)見つけたスクデリーエ・デル・クイリナーレへ。大統領官邸の離れで一般のガイドブックには載っていない美術館。そして、岩田さんによると電話予約しないと入れないそうで、ホテルから前日電話して行ってみた。岩田さんがオススメしていた理由はちょうど、ヴェネツィア派の巨匠ジョバンニ・ベッリーニの絵画展が開催されていたから。それも会期は1月11日まで。ベッリーニと言えば、日本ではそれほど知られてはいないが、ティツアーノ、ティントレットなどの巨星がベッリーニから学んだと言われるほどの技量の持ち主。ベッリーニの技量の証は肖像画、歴史画であるにもかかわらずその細密性にある。そして今回はバチカンをはじめルーヴルなど世界中から集められて展示されているし、それも戦後初の本格的回顧展という。ミケランジェロやラファエロらの陰に隠れて(いるわけではないが)、テレビや一般的な美術本では取り上げられることも少ないが、その正確かつ柔らかい筆致は驚嘆すべきもの。大きな図録しか販売していなかったので、買わなかったがやっぱり買って帰ればよかったと後悔している。 


前回ローマを訪れたとき行かなかった美術館の一つが、ベルベリーニ宮にある国立絵画館。とても小さく、もちろん観光客も見かけない、はっきり言って職員もだれてやる気なさそう…。だが、ここでグイド・レーニのチェンチに会うとは。
ベアトリス・チェンチは、16世紀末実在の人で、父親に性暴行を受けたため、その父親を殺したかどで処刑された薄幸の少女。ローマを騒がしたこの事件は絵画の格好の題材になったに違いない。グイド・レーニは17世紀に活躍した画家で、カラヴァッジョより30年ほど前活躍した。そしてこのチェンチこそがフェルメールの傑作「真珠の耳飾りの少女」の原題となったのであるから。
後期ルネサンス、マニエリスムへ、イタリア以外の地がルネサンスを追随していた時にイタリアはもう先にすすんでいた。その象徴がいわばバロックを先取りした形でグイド・レーニが現れた。もちろん、ルネサンスと比されるだけの劇的な構図を編み出したのはカラヴァッジョである。が、古典に画題をとりながらもなおかつ現実的な表象に成功したのは、チェンチのグイド・レーニなのである。
バロック絵画をもそろえる国立絵画館にはカラヴァッジョの傑作「ホロフェルネスの首をかき切るユーディット」もある。不思議にエロティックなユーディットに惹かれてしまう本作も訪れる価値のある逸品だ。国立絵画館も侮りがたし。(ホロフェルネスの首をかき切るユーディット)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア美術紀行3 ヴェネチア

2009-01-25 | 美術
ヴェネチアを訪れたのは、もちろん世界遺産の水上都市を見たかったからでもあるが、ペギー・グッゲンハイム美術館を訪れたかったからである。グッゲンハイム美術館はニューヨークの本館(?)を訪れ、その建物のユニークさと収蔵品のすばらしさに感嘆したものだが、ビルバオ(スペイン)のグッゲンハイムは建築は斬新で面白いが、常設展がなく、すこしがっかりした覚えがあって(もちろん、ちょうどしていた企画展がイヴ・クラインでよかったが)、常設の多いというヴェネチアを見たかったからである。
ペギー・グッゲンハイム美術館は、緑に囲まれた邸宅を改造したもので、運河に相対する様も、中庭もとても素敵だ。ただとても小規模なので(閉館1時間前に行ったら、「1時間前だがオーケーか?」と訊かれたので「大きいのか?」と訊いたら「piccolo(小さい)」と言って受付の人が笑っていた。たしかに小さいし、通路に作品も架けてあって見づらいことは部分はある。しかし、モランディやマリーニなどイタリアの近代絵画(彫刻)がどっさり。キリコやフォンタナもある。ルネサンスばかりと思っていたが、近代美術も豊かななのだイタリアは。

アカデミア美術館は、ジョヴァンニ・ベッリーニを擁してヴェネチア派の百花繚乱というところ。ヴェネチア派勢揃いということでティントレット、ティツィアーノ、ヴェロネーゼがぞろぞろ。ベッリーニの「聖母子」、ティントレットの「ダナエ」、ヴェロネーゼの「ラヴィのキリスト」など見とれるものばかり。ジョルジョーネの「嵐」は、女性がなぜか下半身には何も着けずに、赤子に乳をやっているそばで羊飼い?がその様子を見るでもなく佇んでいる不思議な構図。ベッリーニの「ピエタ」は聖母とイエスの姿そのものよりも、後景がまるで建設途上のショッピングモールさながらで、その異形?に惹かれた。
基本的にルネサンス、マニエリスム以降の風景画はあまり興味が沸かないのだが、日本に帰ってから「ウィーン美術史美術館展 静物画の秘密」を見て、ルネサンスの大胆さから、細かな筆運びで完成させる風景画の妙技もあながち無視するものでもないものだと感じたのがカナレットであった。
ただ、おそらく、細密画のような神経質さを見せる風景画ももともとはルネサンス以降のより正確さを極める過程の結果だと考えれば納得がいく。その納得の証はやはりベッリーニである(ローマ編で述べる予定)。
ミケランジェロやラファエロだけではない。ルネサンス美術紀行ははじまったばかりである。そしてその端緒の一つとして訪れるべきアカデミア美術館である。(ティントレット「奴隷の奇蹟」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア美術紀行2 ミラノ

2009-01-18 | 美術
ファッションやブランドになんの興味、造詣もないので「最後の晩餐」(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会)がなければ一生行くことがなかったかもしれないミラノ。けれど来てよかった。「最後の晩餐」はもちろんすばらしいが(前稿)、小さな美術館も見応えがあったからだ。
ポルディ・ペッツォーリ美術館はミラノの貴族ペッツォーリの邸宅を彼の集めたコレクションと共にそのまま美術館としたもの。規模は小さいが、ロンドンはウォレス・コレクションと並ぶヨーロッパ屈指のプライベート・コレクションだそうである(美術館説明)。収蔵作品はもちろんルネサンスを中心に、マンテーニャの「聖母子」、ベッリーニ「ピエタ」、ピエロ・デラ・フランチェスカ「聖ニコラス」、ポッライウォーロ「若い貴婦人の肖像」など。そして本館で最も有名なのがボッティチェリ「(書物の)聖母(子)」。どれも繊細かつ鮮やか。前期ルネサンスの作品が多いためか、その雰囲気は静かだが力強い。特にボッティチェリはすぐそれと分かり、かつ書物を前にしてマリアと幼子イエスが視線を交わす様が美しい。時代をさがって、ティエポロやカナレットの作品もあるが、個人的にはルネサンス期のほうが好もしい。
「貴族の趣味の良さが味わえる」とガイドブックにあるが、趣味の良さとはそれら収集品を集めた(もちろん小作人などの上前をはねた結果といえばそれまでであるが)ことではなく、後世にそれを惜しみなく開放したり、寄付することで味わえるものであるだろう。
ブレラ絵画館は、ヴェネチア派などを主体に有名作品がずらり。マンテーニャの「死せるキリスト」は短縮法を示すため(すなはち画家の技量を示すため)に描かれたとものとされるが(『ルネサンス美術館』)、その圧倒的な迫力は実物を見てとしか言いようがない。
見とれる作品は多い。ベッリーニの「聖母子」、カルパッチョの作品群(日本語でどう表現するのか不明)、マンテーニャの大きな板絵、扉絵もたくさんある。
ティツィアーノ、ヴェロネーゼそしてティントレット。ヴェネチア派の大仰な構図がこれでもかと押し寄せてくる。しかし、そのどれもが状態よく、じっくり見ていたい逸品揃いであった。が、ブレラを訪れたのはその日の最後で疲れていた上で、とても寒かった。イタリアの美術館はだいたいエアコンが効いていないところが多いようで、美術館の係員も屋外と同じ格好をしていた。
ブレラは「絵画館」というだけあって、ルネサンス期以降の作品、カラヴァッジョ、ファン・ダイク、ヨールダンスなど17世紀以降の画家の作品も多い。そして、驚いた。モランディやマリーニなど20世紀の作品の充実ぶり。はたと気がついた。モランディもマリーニもイタリアの現代作家。イタリア20世紀美術も豊かであることを実感したひとときであった。
(「死せるキリスト」Webより転載)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア美術紀行1 最後の晩餐、スクロヴェーニ礼拝堂

2009-01-12 | 美術
ダ・ヴィンチ コードの人気以来かレオナルド・ダ・ヴィンチへの関心が高いように思う。訪れた「最後の晩餐」も他にも日本人の姿がまみえた。が、さすがに「スクロヴェーニ礼拝堂」には日本人の姿はなかった。
どちらも予約制で、拝観できる時間はわずか15分。もちろん撮影は禁止(You-Tubeに動画があるのは隠し撮りか)。いずれも見応え十分、Web予約、クレジットカードで払い込みまでして見に来た甲斐があったというもの。
まず、最後の晩餐。500年間の風雪に耐え、第2次世界大戦期には壁が爆撃され一部損傷したのは有名。この間、「未熟な」修復家たちの手によってダ・ヴィンチの描いたものとは違うものとなっており、近年それらが洗浄され、ダ・ヴィンチの筆が甦った。もちろん損傷は激しく鮮やかとは言い難いが、それでもダ・ヴィンチの豊かな筆さばきがわかる。イエスの表情をはじめ、イエスの言葉に驚き、議論をなし、無実を訴える使徒らの姿はとても生き生きとしている。そして、全体を俯瞰する完璧な構図。写真や映像ではない本物の感動というのがここにはある。
最後の晩餐はそれこそ、キリスト教絵画の中でも数多く描かれてきた題材であるが、ルネサンスの時代までイエスをはじめ聖人らには金環がかぶせられ、時には裏切り者のユダだけ金環をはずしたり、違う色合いにしたり、あるいはユダだけをテーブルのこちら側に配置し、誰がユダであるか分かりやすいように描かれてきた。しかし、ダ・ヴィンチはこの構図を破壊、金環をはずし、イエスから左右対称、使徒を3人ずつ配置するという大胆かつ劇的な描画に成功した。それを実体験するには現実に見るしかない。15分ではもちろん足りない。
そしてスクロヴェーニ礼拝堂。最後の晩餐より200年近くも遡るが保存状態がよく、その色あざやかさといったらない。ジョットについては昨年触れたが(プレルネサンスの至宝   ジョットとその遺産展    http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e4d08824220dd3a698242520cffd5b82)、ジョットはおそらくルネサンスを控え、ゴシック様式の最高峰に位置するだろう。そして、ジョット派と弟子たち(ジョッテスキ)が、遠近法を取得し、ルネサンスの成功へと導いたことは明らかである。一般民衆が文字を読めなかった時代、キリスト教の教えを教会などの壁画にしたためたことは当然であるが、スクロヴェーニ礼拝堂の場合は、名前のとおりときの権力者エンリコ・スクロヴェーニがその権力を誇示するために建築した礼拝堂に当時の最高の画家ジョットを招いて描かせたものであり、逆に言えば、広く一般に公開などして保存に支障を来すことなく残されたことが幸いしたようだ。
マリアの父親ヨアキムから始まって(もっとも、マリアの母親アンナも「種なしヨアキム」のせいで「受胎告知」を受ける)、キリスト昇天まで順を追って見れば聖書の物語がよくわかり、かつ、もっと知りたくなる。一枚一枚の絵に1分もかけられないのが残念。しかし、重ねて言える。本物はすばらしいと。
(スクロヴェーニ礼拝堂 外観)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「静かなる詩情」への近接   ハンマースホイとの初対面

2008-12-31 | 美術
デンマークで思い浮かぶのは? 人魚姫、クッキー、高福祉、そしてチーズ。アンデルセンの国ではあるが、美術系では恥ずかしながら何も知らない。北欧のイメージというとノルウェ-のムンク、ロッタちゃんのリンドグレーンはスウェーデン、ムーミンはフィンランドでデンマークってアートがあるのか?という無知をあざ笑う(とは正反対であるが)静かなヴィルヘルム・ハンマースホイの登場である。
ハンマースホイは印象派の画家や、それに続くエコール・ド・パリの面々がそうであったように祖国を離れ、パリの地で画業を大成した画家とは違い、パリやローマ、ロンドンなどに滞在はしているが、結局デンマークに帰り、生涯そこで過ごし(それもストランゲーゼ30番地という私宅、きわめて狭い空間。後述。)、そこで没している。もっとも、海外での「滞在」は、イギリスを除いて列車での移動が可能な比較的行きやすいところであったのに、ときに半年以上も費やし、パリではルーブル美術館、ロンドンでは大英博物館などと重要な美術作品と対面するため通いつめるための「滞在」であったようである。

子どもの頃から比類なき画才を認められ、若くしてデンマークを代表する画家になれたのに、有名であったが評判も悪かったようである。というのは、彼を知る人(画家仲間ももちろん)たちは一様に彼を「内向的」ときに「変人」と表しているからである。彼の絵は静謐そのものと表されるが、彼の生活そのものが静謐であったから。
ハンマースホイの代表作は「ストランゲーゼ30番地」。いくつも描かれているこの作品群はどれも「誰もいない室内」。何度も描いた後ろ姿の妻イーダの姿さえない。誰もいないどころか、机、イス、ストーブくらいしかない。本当に素っ気ない、ただの簡素な室内である。「ストランゲーゼ30番地」を対象に描く以前は風景画も描いていて、人物像も妹をモデルにした肖像画など、人を正面から見据えて描いていたのに、「ストランゲーゼ30番地」に引っ込んでからは(まさに「引っ込んで」いたようである)イーダの後ろ姿が時折出てくるくらいで、ついにはイーダの姿さえなくなる「誰もいない部屋」ばかり。
が、不思議と暗さや悲壮感とは無縁で、ただ単に静謐を絵にしたらこうなったという程度のことかもしれない。筆者はクレーを取り上げた際に、クレーの作品からは音楽が聞こえてくると表したが、ハンマースホイの作品はまさにその逆である。神経症を病んでいたとも伝えられるハンマースホイは、若い頃はイーダをともなって盛んに海外渡航(制作)も行っていたが、その生涯を代表する作品群の大半は「ストランゲーゼ30番地」を題材にしたものである。作品展では、「ストランゲーゼ30番地」の居宅のどの方向からどの部屋を描いたものか知ることのできるヴァーチャルリアリスティックな試みも用意されていたが、これほどまでに自宅のほとんど何もない部屋を執拗に描いたことに執念と不気味さを感じてしまう。が、静謐さの中にある真実とも呼ぶべき正体が彼の描きたかったものではないだろうか。
宗教画でも、肖像画でも、風俗画でも、風景画でもなく、ただ単に自宅を描くことに拘ったハンマースホイ。一見狭いとまみえる題材にもハンマースホイは広い「世界」を見ていたのかもしれない。だから、100年後の私たちの眼前に広がっても古びない魅力を保持しているのだろう。
(室内 ストランゲーゼ30番地)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デルフト・スタイルの秀逸と卓越  フェルメール展(東京都美術館)

2008-12-13 | 美術
「小路」は、「真珠の耳飾りの少女」や「絵画芸術」よりも傑作である。
フェルメールを語るとき、あまりにも有名な後2作よりもフェルメールがデルフトの一地方画家であることを示す確認、そして称揚するものとして語られることがあることを知っている。それほどまでにフェルメールがデルフトというオランダの一地方出身の画家であり、彼の作品が30数点しか確認されておらず、にもかかわらず作品に魅了されている人が多いということを認識されているからだろう。 
フェルメールは英国の美男コリン・ファースと米国の若手トップのスカーレット・ヨハンセンを擁したにもかかわらず凡作に終わったと評される「真珠の耳飾りの少女」の映画化や、昨今の人気からも見て分かるように今や大人気である。「真珠の…」を擁するハーグはマウリッツハイス美術館には日本人観光客も押し寄せているとか。
本展は、フェルメールの周囲を丹念にたどっている。その証として港町として成功したデルフトの紹介、フェルメールをはじめそこから輩出した画家たち。アムステルダムはもちろんのこと、レイデンやロッテルダムなどデルフトよりはるかに大きな町にも比して商業都市としてある程度成功したデルフト。毛織物、タペストリー、デルフト焼。しかし国際貿易競争でもレイデンなどに負け、しかも1654年火薬庫の大爆発で町は廃墟と化す。
繁栄を謳歌し続けることができなかったデルフトで、フェルメールと彼と作風が同傾向の画家が多く活動する。なかでもカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホはまさしくフェルメールと同時代に活躍した画家であるが、もちろんフェルメールほどには日本では知られていない。しかし、ファブリティウスはレンブラントの「最も革新的な弟子」と言われ、評価が正当に高くないのはあまりにも少ない現存作品数であると言う。光の画家レンブラントの劇的な描画法を体得しつつ、デルフト・スタイルと言われる静かな都市景観を描きあげたファブリティウスは火薬庫大爆発によって32歳で夭折したからだ。
屋内風俗画の多寡ではフェルメールをはるかに凌ぐデ・ホーホは、その数の多さ故評価が低かった面もある。これは、フェルメールの「発見」以降、透視画法や光(遠近法)の使い方でフェルメールを凌げないと目されたからで、デルフト・スタイルへの貢献度がなんら減じることはない。借金と家業(妻の母方の宿屋の集金業)に追われながらも静謐な仕事を半ば隠遁生活の中で遂げたフェルメールが後進を育て得なかったのに比して、デ・ホーホは「デ・ホーホ派」と言われるくらい後進に影響を与えた。が、デ・ホーホも弟子は取らなかったとされる。中世の画業がもっぱら王侯貴族丸抱えから、大規模な工房を抱え商人らの注文にも応じた近代的な形態へと変化する中で、デルフト・スタイルの画家らは金銭的には恵まれた環境とは言えなかったようである。もっともレンブラントも成功と同時に諸国万有の珍品を蒐集しすぎたあまり破産したのは有名で、フェルメールも彼の死後、相続人は「絵画芸術」を残してほとんど手放さざるを得なかったほど苦しかったようである。一方デ・ホーホはなんらかのパトロンを得ていたため、作品もちゃんと残り、影響を受けた弟子も育ったのではなかろうか。
そしてフェルメールである。本展で確認できるのはやはりデ・ホーホよりも後期デルフト・スタイルの画家らの作品よりもフェルメールの卓越である。透視画法も光遠近法もカメラ・オブ・スキュラを使用しつくしたとされるフェルメールの手にかかれば、他の画家を差し置いてあまりある。それは、フェルメールが有名であるからではない。もちろん、30数点のフェルメール作品の中でそれほどではない作品もある。しかし、本展は初期の宗教作品「マルタとマリアの家のキリスト」から「小路」を経て「絵画芸術」まで、フェルメールの卓越を再確認、そしてその前提となるデルフト・スタイルの画業が一望できるのである。
「小路」から始まった、デルフトというオランダ中商業都市の成功と衰退がかいま見える本展である。(リュートを調弦する女)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プレルネサンスの至宝   ジョットとその遺産展

2008-11-23 | 美術
ブログを更新せずにサボっていたのだが、東京と横浜にまとめて行く機会があったのでいくつかの展覧会を見てきたその感想から再開しようと思う。
イタリアでルネサンスが開花する前に卓越した技量で中世のゴシック美術から「イタリア美術」を完成させたと言われるジョット。損保ジャパン東郷青児美術館で開催された「ジョットとその遺産展」では従来壁画であったり、はずせない板絵であるとか、保存状態が良くない、当然移動が困難で日本ではなかなか見られないプレルネサンスのいいものが集まっている。ジョットは聖母子をいくつも描いたが、そのいずれも聖母の圧倒的な迫力で師チマブエを超えたとされる。いずれの時代も師が驚くほどの才能を発揮して芸術は発展していくものであるが(ダヴィンチも師ヴェロッキオの工房にいたが、師がダヴィンチの才にかなわないと筆を置いたほどということは有名)、反対にジョットの後に続くジョッテスキ(ジョットの弟子たち)がいずれもジョットを越えられなかった(ジョットの域までは達したという評価も含めて)ことからもジョットの先進性、偉大さがしのばれる。圧倒的な聖母子のみならずジョットはたとえば裏切り者のユダであるとか、息絶えるキリストとその弟子たちであるとか、13世紀ゴシック絵画では平板さがぬぐいきれなかった人物像に息を吹き込んだとされる。ジョットと同じ時代に活躍したドゥッチョなどがフィレンツェならフィレンツェと一地域に留まりがちだったのに比べ、イタリア全土をまわり功績を残した。その一つが本展で写真ではあるが綿密に配置され展開されているスクロヴェーニ礼拝堂の壁画である。
壁画であるからもちろん日本に持ってくるわけにいはいかないが、ジョットのすごいのは一つひとつの聖書の物語を分かりやすく感動的に描き(この時代、聖書の物語を礼拝堂の壁画などでしか学べなかったのはもちろん)、その鮮やかで躍動的な様が700年の時を経ても全然朽ちていないところである。スクロヴェーニ家は金融業で財をなし、その金もうけに走った父の罪を贖うために息子が礼拝堂を築いたとされたが、本当は息子がその自己顕示欲のために建立したというところらしい(『ルネサンス美術館』石鍋真澄 小学館)。とにかくジョット美術館の体をなす礼拝堂はプレルネサンスの至宝として一度は訪れたい場所である(温度湿度管理のために観光客は別室で待たされてから15分しか拝めないらしい)。
色鮮やかさという点ではジョットの時代にすでに完成していたが、迫力あるイエスやその他の登場人物像がやさしく、やわらかく描かれるまではフラ・アンジェリコやラファエッロまで待たねばならない。威厳ある聖人と慈悲深いそれという相反するような描写法はキリスト教が民に対する姿勢と役割を同時に体言しているようで興味深い。そして、宗教画は当然時の権力者(や教会)が発注するものであるから、その注文意図とも無縁ではない。
ジョットとジョッテスキが描く聖母子やキリストの物語などは、キリスト教自体が権威として君臨した時代の曙光であったのであろう。(「聖母子」ジョット フィレンツェ、サント・ステファーノ・アル・ポンテ聖堂附属美術館) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主役はスペイン史   宮廷画家ゴヤは見た

2008-10-19 | 美術
異端審問というと何かおどろどろしい不吉なイメージが浮かんでしまう。魔女狩りなどキリスト教世界の負の歴史を思い浮かべる場合、異端審問もそれとごっちゃにしてしまうからだ。もちろん、魔女狩りと全然関係ない訳ではないが、ヨーロッパ世界、近代勃興直前の時代においてすでに禁止されていた異端審問がカソリックの強いスペインでは18世紀末にもまだ行われていたとうことが本作の要諦の一つだ。
異端審問。それはキリスト教信仰を持たない人を、その信仰を明らかにするために拷問して無実の自白をさせるということである。裕福な商人の美しい娘イネスも豚肉が苦手ということだけで審問を受け、「ユダヤ教徒です」と虚偽の自白をしてしまう。もちろん拷問の末。拷問に傷つき、衣服もつけていないイネスを助ける振りをしながら(異端審問を強化した張本人でもあるのだが)、抱くロレンソ神父。娘を助けたい一心でロレンソ神父に恥をかかせた父親トマスだが、イネスを教会への多額の寄付でも助け出せなかったロレンソは出奔。15年後、フランスはナポレオン軍がスペインに侵攻。フランスの革命に共鳴したロレンソは今やフランス軍の検察官として戻ってくる。スペイン国王は逃亡、異端審問が廃され、変わり果てた姿で出獄したイネスはロレンソに孕まされ、牢で産んだ我が子を探し回る。
王の画家としてこれらの時代、歴史をずっと見続けてきたゴヤ。
ゴヤというと、もちろん宮廷画家なのでカルロス4世に寵愛され、数々の王室画を描いているが同時に圧政、軍政に苦しむ庶民の姿も描いている。ナポレオン戦争に倒れる反乱民(ナポレオン軍に銃殺される姿)を描いた「1808年5月3日」はあまりにも有名である。晩年聴覚を失ったゴヤは王室の仕事もなく、ますます宗教的、深く、厳しい画を制作していく。その集大成が「わが子を食らうサトゥルヌス」(1820~24年)である。
ゴヤは王制の時代、革命の時代、反動の時代それらすべてを生きた画家である。ゴヤが活躍したのにはもちろんスペインが生んだ宮廷画家の粋ベラスケスがおり、キリスト教画ではギリシア人ながらスペインで一大画期をなしたエル・グレコらがいるからである。しかし先代の画業それ以上に多くの作品、肖像画、宗教画、大衆画をも描き分けたところにゴヤのすごさがある。映画の中でロレンソがゴヤに言い放つシーン、「あんたはいつも安全なところにいるだろ!」はそれはそうで、あるからこそいろいろな場面に立ち会い、描くことができたのであろう。
この映画はゴヤが主人公のようであるが、真の主人公は最後は裏切りの罪で処刑されるロレンソでも、今売り出し中のナタリー・ポートマンが二役を演じるイネス(またはアリシア)でもない。「ゴヤは見た」とあるように主人公はスペインの歴史でる。そしてナポレオン戦争、イギリスの侵攻を経験したスペインはやがて王制は脱したが、ある意味で王制より過酷な独裁制(第2次大戦後から近年まではフランコ将軍の軍政)を長く経験することになる。
ゴヤの見た王室の姿がぼんやりしているとまみえたのは、この頃政治を牛耳っていたカルロス王妃の愛人ドゴイの姿が出てこなかったからであろう。作品の焦点をどこに合わすかによって描いたり、描かれなかったりする人・歴史が落ちるのは仕方がないが、ドゴイなくして18世紀末スペインを描いたことにはならないだろう。(1808年5月3日部分 プラド美術館)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短命こそ成功表現の証か?  ロシアアヴァンギャルド展(サントリーミュージアム)

2008-10-12 | 美術
ロシアアヴァンギャルドの寿命は短かった。印象主義以降、フォービズム、キュビズム、シュルレアリズムそしてシュプレマティズムと革命を経験したロシアが近代を体得するために急激に変容していった流れの中で美術もまた急激に変わっていった。しかし、ナチスとは違う形で全体主義的に表現もまた狭まれて、アヴァンギャルドの将来が途切れたからだ。
マレーヴィッチのシュプレマティズムはその後アメリカのミニマルアート、ステラやロスコなど、あるいはイタリアのフォンタナなどに引き継がれていくのではと勝手に考えているが、抽象表現主義という一言では言い表せないほど豊かで、また想像力をかき立てるのがマレーヴィッチの農民像である。そう、マレーヴィッチはロシアという凍土の農民像に拘った。カンディンスキーなどロシア出身の美術家が表現主義というロマン、印象主義に「毒された」見やすさに挑戦するかのごとくそれこそ「シュプレマティズム(至高主義、または頂上主義などと訳されるが)」で抗った二次元表現の要素としての画面への執着、がキュビズムを越えた形で現された。それがマレーヴィッチの仕事の真骨頂であると。
カンディンスキーはドイツへ、革命前後舞台美術で成功したシャガールはフランス、そしてアメリカへ、マレーヴィッチは抽象芸術を捨て具象画へ。美術表現が自由であるかどうかは時の権力が決めるという体制内美術の限界が垣間見えるロシアアヴァンギャルドの短命さである。
しかし、マレーヴィッチの力強い農民像は抽象か、具象かは全く関係ないということも再確認できた展覧会であった。そして近代絵画の理論的支柱、セザンヌが語った「絵画は円柱と、三角と四角で描け」を忠実にこなし、同時に、であっても労働者・農民の力強い像を描けたのもマレーヴィッチであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする