kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

資本=ネーション=国家を超えよう  世界共和国へ

2006-05-28 | 書籍
知の巨人、柄谷行人の著作のすべてが理解できる力があれば誰も読まない、儲かるわけではない、おまけに拙いこんなブログを開設してはいないのだが、わかった(気になった)部分だけ紹介したいと思う。
柄谷は本書を5年前に上梓した『トランスクリティーク カントとマルクス』をもっと「普通の読者が読んで理解できる」ようなものとして著わしたという。実は『トランス…』も早速読んだのがはっきり言ってチンプンカンプンでそれ以来柄谷の著作からは離れていた。ただし、柄谷も言うように本書は『トランス…』で提示した資本、国家、ネーションの3つの基礎的な交換様式を見、そしてそれらを超える第4の道として「アソシエーション(協同組合)」をもっと緻密に展開したものである。
柄谷が何回も指摘するのは国家も資本も一国だけで捉えたり、対自国観だけを対抗軸として捉えたりしたのでは真の把握とはならないし「揚棄」できないということ。それらの本当の姿=国家は、外の他の国家、対国家によって現出し、また、資本も自国の対資本(家)だけを見るのではなく、共同体と共同体あるいは国家と国家の間に存在するもの(=交換様式)、として見なければ、国家や資本がもたらす惨禍からは解放されないということだ。
ではネーション(国民)はどうか。ネーションも他の共同体の成員が問題とならなければ、言い換えれば、戦争という最大の国家間の緊張関係が現れなければ「ネーション」の自覚は必要ではない。すなわち、国家を背景として他国への利害が現れることによってはじめてネーションたる意味が付与されるのであると。であるから自国内に目を向けてネーションステート(国民国家)を論じても意味がないし、「国家は幻想の共同体」などと簡単には言えないのである。
柄谷は言う。「資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと、国家は消滅し」ないと。同時に「社会主義は幻想だ、「大きな物語」にすぎないといったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではす」まないと。だからカントの考えである「各国が主権を放棄する世界共和国」の構築を模索することによって「人類の緊急の課題である 1戦争、2環境破壊、3経済的格差」を考えなければならないし、それらは一国だけの問題ではないし、解決できないと。
なんのこといはないと思われる人もいるかもしれないし、今はやりのマルチチュードとどう違うのかと考える人もいるかもしれない。しかし、近世以降の思想家らがどうすればより巨大化/膨張化していく「資本、国家、ネーション」というものにたいしてその道筋をつけていけばいいかを考えたことを一人一人丁寧になぞっていき、それらの採るべきところ、間違ったところ、読み違えたところは丹念に指摘すべきであり、柄谷の仕事はそこにある。
結論はわりと単純(憲法9条理念の拡大といった軍事的主権の国連への譲渡)に見えるが、柄谷は絶望的ではないというし、そう思えてきた。
「愛国心」や「普通の国」論が元気よい現在のこの国の現実は厳しい。しかし、そのような時であるからこそ柄谷のような仕事は必要である、と思う。そう、私はやはり「共和派」であるから。
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名門の安定度 ボリショイのラ・バヤデール

2006-05-14 | 舞台
ラ・バヤデールは2回目である。前回は初めて行ったびわ湖ホールでのベルリン国立バレエ団。戦士ソロル役はもちろん貴公子マラーホフである。実はこの時、京都をバスで移動中とても時間がかかってしまい開演に間に合わず、1幕目はモニターで見るというとても残念な思いをしたのだ。今回はそのようなことなく最初から堪能できた。今回初めてフロア席ではなくて階上席(と言っても1階のフロアに続くS席)から鑑賞したがなかなか良いものだ。ダンスを少し上から見下ろせる上、舞台全体を見渡せて、それでいて舞台から遠すぎることもない。ただ、側面故反対の袖から次の出演者がちらちら見えることと、こちら側の袖付近の演技は見にくいのが難点。けれど、フロア席ばかりではわからなかった発見があった気がした。
2月に怪我をしたアンドレイ・ウヴァーロフに代わってソロル役はウラジミール・ネポロジーニー。さすがにマラーホフほどの跳躍の高さはないが雰囲気は十分。ニキヤ役はボリショイが誇る超ベテラン、ナデジダ・グラチョーワ。西洋人にしてはあまり高い身長ではないグラチョーワは艶やかなガムザッティ(エカテリーナ・シプリナ)との対比で、階級も低いバヤデール(踊り子)役としてちょうどよいし、一つ一つの演技 例えば一瞬立ち止まるポアントにしても、美しい。しかし、この作品はおそらくソロルとニキヤのグラン・パ・ド・ドゥやソロルとガムザッティのそれだけが見所ではない。グラチョーワのフェッテももちろん手練の技だ。が、団員200数十名を抱えるボリショイであるからこそ魅せ得た群舞。そう、むしろ、最大32名も登場するコール・ド・バレエが見物だ。
3幕目のニキヤを失ったソロルが麻薬のせいで(本演ではそれがあまりわからないような演出のようだったが)夢の中、ニキヤやその他の踊り子たちに囲まれるシーン。ゆったりと舞い降りて来るコール・ド・バレエを舞うダンサーたちのじれったさ、可憐さといったらない。どこか舞うボレロという感じの終わりのないうれしいじれったさは鍛え抜かれた群舞のなせる技。あのシーンは大好きだ。
ただ、日本公演をいくつも重ねてきての終盤であるからか、ダンサーたちは幾分疲れているように感じたのだが。ラ・バヤデールが神の怒りとともに神殿が崩れ落ちる本来の演出が定着してずいぶんなるそうな。崩れ落ちる様の豪華さとそこに倒れるソロルの化身は、マラーホフの方がよかったようにも思うが、これはその時々の舞台装置等にもよるものだろう。
バレエといえば単純な悲恋物語。でも多分また行ってしまう魅力がそこにはある。
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「韓流」の勢い止まらず  ダンサーの純情

2006-05-14 | 映画
荒川選手らが活躍したトリノオリンピックでフィギアスケートに魅了された人なら入り込みやすい映画ではないか。それにとてもストーリーはわかりやすい。主演のムン・グニョンの可愛さには誰もが賛同するだろう。ただ、全くの素人が3ヶ月であれほどのダンスができるようになるということは絶対にない。当のクニョンさえ毎日10時間のトレーニングを半年間続けたというのであるから。
ストーリーは中国は朝鮮族出身の田舎娘が、挫折したダンストレーナーと訓練を続ける中でダンスを超えて二人は惹かれ合い、また、彼女自身が成長し大人となっていくという他愛のないものだが、クニョンの魅力ゆえか全くクサイ芝居に見えないところがいい。このようなマンガのようなお話でもクササを抱かせず、楽しく見せることができることに「韓流」映画の水準に成熟を感じる。
興味深かったのは、訛りのきつい韓国/朝鮮語を話す主人公が次第に標準語を話すようになるという設定と、韓国語における親族用語の複雑さがよく描かれているところ。韓国では、ネイティブでも迷うほど親族用語が複雑だ。妹から呼ぶ場合と弟から呼ぶ場合では同じ「お兄さん」でも違うというくらいはわかるが、父方/母方のおじさん、おばさん、その順番によって呼び方が違う。儒教社会の名残だが、韓国でもそのような厳しいしきたりもだんだん弱まり、結婚式や葬式だけでしか見ることができなくなってきた家族等も増え、余計に混乱するとか。そう、韓国は日本以上に大都会集中、人口の4人に一人がソウルに住み、合計特殊出生率は日本をはるかに下回る1.09。少ない子どもを留学させたらそのまま韓国に帰って来ない頭脳流出も深刻であると言う。
であるからこそ、本作で描かれているような中国朝鮮族の貧しい地域から韓国に来て「偽装結婚」する場合もあり、さっさと海外に行ってしまうような言わばエリート層とは違う人の姿がここにはある。「偽装結婚」したチェリンがヨンセを呼ぶとき「アズバイ」と呼んだり(おじさん=「アジョシ」の方言だそうな)、一転「ヨボ」(あなた)と呼んだり、その中間がないところがおかしかった。
一躍トップダンサーへの切符を得たチェリンだがヨンセと踊ることのできないダンスは無意味と結局中国に帰ることにするが、別れの時やっとお互いの必要性に目覚め、それを確認し合うという少し安直な結末だがこれもよし。
川本三郎言うところの「マイ・フェア・レディ」のイライザやら、クァク・ジェオンの「ラブ・ストーリー」での劇的な展開やらいっぱい要素の詰まったファンタジー。「韓流」の勢いはまだ止まりそうもない。
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送還日記  メディア・リテラシーの限界と教訓

2006-05-07 | 映画
「映像はすべてプロパガンダである」。映画の通常のパッフレットがない「送還日記」で単行本を編著した「A」や「A2」を撮った森達也の言葉だ。CGはもちろん、脚本や台詞など「作り事」を排したドキュメンタリー作品で知られる森が言うのには理由がある。ドキュメンタリーと言えども被写体/映像の選択、編集などには作者の意図や好みが入り込み、見る側に伝えたいものを一切なくすることはできないし、そもそも「伝える」ことなしにドキュメンタリーは存在価値がないとも言えるからだ。そして、森は「すべての表現はプロパガンダであることからは逃れられない」ことを前提にノンフィクションの世界を描き続けているのだ。
「北」のスパイ(工作員)として捕えられ何十年もの獄中生活を送った人たち。その中には軍事独裁政権下韓国での熾烈な拷問にも耐え抜き「非転向」を貫い人たちも含まれる。90年代の「民主化」の波の中次々と出獄してきた老人ら。彼らとの10年を超える付き合い、密着したカメラワークが「送還日記」だ。毅然とした態度、思慮深く物静かで敬愛の念を抱かざるを得ない老人もいれば、女性の話が好きなくだけた「おっちゃん」もいる。「南」出身で若い頃から社会主義の理想に燃え、金日成総合大学を卒業後「南」に派遣された言わばエリート政治工作員もいれば、工作船の一船員にすぎなかった人もいる。非転向を貫いた人もいればもちろん転向した人もいる。
韓国でドキュメタリー作家の大御所と言われるキム・ドンウォンが捉えた彼らの姿は「北」の「工作員」というレッテル?出自?からは想像できないくらい「人間らしい」。出獄後も貧しい中をキム監督をはじめ支援者、ボランティアの助けで生活する彼らはつましいが、そういった境遇に荒れもせず、共和国の正当性を信じ、祖国統一を願っている。しかし、親しくなった彼らが和気あいあいとしたハイキングの場で「金日成将軍の歌」を歌いだし、とまどうドンウォン。
「非転向長期囚の送還運動」にはもちろん韓国内で反感、抵抗もあったようだ。それはそうだろう、「工作員」の使命には「南」側の人民の「拉致」も含まれており、その数486人に登ると言われる(韓国政府の正式認定)。ただ、現在日本では北朝鮮による拉致問題に関連して、横田さんらが要求している経済制裁が結局北朝鮮の民衆を疲弊させるだけで、体制の弱体化にはつながらないのではという否定的な言辞が許されない、理性的な言辞が排除される状況も異常なら、拉致被害者家族らが政府の「弱腰」を批判したことに対する攻撃や、横田めぐみさんの写真展が脅迫により開催場所を変えざるを得なくなった事態も異常だ。
要は、正か邪か、あちら側かこちら側かと言う二元的発想、二項対立的な発想が危険なのだが、現在日本ではワンフレーズ首相の人気が高いことからもわかるように、そのような状況が強くなっている。これは森の指摘するところでもある。そして、国家の罪と国民の罪は分けて考えるべきであり、そしてそのような国家の罪をつくっているのがまた一人一人の国民の罪であるということも忘れてはならないだろう。
メデシアに対するリテラシーの重要性が叫ばれるが、メディアにはそもそも大衆を一方向に動員する危険性と無縁ではありえないし、特に文字になり冷静に読み解かれる前の発言や映像は大衆を容易に熱狂へと導く。だからリテラシーとはメディアに対するそれよりも、一人一人の人間が何を考えどう生きているのか、政府や権力(マスメディアもそうである)の宣伝以外のものを読み取る能力、想像力そして作業なのだろう。そう、「北のスバイだって人間だ」。
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