kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

COVID19の世界でもシリアを忘れないでほしい 「娘は戦場で生まれた」

2020-05-27 | 映画

シリアで内戦状態が始まってもう9年。しかし2020年は新型コロナウイルス禍が世界中を席巻し、もう忘れられたかのようだ。まだ国内外避難民は1000万人を超えるというのに。

「娘は戦場で生まれた」は、主人公ワアドがアレッポで過ごした2011年から2016年までを描く。特に見る者を圧倒するのが、2016年1月に娘サマを授かり、政府軍やロシア軍の攻撃に晒され、孤立無援となったアレッポ最後の病院を明け渡し、アレッポから退避する12月までを映す映像だ。命がいとも簡単に奪われ、さっきまで一緒にいた友人らが倒れていく。病院に運ばれる遺体、血まみれの人、人、人。始終病院を揺らす爆撃。小さな子どもは保育園や学校に通えないが「クラスター爆弾」や「たる爆弾」という言葉は知っている。兄弟を殺され泣きじゃくる子ども、我が子を失った母親は正気ではない。閉鎖されたアレッポに医療は追いつかない。なぜそのような時期、場所で子を産み育てようと思うのか。なぜ、早い段階でアレッポを出ようとはしなかったのか。それはアレッポがシリアにおけるアラブの春の象徴であり、アレッポこそが「私の街」であるからとワアド。

シリア情勢に限らず、諸外国の「内戦」は複雑で理解できないから知ろうとしない。知らないからといって日々の日常生活が影響を受けるわけでもない。筆者も含めて、そう知らずにいることを正当化し続けてきたのではないか。しかしシリアでの諍いは、「アラブの春」の民主化運動が2011年の春にもシリアにおよび、アレッポ市民も平和的な反政府デモを行っていたことに始まる。しかし、シリア政権は市民に銃を向け、市民やその家族を拘束、拷問した。平和的デモを続ける市民とは別に、シリア政権軍から離反した司令官が「自由シリア軍」を作り、武力で政権と対峙するようになる。そして、自己の勢力を拡大したいイスラム原理主義の武装勢力、ヌスラ戦線やイスラム国もシリアに入り込んで「内戦」になってしまったというのが経過らしい。

言うまでもなくイスラム国(IS、ISISまたはISIL)は、ありもしない大量破壊兵器の追及を理由にイラクに侵攻し、フセイン政権を無理やり倒したことで、シーア派が政権を獲り、スンニ派の武装勢力が過激化したのがその誕生の発端で、また、ヌスラ戦線はもともとアルカイーダ系で、アルカイーダはアフガニスタンに侵攻したソ連に対抗するため、アフガン政権軍に対抗する北部武装勢力が過激化したグループだ。いずれもアメリカが作り出した鬼っ子といって差し支えない。しかし、「子」ではない。

さらに、アレッポの市民にはシリア政権に肩入れするロシア(ソ連だ)がイスラム原理主義武装勢力を掃討するという理屈で空爆を繰り返す。空から爆弾を降らせて、武装勢力だけを掃討できるとは誰も思わないだろう。しかし、それが許されるのが現在の国際社会だ。そして国際社社会の説明には、トルコとの関係が、トルコ政権と対峙するクルド勢力が、ロシアに対抗したいアメリカがクルド勢力に肩入れをと、どんどん「知らない」で済む要素が増えていってしまう。複雑だからと知らないままでいるのは無責任だろう。それはフォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、戦地で誘拐された記者や旅行者らに「自己責任」というレッテルを貼り攻撃する日本の心性に危惧を抱き、「知る責任」に向き合うべきと訴える視点に繋がる。

なんとかアレッポを脱出したワアドは、医者で夫のハムザ、逃避行中にお腹にいた子、そしてサマと現在イギリスで暮らす。「娘は戦場で生まれた」は分かりやすい邦題だが、原作は「For Sama」。ワアドの撮影と語りは全てサマのためだったのである。

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『教育は何を評価してきたのか』が問う、私たちは何を「評価」したいと考えてきたのか

2020-05-16 | 書籍

元文科省事務次官の前川喜平さんがものすごい勢いで「#検察庁法改正案に抗議します」ツイッターに書き込んでいる。前川さんは加計学園問題を告発しようと準備していた矢先に「出会い系バーに出入りしている」と読売、産経新聞記事で人格攻撃にさらされている。前川さん自身「退官後半年もたった私の個人行動をなぜ新聞社が把握しているのか」と疑問を呈し、同情報は官邸から新聞社にリークされたものである疑いが濃厚だ。だからではないが、前川さんの安倍政権批判の舌鋒は鋭く、教育行政に関わってきた者としての意見、提言も多い。

岩波新書は他のライト系新書のようにオビに「(著名人)◯◯氏が絶賛!」などとはつけないと思うが、「ゆとり教育」を推進し、全国統一学力テストを批判する前川さんならオビに登場したかもしれない。日本の近代教育がいかに「資質」「能力」や「態度」といった合理的・客観的指標が存在しないマジックワードに支配されてきたかを解き明かす本書は、一人ひとりに目を向ける教育をと唱える前川さんの方向性に合うに違いない。

しかし著者も断っているように、本書は教育行政で語れてきた言葉をめぐる仮説を提示するもので、その歴史的経緯を明らかにするものであるが明確に証明できているわけではない。しかし、様々な数値を分析し、その時代時代でいかに言葉が出現し、その言葉が重宝されてきたかを明らかにすることで説得力がある。著者は言う。日本の教育に要請され、貫徹しているシステムは「垂直的序列化」と「水平的画一化」である。「垂直的序列化」とは、「相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格づけを意味しており」、学力ではない知的側面以外の重要性を増しているのが「生きる力」「人間力」であって、それらを束ねる「能力」が絶対的指標に到達し得ない以上、必ず「絶対水準の高度化」をもたらし、上位に到達しようとする者が現われば必然的に下位層を創出させる。

一方、特定のふるまい方や考え方を全体に要請する圧力が「水平的画一化」である。道徳教育の教科化にその一面で「態度」や「資質」を「評価」しようとする。学校現場全体が「教化」と不可分に制度化されていくのである。筆者は、「生きる力」を「日本型メリトクラシー」、「人間力」を「ハイパー・メリトクラシー」、学校現場に貫徹された「教化」を「ハイパー教化」と呼ぶ。メリトクラシーを以前筆者は「能力主義」と訳していたこともあるようだが、日本で「能力」と言う場合、プラス評価はもちろんのこと、そうでなければならない呪縛、それはー能力のない人間を評価しないー新自由主義的な発想も感じさせる用語であるからか、本書では「メリトクラシー」で統一している。

「能力」によって人が正当に評価されれば良きことのように聞こえる。しかし、「能力」とは何であるか、人によって違うものであるのに、客観的評価があり得ない指標によって人をランク付ける発想は、結局一人ひとりを大事にすると言う教育が本来持つべき責任とは相いれない。もちろん文科省の公式書面には一人ひとりを大事にすると出てくるが。

本書で示される浩瀚なデータ分析をここで紹介することはできないが、例えば「態度」では「服装の乱れは心の乱れ」とか、「資質」では「みんなと同じようにできない」とか、学校教育で繰り返し告げられた統制主義的言辞を思い浮かべると分かりやすい。そしてこれは明治の時代から一貫してこの国の学校教育の思想である。戦前は皇国民として、軍国主義教育の統制が、戦後の「民主主義」教育下においても、その姿勢は変わらない。それは生徒には個性を大切にと言いながら、教員が「君が代」斉唱時に着席したくらいで重い処分を科すといった二枚舌などにも顕著に現れる。

ここからは私独自の見解だが、この国では多くのことが教育に限らず合理的に説明できる方向には行かずに、行かないと心情的言辞に逃げる。それは、戦前思考停止を強制した歴史が、現在も内面化していて「君が代」斉唱の時なぜあまねく全員が起立し、斉唱しなければ制裁まであるのか、との根源的な疑問を封殺する心性に繋がっていることに見える。

著者は「垂直的序列化」と「水平的画一化」ではない「水平的多様化」を提唱する。これを分かりやすい広告表現で言えば「みんな違って、みんないい」であるし、「個々人が、様々な独特なあり方で生きられる」ことであるのだろう。それを保証する生き方を提示するのが教育の役割ではなかったか。どこまでも狭められる教育ができることに、前川さんも危機感を抱いているのだと思う。そうでないと人間そのものを狭めることになるからだ。(本田由紀著 岩波新書 2020.3)

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