kenroのミニコミ

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「かなわん人」も受け入れる度量が問われてる  マイク・リー「家族の庭」

2011-12-19 | 映画
マイク・リーは家族を描くのが本当にうまい。それも、何の変哲もない、ヒーローやヒロインがいるわけでもなく、「本当の」家族探し、自分探しに旅立つドラスティックな経験をする主人公もいない。ただただ、日常の瑣事に追われ、あるいは、楽しみ、少し困った友人らと過ごす。ただそれだけだ。けれど、それら日常に追われている人も、少し困った人もとてつもなく愛おしく思えるのが、マイク・リーの描く人たちなのだ。
初老の夫婦、トムとジェリーは(大昔のアメリカアニメだったかネコとネズミの組合わせとは無関係だが、パクッてる?)、お互い仕事を持ち、尊敬しあい、休日は野菜造りにいそしむ理想的なカップル。弁護士の息子ジョーも好青年。が、30歳になる息子の伴侶が見られないだけという申し分のない「家族」像だが、ジェリーの職場の友人メアリーは2度の離婚歴あり、男運に恵まれないと酒とタバコにおぼれては、ジェリー宅に甘えて居座る。
トムの古い友人ケンは、退職も間近だが、さびしい日常をこれまた酒に逃げている。トムの兄ロニーは地質学者のトムとは違い、肉体労働者階級。妻を亡くし、そこに現れた息子カールは、母が亡くなったのはロニーのせいと罵声を浴びせ、去ってゆく。メアリーは早朝に突然ジェリーらを訪ね、いままで優しかったジェリーから「失望したわ」。
実は、本作はジェリーとトムをめぐる、そして彼らを中心にめぐる四季(作品の描き方は春夏秋冬、そして原題はAnother Year 「もう1年」である)を描いたのではなく、主人公はメアリーだったのだと気付いたのは、作品も終盤になってからである。
メアリーは自分のだらしなさ、無計画、ムラ気はたなにあげてとにかく自己中心、ジェリーらに同情を引きまくり、ジェリーの息子ジョーにまで色目を使い、なんとかいい男を捕まえようと必死である。しかし、周囲はメアリーの自分勝手に「またか」といなして、流して無視するのだが…。メアリーの「私は…」という自己主張、自分が注目を浴びていないとおさまらない性癖はエスカレートして。
最初はメアリーのようなキャラクターが実際身近におれば辟易するだろうし、筆者は基本的に家に招き入れたりしないだろう、と思った。そして、そもそも職場が同じでも友人となることはないのではないか。それら、いわば「かなわん人」との接触はできるだけ避けたいというのが正直なところだ。そして、多くの日本人も。
しかし、メアリーが本作の主人公と分かったところで、これくらいひどい人を友人として受け入れる度量、寛容さが問われているのが本作の肝とわかったとき、ああ、そうか、メアリーはかなわない存在だけなのではない、自分の中にあるメアリーさ、メアリーの中にある自分にはない正直さ、に自己の琴線を問われる、と感じたのだ。
マイク・リーは家族を描くのがうまいと冒頭に述べた。メアリーは独り者だが、ジェリーとトムには息子や、トムの兄ロニーもいて、家族の姿はすべて「理想的」ではないし、もちろん一様でもない。しかし、家族像が多様化する中で、北欧や、アメリカの一部で「成功」しているとされるステップ・ファミリーを持ち出すまでもない。メアリーやケンにとってはジェリーら過ごす庭事態が家族だったのだ。ジェリー、メアリーと同じ職場ではたらく黒人の医師タニヤは出産し、赤ちゃんを連れてジェリーの家を訪れるが、日本ではほとんど見られない光景ではないか。「家族」の趣旨は、閉鎖的血縁関係をも超える。
 マイク・リーは「ハイ・ホープス」「秘密と嘘」「人生は、時々晴れ」と家族をめぐる小さな出来事をそれら小さな出来事に全身全霊悩み、葛藤する市井の民の姿を描いてきた。そのどれもが、やさしい目線で描かれ、見ているこちらまで「かなわん人」にまでやさしくなってしまう。一人ひとりが大事だ。
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