kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

歴史は常に傷ついている 「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」

2024-06-29 | 映画

アンゼルム・キーファーは、ナチス式の敬礼を自らなし、あちこちで撮った作品に批判が上がったという。表現方法自体がドイツでは禁止されているからだ。

実はこの「ナチス式敬礼」については筆者自身とても苦い思い出がある。中学生の時野球部に入っていた。県大会の市の開会式だったか、行進する際に誰かが、「指揮台の前を通る時、みんなで右手をあげたらカッコいいんやん」と言い出し、それに従ってしまったのだ。もちろん誰もそれがナチス式敬礼だとは知らなかったのだろう。引率の教員も。日本だから許されたようなものだが、「知らない」ことは罪ではないのか。

「知らない」ことと「知っている」のに触れないこととは違う。それがナチスドイツの蛮行を経験した戦後ドイツの姿だった。それをあからさまにしたのがキーファー。ナチスの首謀者は処刑などで罰せられた。国際手配されている者もいるが、もうその復活を企図する者はいないし、ドイツ国民もあの時代を悔いている。ナチスに加担した下々全てを罰するのは現実的ではないし、それでは国が復興することの妨げにもなる。だから、記憶を喚起する、見たくないものを再び芸術表現だからといって顕にすることに対する拒否感は大きかった。

しかし1945年生まれ、ナチスの時代を経験していないキーファーに遠慮はなかった。と言うべきか、隠されたものが隠されたままで良いのかを問いたかったのだろう。ナチス式敬礼だけではない、キーファーが取り上げたナチス時代の表象は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの絶滅収容所への途を想起させる線路、雪原に無数に並ぶ名もなき墓標、さらには肉体のないのに膨らみのある白い衣服。そこには記憶と記録を呼び起こす仕掛けがある。キーファーが美術作品を発表し出した60年代はまだナチス時代を生きた世代が中心。そこに忘れたふり、なかったふりでいいのかと突きつけたのだ。

だが、おそらくクリスチャン・ボルタンスキー(※)のようにユダヤ人の出自ではないキーファーにとって戦争は、被害者の視線ではない。加害者の視点とともに傍観者の視点をも許されなかったのではないか。だからあえて物議を醸す表現を選択したのだ。

ドイツにいた頃から、大作を手がけるキーファーであったが、より広い制作環境、もうそれはアトリエというより巨大な工場と倉庫である、を求めてフランスの地方に拠点を移してますます巨大化していく。そして扱う画材!も金属やシダ類、それを燃やしたり、焦がしたり。しかし出来上がった画面は意外と重くには見えない。一昔前の絵画を評する際に使用する用語、マチエールの巧みさということになるのだろうか。スチールといった本来人工的・無機質な材料は、芸術家にとってミニマルアートやランドアートの時代、歴史とは無縁に表現を拡張するためのマテリアル(マチエールである)の一種で済んでいた。しかし、そういった無機質なオブジェクトに歴史を封入する試みは、見る者にその連関性を深く想像させる効果を持つ。もちろんハナから現代アート・マテリアルを強調した作品に興味を持てない人にとってはそうでもないだろう。しかし、先ごろ日本で個展が開催されたゲルハルト・リヒターが絶滅収容所での隠し撮りに拘ったように、何らかの歴史上の蹉跌に向き合おうとするドイツ出身の芸術家はある意味、作り出す表象の向こう側にその総括しきれない困難を込めようとしていることを考えても良いかもしれない。

映画は、終始かすかに聞こえる囁きや、ある意味壮麗な音楽に包まれている。キーファーは、ギリシアをはじめとするヨーロッパでのキリスト教以前の価値観、神話も題材にするという。人類が文明を持って、たかだか数千年。纏いきれない囁きはずっと流れていたのに気づかなっただけだ。(ヴィム・ベンダース監督「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」2023 ドイツ 公開中)※参考「圧倒的な生の不存在 クリスチャン・ボルタンスキー展」 https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/62a13d12d634f777521410f82a0488c2

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戦争をめぐる相克 忘れ去られた美術界のジェンダー視点『女性画家たちと戦争』

2024-06-25 | 書籍

画家たちの戦争責任という場合、そこでは藤田嗣治をはじめ、男性ばかりが取り上げられる。そこに女性はいない。Herstoryはなくhistoryのみだったのだ。

では女性美術家はいなかったのか。実は、明治政府が西洋の美術・文化を吸収、発展させようと設立した工部美術学校は女性に門戸が開かれていた(1876年)。日本で最初のイコン作家とされる山下りんや神中糸子がそうである。しかし、工部美術学校廃校(1883年)後、美術に特化した高等教育機関として設立された東京美術学校(1887年)には、西洋画科も設けられず、女性の入学も許されなかった。以後、女性の美術家志望者の私塾以外の公の教育機関としての受け皿は(私立)女子美術学校(女子美。1900年)だけとなった。女性が正規教育として美術を学ぶ機会を奪われた17年間に伸長したのは、「良妻賢母」思想であった。女性を家庭という私領域にとめおく今日の性別役割分業の始まりであったのだ。しかし、美術を学びたい、絵を描きたい女性たちはいたが「洋画家」になるにはさらにハードルがあった。

女性の洋画家としての活動、継続には同好の士のネットワークが必要、有用であった。やがて女子美の卒業生らも交えて、女性画家の存在を認めさせ、地位向上を図る中で時代は戦争へと突き進む。女性画家たちも当然戦時体制へと組み込まれ、奉国の証を立てんとする。そのような時代背景に描かれたのが大作《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944 原題は一部旧漢字)である。《働之図》は、〈春夏の部〉と〈秋冬の部〉の2部構成であり、いずれも多数の女性画家による共同制作となっている。藤田嗣治をはじめ男性画家が従軍し、それぞれ個人の作品を制作したことの違いが明らかである。制作は「女流美術家奉公隊」。そして軍の要請による制作である「作戦記録画」のうち、洋画が主に戦地や戦況など具体的な事件、事案をモチーフとしているのに対し《働之図》は、「働く銃後の女性をテーマにした」合作図である(桂ユキ子の回想。107頁)。制作の指揮は長谷川春子が、構成の差配は桂が主に担ったことが分かっている。長谷川春子は現在では画家としての記憶にあまり残っていないと考えられるが、戦前「女流画家」界でトップの地位にあり、ネットワークを牽引した。

《働之図》には、銃後のあらゆる場面がおよそもれなく描かれている。戦闘機、弾薬など軍需物資の工場、田植えなどの農作業、傷痍軍人への慰問、さらに女性鼓笛隊の行進や炭鉱、水運、漁業など。制作された1944年はもう戦況も悪く、男性の働き手が極端に減っている銃後において、女性も本来力仕事であるどのような職種にも参画せざるを得なかったことから、描かれている男性は極めて少ない。そして上記のような生産や直接戦意鼓舞とは関係のなさそうな家内労働なども描かれている。まさに「愛国」の発露、「総動員」「挙国一致」である。

《働之図》は、同年に開催された陸軍美術展(3/8〜4/5 東京都美術館)に出品するために限られた制作時間、3部作(「和画の部」もあったようだが所在不明とのこと)という大作では共同作業にせざるを得なかったこと、そして「女流画家」の統制と奉国の意思統一という側面があったことであろう。現在〈秋冬の部〉が、靖国神社の遊就館に所蔵されていることは象徴的である。

さて、長谷川と並びすでに「女流画家」の中では傑出した存在であった三岸節子は、制作にはスケッチ程度で実際には関わらなかった。その点を長谷川に「非国民」と罵られた三岸は(104頁)、それまで共に仲間の地位向上などに尽くしてきた仲の長谷川と袂を分かつ。

戦後になり、戦争画に関わった男性画家たちはどうなったか。藤田嗣治は日本を離れ、二度と帰国しなかったし、戦争画に関わったことに触れられるのを嫌がった小磯良平など多くは発言さえ控えた。

一方「当時の戦いを聖戦として主張していたミリタリズムの信奉者であり、この戦争への否定や疑いはなかった」とされた長谷川は(田中田鶴子の回想。215頁)はやがて美術界を引退、忘れられた存在になっていく。三岸が94歳で没するまで旺盛な制作活動を継続したことは周知の通りである。女性画家たちの戦争をめぐる相克が《働之図》制作に至る過程で窺い知れるのである。

一点、本書と直接関係はないが、神戸市立小磯記念美術館にて「貝殻旅行 三岸好太郎・節子」展(2021.11.20〜2022.2.13)が開催された際に、「画業の長さ、展示作品数からすれば「三岸節子・好太郎」展ではないか。せめて「三岸好太郎・三岸節子」展とすべきではとアンケートに書いたが、さて。(吉良智子『女性画家たちと戦争』2023平凡社)

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待っていた好著  『この国(近代日本)の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』

2024-06-05 | 書籍

「明治期以降、徐々にその輪郭と内実が形成されてきた日本の帝国主義・植民地主義が産み落とした鬼子として現代に残る歴史否定・人種差別・異性愛規範・健常者中心主義等々が未だにこの国(近代日本)で支配的であることを改めてはっきり認識した。」「本書は、「美術」というフィールドを足場に、そうした帝国主義・植民地主義の残滓を払拭することに挑戦している」(山本浩貴「おわりに」812頁)。

本書の目的は上記のように明らかだ。しかし、それをどう論考で説得づけるか、切り口はいずれか。浩瀚な参照文献と、同時代アーティストへのインタビューでそれは成功していると言えるだろう。では編者(小田原のどか 山本浩貴)を突き動かしたプロジェクトの発端、危機意識はどこから出現したものか。それは「飯山作品の検閲」(2022年、飯山の映像作品を『In-Mates』が東京都人権プラザにより上映中止となった)であるという。

本書には、飯山由貴自身のインタビューも収められているが、関東大震災での朝鮮人虐殺を描いた動画に対し、その事実を認めたくない小池百合子都知事に都が忖度したことは明らかであった。しかし、芸術作品の検閲や出展中止、開催禁止は飯山の件だけではない。2019年のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の動きがエポックメーキングとされるが、むしろそれまでに内在、顕在していた「現代に残る歴史否定・人種差別・異性愛規範・健常者中心主義等々」が「その後」展によってさまざまな事象が集成されたと言えるだろう。既知の通り、「その後」展では爆破予告が、「その後」大阪展でも不審物の郵送があった。

「その後」展は、この国(近代日本)にすでにある不可触なスティグマを分かりやすく展示したに過ぎない。「従軍慰安婦」を表す「平和の少女像」、昭和天皇の写真を燃やすシーンが映り込む動画、沖縄における米軍の駐留、横暴(に結託する日本政府)に対する揶揄などである。これらはすべて「近代日本」に端を発することだ。つまり日本に「美術」がもたらされたのは近代になってからであり、美術以前(近世の絵画芸術や手仕事を思い浮かべると良いだろう)にはあり得なかった、すなわち「帝国」の出現以降のことだからである。そこには絶対主義天皇制を基盤とするヒエラルキー、当然下位の者が存在する、に絡め取られた差別構造、「外国人」たるエスニシティ、ジェンダー、台湾・朝鮮半島・満州などの植民地支配の必然的帰結であるコロニアルの問題等々がある。しかし「美術」はそれを避けていた。少なくとも問題提起にはひどく無関心で、逆に「その後」展のように剥き出しのレイシズムが噴出した。

本書をかいつまんで紹介する任は筆者の能力を超えるが、沖縄、アイヌといったマージナルな領域の描き方、描かれ方、それに伴うヤマト=「日本」といった虚構の論考。「慰安婦像」をめぐる表象とジェンダー規範、あるいは天皇と戦争画の関係、さらには被爆地広島出身でシベリア抑留の経験もある地元の画家四國五郎の再評価、大杉栄にゆかりの美術家を取り上げた小論、ブラック・ライブズ・マター運動とアートとの関係、そしてこれらに挟まれるアクティビスト、作家のインタビューや論考も読ませる。美術関連書と言えるのだろうが、図版の少ない800頁を超える大著にして夢中になれる。これらの視点と行動力を知らなかった美術「好き」が恥ずかしいくらいだ。

個人的には、筆者も何度も見(まみ)えた彫刻家舟越保武の《ダミアン神父》の作品名変更の経緯がとても興味深かった。先ごろ、世界最多の有権者を擁した選挙と言われるインド総選挙が報じられた。インドは「世界最大の民主主義国」を自称するが、もちろんモディ強権政権にそれを信じる者は少ない。それに抗い、抵抗してきた作家、文筆家にアルンダティ・ロイがいる。ロイは反グローバリズムの立場から「帝国」を論じるが(『帝国を壊すために』2003 岩波新書)、日本も天皇制軍国主義下と戦後もその流れを断ち切れなったと言う意味において間違いなく「帝国」であり、だから人に見せ、考えてもらう契機としての「芸術」を扱う「日本美術史」も「脱帝国主義化」の必要性があるのである。(『この国(近代日本)の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』2023 月曜社)

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