kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

お酒に魅せられる素敵な女性たち 「カンパイ! 日本酒に恋した女たち」

2019-06-27 | 映画

佐伯夏子のような女性がこんなに多くいるものだなあ、と感慨深かった。というのは冗談だが、佐伯夏子はあの日本酒造りを描いた名漫画「夏子の酒」の主人公である。夏子は幼い頃から蔵に出入りし、天性の(酒)利き能力を持つ。東京の広告会社に就職するが、蔵の後を継ぐはずだった兄が急逝し、新潟の家に戻る。そこで兄が再生しようとしていた戦前の幻の酒米「龍錦」を見つけ、酒造りにのめり込んでいく。これでは「夏子の酒」の宣伝ブログになってしまう。

「カンパイ!日本酒に恋した女たち」は、小西未来監督の前作「カンパイ!世界が恋する日本酒」(日本酒の深さと造り人の広がりに「カンパイ!世界が恋する日本酒」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/7b1c2489efcf5fa59028c035283cf899)の続編である。本作で取り上げるのは前作と同じ3人。広島の小さな造り酒屋今田酒造の代表取締役にして杜氏の今田美穂、東京の日本酒バーで料理との「ペアリング」を常に目指す唎酒師千葉麻里絵、そしてニュージランド出身で日本酒ソムリエの資格を持ち、国内外に日本酒の魅力を伝道するレベッカ・ウィルソンライ。女性杜氏も今では複数存在するが今田美穂はその先駆けという。映画に登場する元『dancyu』副編集長の神吉佳奈子は言う。「(蔵が)女人禁制だった理由は、(縁起や穢れといった理由より)重労働だったことと、出稼ぎの蔵人が半年間集団で寝泊まりするため、女性がいると不都合だった」ためで、近代化、機械化した中でもう女性が酒造りをすることに違和感はないと。そうはいっても重労働である。今田杜氏は朝4時とかに蔵に入る。今田さんは「結婚や(異性との)付き合いなど考えたこともない」と言うが、そのような女性しかつとまらないのであれば、まだ女性にとってはハードルの高い職場と言えるだろう。でも、シェフとかパテシエとか職人を目指す職場というのはそういうもので、労働条件がイコールブラックかどうか、やりがいの搾取かどうか側から判断するのは難しい。

千葉さんもレベッカさんもそこに至るまでの勤勉・労苦は計り知れない。好きでだから、お酒を愛しているからでないとできないだろう。3人とも言わば日本酒「道」の求道者である。しかしそこには不思議と禁欲的であるとかの悲壮感は感じられない。ああそうか、何らかの道を極めることが男にだけ求められていた時代、蔵に女性が出入りできなかった時代、に思い浮かぶような求道者像は男のそれであったのだ。ここにも筆者自身のジェンダーバイアスが介在している。禁欲的、世捨て人のような求道者もあっていい。しかし、それは当然ジェンダーとは無関係であり、だからこそ楽しく、もちろん厳しく道を極める彼女らの姿がある。千葉さんは、お酒だけを楽しむ世界から、料理にあったお酒を、あるいはその反対をいくお酒の供し方、料理のもてなし方を模索する。今田さんは広島の地元に埋もれていた育てにくい酒米を復活させ、YK35(原料の酒米には山田錦を使い(Y)、『香露』で知られる熊本県酒造研究所で分離されたきょうかい9号(K)という酵母を使い、精米歩合を35%まで高めれば(35)、良い酒ができて鑑評会でも金賞が取れる、とした公式めいた語をさす。=ウィキペディア)を脱皮した、「公式」にとらわれない新しいお酒がどんどん生み出されているが、今田さんのお酒はまさにそれである。レベッカさんは日本酒の可能性を世界に広げようと飛び回る。現在世界でもっとも人気のある日本人アーティストの一人、村上隆と酒蔵をコラボさせるなど貪欲にも見えるが、村上隆の戦略も見逃せない。がここはそれはひとまず置いておこう。

政権与党の「女性活躍社会」に最も白けたのは当の働く女性たちであったという。女性が普通に働くことを「活躍」と絶対見なさなかった、あるいは、女性だからというだけで「活躍」を求める欺瞞性を見抜いていたからに他ならない。そして街角で必要性もなく性別を聞いた番組が謝罪に追い込まれるなど(その良し悪しはさておき)、今や性はたった2種類と捉えること自体が時代錯誤かもしれない。

しかし本作で言えば、やはり、お酒に魅せられ、その魅力を広めようとする女性たちの姿は素敵だ。

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圧巻の論稿『キュビスム芸術史 20世紀西洋美術と新しい〈現実〉』

2019-06-23 | 書籍

著者は現在における日本のピカソ研究の第一人者である。そのピカソが試みたキュビスム世界を浩瀚な資料の渉猟を通じて明らかにしていく。とにかく緻密である。研究書というものはそうでなければならないことは分かっているが、キュビスム絵画ですぐに思い浮かぶ四角な矩形の一つひとつを丁寧に剥いでいくように、論は進む。キュビスムを巡る言説を丹念に解きほどいていく。著者の論考を敷衍し、逐一の解説を付すことは私の能力では到底できないので、そのエッセンスと魅力を紹介したい。

印象派の出現以降、近代を彩る絵画の世界は20世紀に入り、その印象派を土台としてフォビズムや表現主義と並んでキュビスムが勃興する。ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が描かれたのが1907年。この作品によってフォビズムから脱却したピカソは、翌年ブララックとともにキュビスムを発表する。ピカソがそこに至るのには、モーリス・ドニらのナビ派からフォビズムへとの表現主義的流れもキュビスムの到来を予見させるセザンヌのタッチなど多くの影響が見て取れるが、著者が引用する批評家ルービンによれば「セザンヌ的キュビスム」(ただしこの語を著者は用いない。)はブラックのもとで生まれ、その後ピカソに影響を与えたとする。そして「アヴィニョンの娘たち」でも描かれている中に黒人もいることから分かるようにアフリカ芸術=広義にはプリミティヴ・アートの要素も当然ある。

要するに1909年からピカソとブラックが「分析的キュビスム」を始め、それが後にはシュルレアリスムへつながっていったなどという簡明、超大雑把な美術史展開を拒否するのである。ピカソのどの絵が誰のどの作品につながり、ピカソ自身のいつのどの素描が後年どの作品につながるのか、あるいはどう変化したのか、それはピカソやその時代の誰の言説によって後付られるのかを丹念に紐解いていくという、まるで何万ピースもあるようなジグソーパズルを完成させるような気の遠くなる作業である。

それには1900年代の美術批評はもちろんのこと、それぞれの画家の言葉、キュビスムを強力に紹介したパリの画廊といった言説、プロト・キュビスムから分析的キュビスム、デュシャン兄弟らの身体的キュビスム、同時代に興り、キュビスムとの近接性も高い未来派や様々な制作者らの動向と変遷、そして1914年から18年までのヨーロッパの美術世界にとてつもない影響を与えた第1次世界大戦と美術に携わる人々(中には未来派の画家らのように命を落とした者もいる。)の作品(変化)、さらには第1次世界大戦以後のキュビスムとそれ以外と、著者のパースペクティブは止まるところがない。

本書を理解するには、19世紀末から20世紀初頭に至る西洋美術の基本的理解が欠かせないし、そのためには世界史に通暁しておかなければならない。著者は、日本語版などもちろん出ていない資料を冒頭記したように各国の美術館、研究施設などを渡り歩き渉猟した。であるから研究書であるのはもちろんそうなのであるが、まるで、緻密な謎解きをするかのような圧倒的な説得力にも満ちている。

日本ではキュビスムは根付かなかったというのが一般的理解だと思うが、その中にあってフェルナン・レジェのもとでオザンファンとともに学び、助手までこなした坂田一男が日本のキュビスムの唯一の成功者だと思う。ヨーロッパのキュビスムがどう日本に紹介され、それが咀嚼、大きな力とはならなかったのか、なったのか。著者の次編も大変楽しみである。(松井裕美著 2019年 名古屋大学出版会)

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シベリアを知る、ヒロシマを伝える 四國五郎展

2019-06-17 | 美術

実は四國五郎という画家は、私が関わっている家庭科の男女教習をすすめる団体が母体となった雑誌(家庭の男女教習は1993年中学校で、94年高等学校で実現)「We」を応援するWeの会主催の「Weフォーラム(筆者もずっと参加している。「We」はフェミックス(http://www.femix.co.jp)発行)in広島」で永田浩三さんのお話を聞いて初めて知った。永田さんは、元NHKのディレクターで広島での経験も長い。お話には広島市で清掃作業員として働きながら、自己が日常使う清掃用具や広島の風景などを太い、濃い筆致で描いてきた職業画家ではないガタロさんも同席された。ガタロさんが最も影響を受けたのが、日中戦争に従軍し、敗戦後シベリアに抑留され、その間3歳下の弟を原爆で失った四國五郎である。原爆を描く画家といえば、丸木位里、丸木俊が浮かぶが、四國五郎の画業も見過ごすことのできない迫力だ。

四國五郎の名前は知らなくても峠三吉はもっと知られているだろう。「ちちをかえせ ははをかえせ」の『原爆詩集』の挿絵は四國五郎である。四國五郎は、シベリア抑留中の記録を豆日記に記して靴下などに隠し、飯ごうに仲間の名前を刻み、上からペンキを塗って日本に持ち帰った。当時、ソ連より抑留時代の記録を持ち帰ることは厳に禁じられていたから、凄まじい執念と機知である。後にその記録は「わが青春の記録」として大部にまとめられている。その四國が抑留から解放され帰国した1948年、最も可愛がっていた弟が18歳で原爆で亡くなったことを知る。原爆を実際に経験していないのに原爆によって肉親を奪われ、住み慣れた街を破壊された四國。四國は経験していない原爆の図を描き始める。

大阪大学総合学術博物館で開催されている「四國五郎展 〜シベリアからヒロシマへ〜」(7月20日まで)は、四國の足跡を順を追って伝える。初年兵として1944年10月に広島の第五師団広島西部第10部隊に入営した四國は、間も無く中国戦線に送られ、関東軍に入隊。45年8月9日、長崎に原爆が投下されたその日にソ連軍が参戦、四國は抑留されることとなる。広島の同じ部隊にはあの福島菊次郎がいたが、福島は部隊中に怪我をして中国行きなどをまぬがれた。抑留の3年間で仲間はどんどん斃れていく。その様もスケッチし、四國自身、大病を患い、命の危機もあったが、それ故入院し生きながらえることができた。一方、同じく抑留されたのに日本軍の上下関係そのままに横暴に振る舞う上官への反発から、民主化運動が起こる。当時の社会主義思想からソ連の思惑もあったに違いないが、四國はそれにのめり込んでいく。広島に戻り、弟の死を知った四國は、反戦運動や原爆の記憶の継承にずっと取り組む。詩人でもあった四國は、「辻詩」(同じ画面に画と詩を描いた。画は四國、詩は峠が書いたが、四國が書くこともあった)で戦争と原爆の実相を描き続けた。

転機と言えるものがあるとすれば、1974年。一人の老人がNHK広島放送局に画用紙に書いた絵を持ち込んだ。原爆の凄まじい体験をどうしても伝えたくて、サインペンで書いたという。原爆投下からまもなく29年。その老人、小林岩吉の圧倒される話に、当時の広島局員が番組にして、市民が描いた体験談、原爆の絵を広く募集することになったのである。その番組に深く関与したのが四國である。6月8日の放映には絵を持ち込んだ小林と四國が登場した。悲惨な体験、負の記憶を募集なんてできるだろうかと四國は消極的であったという。しかし幾度もの放送を経て、翌75年にかけて市民から寄せられた絵は2225枚。展覧会ではこれらも紹介されている。

四國の基本姿勢はもちろん反戦平和である。原爆という弟や広島だけで20万人の命を奪った大量殺戮兵器のみならず、1960年代のヴェトナム反戦運動にも関わる。四國を最も有名にしたのは1979年に出版された絵本『おこりじぞう』である。原爆で火傷を負った女の子を助けられなかった地蔵がその無念さ故、怒った表情になって地蔵は頭が丸い石と胴体に別れてしまったというお話だ。その挿絵を担当した四國は「こわい絵本を書くことは難しい…こわいものなど、描きたくないのだが、こわいものを地上から無くすためには描かなければならない」とあとがきで述べる。

「ヒロシマを伝える」四國の生涯のライフワークを伝える本展をぜひお勧めしたい。なお、シベリア抑留経験後、日本での住民運動や抑留被害者救済運動に携わることになった父親の聞き書きを丹念に著した小熊英二さんの『生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後』(2015 岩波新書)は必読である。

(四國の伝記やエピソードは全て『ヒロシマを伝える 詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』(永田浩三 2016年WAVE出版)を参考にさせていただいた。)

 

 

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ドイツもまだ戦争は終わっていない 「僕たちは希望という名の列車に乗った」

2019-06-15 | 映画

刑事フォイル。イギリスのテレビ放映されたドラマで日本でもBSで放送された。これにいたくハマった。フォイルは戦争中、地方都市の警視であったが、警察を辞めた後は戦後諜報機関の捜査員となる。放映された時は「刑事フォイル」だが、原題は「Foil’s war」、「フォイルの戦争」である。であるから、フォイルが経験、見聞きした戦争の実相が深く、丁寧に描かれているのがドラマの魅力である。戦争には戦前、銃後も含む戦中、そして戦後があって、初めて戦争そのものを語ることができると思う。戦争というと戦中の出来事、戦闘や銃後の被害、空襲や様々な人的被害、生活苦などが描かれるのが常であるが、戦後も重要である。というのは、まさに戦中、誰がどのように行動したか、しなかったか、その思惑は、その背景とその後の影響は、と戦争が終わっていないことを直視せざるを得ないからである。ナチスの罪責をいまだに問うドイツをはじめヨーロッパの姿勢が顕著だろう。

そのナチスの暴政に抵抗したりしたため、戦中には必死の経験をして、生き永らえた人たちが政権の中枢にある東ドイツ。ソ連の完全な支配下にあり、その政治体制に異議を唱える者、従わない者は全て反革命、ファシストである。1956年10月ハンガリーで報道の自由、言論の自由、自由な選挙、ソ連軍の撤退などを求める学生らのデモが始まった。11月1日にはナジ・イムレ首相がハンガリーの中立とワルシャワ条約機構からの脱退を表明し、ソ連に反旗を翻した。「ハンガリー動乱」である。しかし11月4日にソ連は軍事侵攻し、2500人のハンガリー人が犠牲になった。再びソ連の支配下となったハンガリーはもちろん、東ドイツでも民衆蜂起を「反革命」「ファシストの扇動」と決めつけ、徹底的にプロパガンダを行う。そのような時代にあって、たまたま訪れていた西ドイツの映画館で民衆蜂起のニュースを見たクルトとテオ。東ドイツの教室で「犠牲になった民衆に黙祷を」との提案を多数決で受け入れたクラスでは歴史の授業の最初に2分間の黙祷を捧げるがこれが思いもよらぬ方向に。首謀者探しに躍起になる学務局員、国民教育大臣まで出てきて、首謀者が分からなければクラス全員に卒業試験を受けさせず、クラスは閉鎖するという。クラスは多くの場合肉体労働者になるしかない現状に反して、大学進学というエリートコースだったのだ。

生徒一人ひとりを詰問する学務局員は生徒の親世代、すなわちナチスの時代を生き抜いた彼らの過去を徹底的に暴き、動揺させる。黙祷に反対していたエリックは、父親はナチスに抗し英雄死したと信じていたが、ナチスに寝返り、ソ連側に処刑されていたことが明らかに。「首謀者」のクルトは父が市議会議長という名門だが、父はこの処刑に居合わせていた。クルトの親友テオの父は1953年の民主化運動に参加したために知識層から、過酷な製鉄所勤務になっていたことも分かった。エリックが苦しさのあまり、クルトを首謀者だと白状したため、クラスは窮地に。クルトをはじめ、クラスの大半は「首謀者は自分」と告げ、西ドイツへの脱出を試みる。史実だそうだ。

映画を見ていると東から西へ検問はあるが、簡単に移動できたことが驚きだ。そうベルリンの壁ができたのが1961年、その前の話である。しかし、西側陣営に入り経済成長する西ドイツに対し、東側=ソ連以下社会主義陣営側の結束を示す必要があった。東ドイツで有名な国民密告=諜報組織、シュタージは映画には出てこないが、学務局員が生徒に密告を促すあたり、とても怖い。そしてその密告の材料にされたのが前述の「戦争中本当はどう過ごしたか、振る舞ったか」である。

冒頭に戦争とは、戦後も描かれて初めて戦争そのものを語ることができると書いた。戦後もきちんと伝えなければ、戦争を総括したことにはならないのである。本作と同時期、統合後のドイツで旧東ドイツ出身の労働者が、将来や展望のない現在に不安を抱え、窮屈だったが皆が平等だった(と記憶を上書きする)東ドイツ時代を懐かしむ映画「希望の灯り」も上映されている。そもそも戦争が東西分裂を生み出し、戦後の苦しみも生み出した。戦争に終わりはない。

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