ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




時間がかかる。

復興にはもちろん、記憶が和らぐにも。

勿論、人の手でどうにかできることに関しては、もう二度と繰り返されないためにも、

決して忘れていいことではありませんが、それでも、あまりに強烈すぎましたよね。

 

実はあの日、僕も、ちょっとした怪我をしました。

僕の手には、うっすらとですが、あの日の傷跡があります。

勿論、どうということでは全然なかったのですが、

擦りむいた手の痛みを覚えているのと、もう少しで大けがになるところだったので「危なかった。怖かった」、という思いが、今でもズシリと残っています。

 

 

突然に、思いもよらぬかたちで、ご自身が命を落とされることになったり、大切な家族や友人を亡くされたり、

大切な家や、ものや、思い出を、失ったりされた方々が、沢山いて、

あれからずっと、今もまだ、不自由な生活をしておられるという現実。

そして、ダブルショックになった忌まわしき原発事故で止められた時が、まだ、一秒たりとも進んでいないところも、恐ろしい程広くありますね。

 

今朝、テレビをつけた時は、たまたまなのでしょうけれども、・・・たまたまだったにしても、震災関係の番組は、ゼロでした。

テレビショッピング、エンタメ(?)ニュース、番宣を兼ねたトーク番組、等など・・・。

テロップにだけは「震災から三年」の文字があった某国営チャンネルも、お料理コーナーをやっておりました。

パラパラと見て、なんとなく、消してしまいました。

 

2011年7月、仲間と、僅か二泊三日でしたが、岩手県・陸前高田市を訪れました。

ブログでもご紹介させて頂きましたので、ご記憶に新しいかとは思いますが

(詳細な記事は、「7月15日」「7月16日」「7月17日」「7月19日」「7月20日「7月21日」「7月22日

速報的に「7月12日」「「7月13日」「7月14日」の記事となります)、

 

僕のような、もう、ほぼ通りすがり程度の、まったくもって当日をその場で経験したわけではない者にとってさえ、

あの三日間は、とても強烈な体験でした。

まるで、昨日の事のように、すべて思い出せます。

そして、今でも、においや、暑さも思い出せますし、同時に、実際に胸に物理的な痛みを覚えるような、締め付けられるような感覚があります。

勿論、一生忘れないとは思いますが、でも、

・・・それでも、僕はまだ、普通に、生活が出来ています。

 

あそこに、人生の拠点を持っている人、持っていた方たちは、

大切な人や、かけがえのないものを失った方々は、この三年、どういう気持ちで過ごされたのでしょう。

 

まだ、わずか3年。

当時「元通りになるには、50年はかかる」という声を聞きました。

 

また、忘れられないのが、

宿のお風呂場で、「どこから?」と、声をかけてもらった現地の若い方に、

「(避難という意味でも、仕事探しという意味でも)外には、出ないのですか」

と訊いた時の言葉です。

 

「出てえけど、一度出たら、二度と戻ってこれねえから(笑)」

 

悲しいことですが、「あいつは(大変な時に)故郷を捨てた」、ということになってしまって、もう戻ってこれなくなる、ということだそうです。

東京のマンションなんかだと、隣に住んでる人の名字も知らないとか、本当に当たり前にありますが、

そういうのと全然違う、人々の繋がりの深い、深い、ところですものね。

何がどうあっても、ここで踏ん張るしかない、ということなのだそうです。

故郷愛があればこそですが、あれからずっと、今も、そんな思いで頑張っておられる方が、沢山いて、

そして・・・そんなことは重々承知の上で、でも、・・・故郷を離れざるを得ない方々も、沢山いて。

 

本当に、これ以上、被災地の皆さんが、できるだけ辛い思いをされないで済むよう、できることは、あるはずですよね。

そして、他人事ではなく、テレビの中の出来事ではなく、現実で、そして、明日は我が身でもある、ということを、ゆめゆめ、忘れてはいけないと思います。

 

ではー。



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