品川隆二さん、この人も私にとって忘れられない俳優さんの一人です。大映時代に
は撮影所だけではなく、イベントや地方の映画館へのご挨拶回りなど、随分一緒に
行動したものです。
彼は後に東映へ移籍しましたが、それでも私たちが京都撮影所での宣伝会議に来
ていることを聞きつけ、ひょっこり宿を訪れてくれたり、とにかく人懐っこい気持ちの
いい人でした。私たちはむ彼の本名、奥秋から"奥ちゃん"と呼んでいました。
彼は昭和8年(1933)山梨県都留市の生まれで、中学3年の時に上京、旧制専門学
校を転々、その頃は大変なやんちゃ坊主だったようです。その後に東洋大学に入り
ますが、昭和26年(1951)にスポーツニッポンと大映が共催した「ミスターニッポンコン
テスト」で選ばれ、大学を中退して大映演技研究所に入り6期生となり、正式入社は
昭和27年(1952)です。因みに同じ6期には南原宏冶、千葉敏郎、三田登喜子がい
ます。
この時期に大映は売り出そうとした川口浩と彼も一緒にやろうと考え、京浜東北線の
駅名から品川隆二と命名されましたが、駅名シリーズは鶴見丈二・川崎敬三と続き
ました。
デビュー作品はチョイ役で「浅草の夜」、主演作品はそれから数本後の「女中さん日
記」です。
人柄もいいので順調に伸びると思われたのですが、彼が付き合っていた女優さんの
ことでスタジオ雀が騒ぎ出し、色々あって嫌気が差して昭和34年(1959)に大映を退
社。約50本の大映作品に出ていますが、「珠はくだけず」「十代の反抗」「薔薇の紘
道館」「浅草の灯」「日本橋」「朝の口笛」「透明人間と蠅男」「青空娘」「暖流」「敵中横
断三百里」「母」「猫は知っていた」「次郎長富士」や、大映で最後になった「総会屋錦
城 勝負師とその娘」などが思い出されます。
大映退社の翌年に東映へ移籍し、現代劇から時代劇俳優へと転身して活躍、更にテ
レビドラマにも積極的に出演、作詞家、ナレーターもこなして器用な所を見せてくれま
した。品川さんは今年で83歳、京都で静かに過ごしていると聞いています。
↑ 門司市(現・北九州市)でのスナップ。永田秀雅、池広利夫(一夫監督の父君)品川隆二、
近藤美恵子らの顔がみえる)
素顔の俳優さん方のお話を知ることが出来て
本当に嬉しいです。大映の映画の皆様の
お話を伺えることが心から嬉しいのです。
品川さんは、鼻筋が通ってらして
整った顔立ちの方ですね。
初めて知ったのですが
芸名が、駅名からだったのですか。
品川、川崎、鶴見、それぞれのお三方
イメージがなじんでるのが、不思議な気がします。
本当にいい男です。あちらこちらと一緒に旅をしましたが、イヤと思ってことは
一度もありませんでした。
三枚目が多い彼ですが、顔立ちの整ったいい男でもあります。
上の欄にもコメントしましたが、美男コンテストで優勝したくらいですからいい男です。
駅名を俳優名にするなんて、他社では絶対にやらないことだと思います。
仰るように上手くハマっていますよね。
元は大映での二枚目俳優さんですよね…市川崑監督の『日本橋』と言う映画では…芸者山本富士子を追いかけながら、同じ芸者の淡島千景に惚れられる医大生葛木役で鶴田浩二の代役と言うのを忘れる位のいい男ぶりを発揮してましたけど、この後、永田秀雅と女優との三角関係で冷遇されてしまったのは残念ですね。
ブログにも書きましたが、品川さんはとてもいい人柄の方です。
でも撮影所の中では、公認の恋愛関係はみなさん納得しても、それ以外の
コソコソはご法度です。
秀雅さんも私は良く知っている方ですが、当時の秀雅さんは撮影所長であり、
彼としては立場上からして認められないことであり、三角関係は無かったと
私は思っています。
ブログにも書きましたが、彼は本当にいい奴です。
大映にいたにツブれていたと思います。まだ元気だと聞いています。
お二人とも是非お元気で長生きして下さい。