勝地(かつち)ブログ

ご意見は下記に
✉ tsunehisa605@gmail.com

vol.9 先人 北垣と島田

2016年11月05日 13時30分05秒 | Weblog
今日も「勝地ブログ」にアクセスいただき、ありがとうございます。


特別展「北垣国道と島田道生」を観てきました。第52回八鹿文化祭のふるさとの先人シリーズです。
昨年11月10日、議会視察の途中で京都府庁旧本館を見学する機会があり、旧知事室に入り執務机も見てきました。

このブログNO2632で紹介してきました。

特別展会場で出会った方と像とともに。


(主催パンフから)
北垣国道 天保7年(1836)〜大正5年(1916)
「養父郡能座村庄屋北垣家の長男として生まれ、幼名晋太郎。7歳のとき、池田草庵の立誠舎に入塾し、27歳まで青谿書院池田草庵のもとで論語など漢学を学びました。尊王攘夷派の活動にのめり込んでいき、文久3年10月生野の変を企てましたが失敗、氷ノ山を越えて鳥取に逃げ、名前を柴田捨蔵・八木龍蔵と変えて鳥取藩に仕官しました。坂本龍馬と親交を深め、蝦夷地開発を夢見ました。勝海舟に師事しました。
明治新政府に仕えると、北海道及び樺太巡察、開拓使として北海道から活動を開始し、熊本県知事、高知県知事、徳島県知事を経て、明治14年(1881)、45歳で第3代京都府知事に就任しました。
北垣知事は、京都に琵琶湖疏水を作って飲料水や工業用水を確保し、この水を利用して日本最初の水力発電所を造り、その電気で日本最初の市電を走らせました。
その後、内務次官の発令を断り、第4代北海道庁長官となって北海道の鉄道や港湾などの開発に尽力しました。北垣が内務大臣井上薫の諮問に答えた「北海道開拓意見具申書」は、北垣12年計画と呼ばれ、後の北海道開拓の基礎となりました。
北垣が開発の基礎を築いた小樽には、北垣の号をとった静屋通りが今も市民に親しまれています。」




そして、島田道生です。
(主催者パンフから)
島田道生 しまだどうせい 弘化元年(1844)〜大正14年(1925)
「養父郡八鹿村島田家の3男として生まれ、幼名管蔵。北垣晋太郎が立誠舎で学んでいる8歳の時に近くの下町で生まれており、2人は幼少の頃より知り合っていたことでしょう。江馬天江及び中西耕石に絵と漢学を学んでいます。
明治5年開拓使仮学校に入学。入学条件20歳までの者でしたが、島田は27歳、開拓使に勤務していた北垣国道の推挙により22歳として入学を果たしました。ライマンに図学・測量術を学びます。北海道開拓使測量長M・S・デーに随い、北海道の各地を測量して回り、精密な測量技術を習得しました。
この後、島田は北垣と行を共にします。熊本県、高知県、京都府、北海道と、必ず北垣の勤務地に招かれているのです。島田は生涯、北垣に引き立てられ、また彼に尽くしました。
琵琶湖疏水事業に関しては、もっとも貢献度の高い人物の一人です。明治15年琵琶湖疏水の基本構想で策定された水路を測量、精密な測量図を作り上げたのは島田です。三角測量の積算値と実測値の差が驚異的に小さかったことが島田の測量技術の優秀さの証明として後々まで話題となりました。
京都宮津間の車道開削工事の測量や、明治20年には舞鶴鎮守府(軍港)建築のため舞鶴湾を測量しています。
北海道では、開拓の基礎となる鉄道の建設や港湾の整備に、測量技師としてその技術をいかんなく発揮しました。」


二人にこんな関係があったとは知りませんでした。諏訪町と下町で幼馴染みだったとは。
ふるさとの先人は奥が深いですね。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« vol.8 モゾモゾ | トップ | vol.10 ハクビシン »
最新の画像もっと見る