kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

 傷だらけの木の生きざま・・・生命力に感動

2011-07-29 07:43:40 | 日記
上野駅の公園口の信号を渡り、左側の道路をあるくと、直ぐに、上の樹木がある。
この道路を歩くたびに、気がひかれる。大木であるが空洞が上下に2個開いている。
空洞が、幹を貫通し、向かい側が良く見える。
この木の生命力に感動した。ここを通り人に同じ感動を与えているであろう。
また、上野公園の歴史をつぶさに見ているであろう。知っておきたいものとして

彰義隊の墓

将軍徳川慶喜は新政府に恭順し上野寛永寺に蟄居する。 慶喜の一橋家時代の家臣による助命歎願の同士の集り、拾数人が彰義隊の始まりだった。
その後幕府崩壊で旧幕臣の一分が加わり2千人規模に膨れ、官軍との摩擦が起きる様になる。
政府は大村益次郎を総司令として派遣し、大村の綿密な作戦で彰義隊は1日で壊滅する。 
200人以上の彰義隊戦死者はこの場所で火葬にされた由。 ここに墓を作るに当り政府の許可を取るのに関係者は苦労したようで、墓標には只「戦死の墓」とあるのみ。 しかし当時は埋めて置かれたという小さな墓標には彰義隊の名が掘り込まれ、戦死の墓の墓標の前に置かれている。

清水観音堂(重要文化財
広大な寛永寺は彰義隊戦争で殆ど焼失したが、一分は焼けずに所々今も公園内に残っている。 
この寛永寺を建立するに当り、上野山界隈は天台宗の本山である比叡山をモデルに設計され、山全体を東叡山と呼び、不忍池は琵琶湖に、弁財天の島(今は陸続き)は竹生島に見立てている。
この観音堂は寛永寺の焼け残りの壱つであり、京都の清水寺をモデルとしている。 

今日7月29日も、昼までに上野に行く予定がある。不忍池の蓮根の開花はどうなっているだろう。
覗き込む予定です。楽しみです。