小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

藤村「近親相姦」事件 5

2007-09-01 20:10:58 | 小説
 晩年、こま子は語っている。
「私はよく『あなたはなぜ自殺しなかったのか』と聞かれます。幾度も死を考えたことはありました。でも、どんなに死にたくても、死ぬこともできないような立場におかれたのが、私の苦しい運命でした。私の自殺は、叔父の名声を一日でうちくだくからでした。私の恥じよりも、私は必死になって、叔父の名声を守ることが叔父に対する愛のまことだと思っていたのです」
 藤村研究家の伊東一夫に、やっと打ち解けて話した言葉である。(島崎藤村コレクション3『藤村をめぐる女性たち』伊東一夫著・国書刊行会)
 こま子は藤村を、どこまでも愛していたのである。だから、伊東一夫が『新生』の発表を本当に彼女が同意したのかと質問すると、こう答えているのだ。
「叔父と一緒に生活してみて、表からはわからない、作家の苦労の烈しさというものを、私は身にしみて知りました。作品が書けず、二日も三日も苦しみぬき、呻き声をあげている叔父のみじめな姿を、よく目にし、耳にしました。(略)そのような叔父の苦しみを目の前にしておりますと、私はとても黙ってみすごすことができなっかたのです。もし『新生』を書くことで、身を刻むようなこの苦しみから、叔父が抜け出すことができるならば、私はどんなになってもかまわない。私はそんな気持で叔父に書くことをすすめたのです。発表の承諾などというような、ありふれた取り引きではなかったのです」
 こうした、なかば悲壮な彼女の心情を、藤村は利用したという気がしてならない。
 完成した『新生』に失望し、芥川のいう「老獪な偽善」を見抜いたのは、ほかならぬ節子のモデルのこま子であった。事実の3分の一しか書かれていない、書きにくいところを極端に省略したり、曖昧にぼかしている、というのが伊東一夫に語った彼女の『新生』評である。