小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

堀辰雄『菜穂子』  〈ヒロインシリーズ 8〉

2012-09-27 14:53:57 | 読書
 菜穂子さん、あなたを生み出した作者の堀辰雄の友人に萩原朔太郎という詩人がいました。その親友の萩原朔太郎が、堀文学を評して「お嬢様文学」とキツイ言葉を書きつけたメモを残しているのを知りました。「お嬢様文学」の、あなたはまさしくお嬢様でした。
 少女の頃は信州の別荘地でテニスをしたり、自転車に乗ったり、有名な作家と母上が知り合いだったり…。そして結婚相手は元銀行家の息子で商社マン。
 けれども小説の中のあなたは28歳、結婚生活もすでに3年を経ています。いつまでもお嬢様気分ではないでしょうに。
 夫が10歳年上なのがご不満ですか。夫の母親と同居しているのがご不満ですか。夫がすこしマザコン的なのが嫌ですか。よくある話じゃないですか。
「不安な生」から逃れるために結婚したなどと訳のわからないことを言うものだから、姑や夫と闘えないのです。
 胸を病み、サナトリュウムにひとり暮しをすることになったとき、あなたの周囲には死に瀕した患者たちがいました。あなたはそれこそ生と死についての根源的な問題を見つめなおす絶好の機会に恵まれるのに、いつも自己中心的な思考回路で、ムード的な物思いに耽っているだけでした。
 雪の日にサナトリュウムを抜けだして、東京に舞い戻ってくるのも、身勝手な行動といわれても仕方ないでしょう。麻生のホテルに泊り、夫が「もう、二、三日このホテルにこのまま居ないか、そうして誰にも分からないように二人でこっそり暮らそうか」などと言ってくれるのではと期待するあなたは、おやおやどうなっているのと言いたくなります。日頃のあなたらしくもない。
 あなたの生みの親の創作「覚書」を見ると、こちらが気恥ずかしくなるほどですが、あなたが作者の手を離れて、一瞬活き活きと見えるのは麻布のホテルの場面でありました。
 菜穂子さん、かってあなたとあなたのまとう雰囲気に憧憬を抱いた10代の私自身を断罪するつもりで、これを書きました。
菜穂子―他五編 (岩波文庫)
堀 辰雄
岩波書店

『野菊の墓』の民子  〈ヒロインシリーズ 7〉

2012-09-26 08:43:51 | 読書
 物語は明治20年代の矢切村から始まる。
 矢切の渡しがある。はかない男女の恋物語の典型的な書割、その矢切の渡しで、幼い恋人たちは、今生の別れとなるのも知らずに、別れた。
 民子は17歳、(千葉県)市川から矢切の豪農に手伝いに来ていた。町場の娘だから農作業は得意ではなく、女中ということでもなく、2つ年下の政夫の母の看護が主な仕事であった。
 民子と政夫はいとこどうしであって、民子も乳呑児のときに政夫の母の乳を飲んだこともある。つまり姉弟のような育ち方をしてきた二人だった。
 その仲良しぶりが旧弊な田舎のことゆえ、とかくの噂になる。 そして二人の将来を憂慮した大人たちによって、その仲は引き離される。
 しかも民子は、政夫の母の強い勧めで無理やりに嫁に出され、身重になって6ヶ月で流産し、彼女自身あっけなく死ぬ。「矢切のお母さん、私は死ぬのが本望であります」と、臨終には政夫の母に精一杯のことを言ってである。
 物語が哀しいのは、みんな善意の人たちばかりなのに、その善意がいつしか悲劇的なことがらを織りなしていくことだ。
 大人たちが、民子と政夫の純愛に気づいたときは、もう遅かった。
 民子が死んでから、彼女の真情がわかって、誰もかれもが大泣きをする。政夫の母は「民子を殺したのは自分だ」と泣く。民子は死ぬ間際に、枕の下に政夫の写真と手紙を隠していた。手紙を読んだ民子の父が男泣きに泣き、祖母が泣く。
 そして作者の伊藤左千夫が泣く。根岸短歌会の散文の勉強会で、この自作を朗読した作者は、すすり泣きながら読んだという。
「民子は余儀なく結婚して遂に世を去り、僕は余儀なく結婚して長ら得ている。…幽明遥けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ」と作者は結んだ。
 作中の政夫は、民子の墓に七日通って、周囲を一面の野菊で飾った。
野菊の墓―他四編 (岩波文庫)
伊藤 左千夫
岩波書店

芥川龍之介『六の宮の姫君』

2012-09-25 00:18:35 | 読書
 平安の時代のことだ。六の宮の姫君は父と母をほとんど同時に失い、みなし子同然となった。頼るのは乳母ひとりだ。売り払う家財も尽きて、ついに乳母の斡旋で、ある役人と体を売るのも同様に暮らしはじめる。ところが男は地方に転勤となり、姫を捨てるようにして単身旅立つ。5年の任期が終れば帰ってくるといったくせに、6年目の春が来ても帰って来なかったのである。
 乳母はまた別の男の世話になれと勧めるけれど、同じような話があったときの6年前の悲しい記憶がよみがえり、「わたしは何もいらぬ。生きようとも、死のうとも一つ事じゃ…」と姫は呟く。
 それから3年後。
 雨の日だった。朱雀門の前の曲殿で、栄養失調で不気味に痩せ細ったからだを破れ筵に横たえて、まさに息絶えようとする女乞食がいた。
 かっては琴をひき歌を詠んだりして優雅に暮らしていた姫君の末路だ。
 軒下にいた法師が姫を抱き起こし、「一心に仏名をお唱えなされ」と叱るように姫をはげますが、彼女は念仏を唱えようとせずに死ぬ。
 朱雀門で、夜になると女の泣き声が聞こえるという噂がたちはじめる。幽霊見たさに月夜に朱雀門を訪れた侍の耳にもそれは聞こえた。思わず太刀に手をかけようとすると、傍から例の法師が声をかける。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる」と。
 『今昔物語』の一説話を忠実になぞった小説なのだが、芥川はなぜ原作にない、こんな法師の言葉をつけ加えたのか。
 ぬかすな法師。
 ふがいないのは、姫を救えなかった男どものほうだ。その臨終で姫に生きる力を与えてやれなかった法師の法力のほうだ。
 朱雀門に聞こえる女の泣き声は、汚辱にまみれて心疚しく生きている男たちを告発するすすり泣きではなかったのか。
 心疚しき男たちの幻聴のもたらす超常現象だと、なぜ言ってやれなかったのか。ふがいない女とは、それはないぜ芥川さん。

太宰治『桜桃』の妻

2012-09-24 06:32:44 | 読書
 お前は体のどこにいちばん汗をかくかと、夫に問われて妻は答える。
「この、お乳とお乳の間に、…涙の谷、…」と。
「涙の谷」、この言葉はリフレーンのように作品中に5回出現する。夫が反芻するのである。
 7歳の長男、4歳の長男、1歳の次女、つまり3人の育児の苦労に加えて、夫の放蕩無頼と生活苦に耐え忍んでいるのが妻だ。(作中では母と呼ばれる)その妻の内面には、かなり荒涼としたすさんだ風景があるはずなのに、彼女はどこまでもたおやかで、まことにやさしい言葉づかいをくずさない。その妻がふと洩らした「涙の谷」という言葉に、夫はつまずくのである。あるいは傷つくのである。
「『涙の谷』といわれて、夫はひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持ちでそう言ったのであろうが、しかし泣いているのはお前だけではない」
 夫は、家庭のことも、子供のことも考えているつもりなのだが、実態がともなわない。あげくの果てが、居直ったように「子供より親が大事」と、あの有名なセリフを吐くのだ。
 このセリフ、たんに親の身勝手さを表出したニュアンスで受けとられそうだがそうではない。翻訳するとこうなる。妻(子)を養ってゆくという実生活よりも、親の(文学)のほうが大事だと思いたいのだと。
 夫は作家なのである。だから『桜桃』は、まさしく私小説で、作中人物は太宰治とその妻と思われがちだが、私はそうは思わない。
「…実はこの小説、夫婦喧嘩の小説なのである」と作者は書きつけているけれど、これも実態とは違っている。夫婦喧嘩の修羅場は書かれていないのである。太宰の死によって未完成だから、いずれ修羅場が書かれるはずだったろうか。
 太宰治は、ほんとうは文学よりも実生活のほうがはるかに重要だと気づいていたはずだ。この心病んだ作家は、自身の自殺願望を誰かにひきとめてほしくて、悲痛な叫びのようにこの作品を残したのではないか。彼が死ななくても『桜桃』は完成しなかっただろう。すくなくとも夫婦喧嘩の小説としては成立しなかったはずだ。なぜなら、男はこのようなヒロインとは喧嘩はできないからである。

北原リエ『あのひとの行方』のシノ

2012-09-23 06:53:51 | 読書
シノさん、あなたは作者のリエさんとどのくらい似ているのでしょか。元日活ロマンポルノの主演女優、その後に歌手デビューし、それから小説を書き、中央公論新人賞をとった北原リエとシノさんの経歴はそっくりで、昭和33年生まれと年齢も一緒です。
 すると作者のリエさんも、あなたと同じく、生まれてすぐに父と別れて、20歳になってはじめて「あのひと」つまりお父さんに会ったのでしょうか。
 経営する出版社を倒産させ、編集の企画をたまにお金にかえるしか能のない、どうしようもなく破滅型のお父さん。癌の手術で片肺を失くし、再発率の高い3年目あたりに、まだ酒ばかり飲んで放浪し、周りの人間をやきもきさせる「あのひと」は、これまでにも愛する女たちを次々に不幸にしてきました。
 あろうことか、あなたをポルノ映画に引き入れたのも、あのひとでした。そんな父親をあなたは憎みつつも、愛している。
 あなたの好きになる男は、どこかで「あのひと」に似た破滅型の男ばかりのようでした。あなたはしかし「ぶざまな姿をさらけ出している」あのひとのことを「何にも責任転嫁することなく、自分自身を潔く受けとめて生きている」人間として、とっくに許していたのだと思います。
 そうでなければ、父と娘のこの悲惨な関係、思わず目をそむけたくなるような凄絶なやりとりの読後感が、ある種のすがすがしさをおびるわけがないからです。
 あなたのお母さんはバーを経営しながら、あなたを育てたのでした。新宿ゴールデン街とおぼしき呑み屋街が出てきますが、私はもしかしたらあなたのお母さんの店を訪れているかもしれません。
 あれあれ、いつのまにか私はシノさんのお話を現実のものと混同してしまいました。許してください。でも、私はどこかであなたに会ったことのあるような気がしてならないのです。


(注:アマゾンで本を検索すると古書しかないようだが、絶版になっているのだろうか)

荷風『墨東綺譚』のお雪

2012-09-22 06:20:15 | 読書
 お雪は、昭和11年頃の玉の井の娼婦である。
 汚い溝際の家に住んでいた。大正開拓期のなごりをとどめた場末の裏街。しかし、雨の日に傘をさしかけて知り合い、そしてお雪を愛するようになった男は、お雪ばかりでなく、その街のうら寂しくて古めかしい風情が気に入っていた。
 だから最初の頃はひんぱんにお雪のもとを訪れた。玉の井に通い続けられる男の財力の背景をお雪は知らない。とてもまともな稼業ではないと思い込んでいる。お雪は男の職業どころか、本名も、正確な年齢さえも知らなかった。けれども男を愛した。
 男が独身だということはわかっていたので、知り合って三ヶ月後に男に言う。
「わたし、借金を返しちまったら、あなた、おかみさんにしてくれない」
 お雪は26歳だった。男は呟く。もう10年若かったら、と。男は58歳だった。小説家だった。
 お雪が娼婦ということにこだわりはない。むしろ「悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がある」と思っている人間だ。
 ある小説を書きあぐねていた。登場人物の男は51歳で、女は21歳。その男女の愛の物語の状況が、きわめて自分とお雪のそれに似ている。そのことから創作に勢いがつきはじめ、筆が進んでいた。しかし、お雪と別れようと思う。自分の正体も明かさぬままにだ。
 お雪のもとに行かなくなって暫くして、お雪が病んでいると知る。けれども男は思う。「病むとも死ぬことはあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せることもあるまい…」と。
 男は、この土地にふさわしくないお雪の容色と才智を信じていた。お雪を愛する人間は前途に多くの歳月を持っている人間でなければならぬ、と男は自らの思いを断ち切って、お雪から離れたのだ。お雪はそのことにたぶん気づいてはいない。
 作者永井荷風は、小説的結末はつけたくないとして、この作品を中途半端なまま終わらせた。
 荷風の前途にも多くの歳月は残されていなかった。


(注:原題はサンズイ付きの墨である)


 

吉本隆明『エリアンの手記と詩』のミリカ

2012-09-21 08:32:24 | 読書
 吉本隆明の若書きで22歳頃の作品なのだが、その気になれば自伝風に読めなくもない。
 16歳のエリアンは、イザベル・オト先生の塾で詩を教わっている。(16歳の吉本は深川門前仲町の今氏乙治の私塾に通っていた)
 その塾でエリアンはミリカという少女に恋するが、オト先生が彼女を愛していると知って悩む。そして自殺を図って失敗、「北の山国」に旅立つ。(17歳の吉本は月島の自宅を出て、東北の下宿に移る。米沢高等工業学校に入学)
 エリアンの愛したミリカという少女像は吉本の詩の中に幾度となくあらわれる。「人生が広い野原のようにしか視えない」少女。それに比べてエリアンには人生が深い谷のようにしか視えない。
 しかしミリカも胸を病んで〈私もたいそう大人になりました〉とエリアンに手紙を送る。〈貴方はいつもそうなんです。物陰に隠れてしまった幸せを、皆が奪い合ってしまったあとから、悲しそうに探しているのです〉〈もっと寂しく暗い眼になっている筈の貴方の哀しみ、ミリカはこんどこそ理解出来るはずです〉と。
 そうだろうか。男はいつもミリカのような少女とはすれ違ってしまう。
 吉本に『少女』という詩がある。少し引用してみよう。

「わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちにはきっとわたしがみえない すべての明るいものは盲目と同じに 世界をみることができない」
「彼女たちは世界がみんな希望だと思っているものを 絶望だということができない」

 もとよりオト先生は大人だ。ミリカもエリアンも生きることの現実がわかっていないと指摘する。「二人の相違う性が、相寄って長い歳月を歩むということは、そんなに美しくもなく愉しくもなく、又そんなに醜いことでもない平凡なことだ」と。
 その〈平凡な小さな嫌悪をしずかに耐え〉ていくのが人生だと。
 だから「ああ、わが人よ」などとうたうなかれ、と大人になった吉本は、詩についてのエッセイで書く。

有吉佐和子『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の亀遊

2012-09-20 18:52:41 | 読書
 幕末、横浜の岩亀楼にいたおいらん亀遊は、思いかけずも死んでから有名になった。攘夷志士たちのいわばアイドルになってしまうのだ。
 吉原から横浜に流れたものの、ろくに稼がないうちに病気になり、あんどん部屋に寝ついて借金をふくらませている、しがない遊女が亀遊だった。それでも恋する男がいた。通訳で、西洋医学修得のためアメリカ密航を企てている藤吉という男だ。藤吉のくれた薬のおかげもあって、亀遊はふたたび客の前に出られるようになる。
 岩亀楼は、日本人相手と外人相手の娼妓は、はっきりと区別されていて亀遊は外人の相手はしなかった。ところがたまたま登楼していた米人イルウスの目にとまり、大金で身うけの話が持ち上がる。なんとそのイルウスの通訳を藤吉がするものだから、衝撃をうけた亀遊はほとんど発作的に剃刀で喉を切って死ぬ。
 その死は、アメリカ人に屈しない「攘夷女郎」の抗議の自死のように伝わりはじめ、剃刀は懐剣に変わってしまう。深川の町医者の娘だったのに、武士の娘と語られるようになる。無学で、文字も読めなかったのに、辞世の歌まで作っていたことになる。

   露をだもいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)
           ふるあめりかに袖はぬらさじ

 岩亀楼は攘夷志士たちの人気で大繁盛となり、主人の工作で亀遊の虚像づくりはさらに手がこんでくるのだが、むろん最初の仕掛け人は攘夷思想を高揚させたかった者である。
 彼らは、ごく私的な亀遊の死を、政治目的のために利用したのである。さびしく、痛々しい風情で、あまり客に売れなかった亀遊の実像は、彼らがでっち上げた「烈婦」にはほど遠い。
 亀遊はほんとうは藤吉と駆け落ちでもしたかったのではないか。しかし、作中の誰かのセリフではないが、志のある男は女にむごいのであった。


(もう15年ほど前になるが、マイナーな会報紙に「わが愛しのヒロインたち」というタイトルで小説(とは限らないが)のヒロイン100人をとりあげ短いコラムを連載した。そのときの原稿が妙なところから出てきた。何人分か選んで、こちらのブログにあげておこうと思う)

「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」を読む

2012-02-11 07:57:08 | 読書
 当ブログにコメントを寄せていただいたノブさんこと中島信文氏の著書『龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日』(彩流社)が、昨日やっと手元に届いた。発注を家人に任せたら、コープネット(生協)を通じたものだから、ずいぶん日数がかかったのである。
 さて、かねて龍馬暗殺には土佐藩(士)が関与しているし、なにより近江屋自体が暗殺犯を手引きしていると主張している私にすれば、中島氏の論考の大筋には異論はない。寺村左膳の日記にこだわったのは面白いと思う。
 龍馬が暗殺された日の寺村日記は一種の「謎」であって、事件当日に記されたものであり、あの日記の通り芝居の帰り道に事件の克明な報告を受けたというなら、一体誰が報告したのかという疑念につつまれるのである。後日に知り得た情報を付加して、当日受けた報告のようにして、数日後にまとめた日記であるとするならば、龍馬の事件を特筆するのが人情だろうと思うが、さにあらず、初めて芝居見物をして面白かったというのがトップ記事である。時系列な記述を墨守したといえばそれまでだが、龍馬らの死に対する視線が冷ややかすぎるのであった。
 ただし芝居見物を終え、近喜という店に夕食に向かう途中で、家来から事件の報告を受けたという記述は重要である。軍鶏鍋を食べようとしていた龍馬らと同じく寺村らも夕食前なのだ。いったい寺村らはどんな芝居を観、その芝居は何時頃に終っていたのか、私はずっと気になっていた。龍馬らの暗殺時刻が推定できるからである。そのことについては「龍馬暗殺の日の南座の演目」に書いた。どうやら通説よりずっと早い時間に近江屋事件は起きているのである。寺村日記に呼応した時刻は刺客のひとり渡辺篤の告白にあらわれる。「宵の口」あるいは「夕方」に踏み込んだと渡辺はいう。渡辺の証言を重視する必要がある、とはもうなんべんも書いた。
 ところで中島氏の本には幾つかの違和感を感じた。看過できない箇所について、以下に記しておく。
1)「面白いことに、谷干城は、講演では今井信郎の談話が出た明治三十三年以降、近江屋の主人に当時の当時の状況を聴きに会いに行ったと述べているくらいで、事件当時は、彼は殺害状況など、良くは知らなかったのだ」(95ページ)
 この箇所だけでなく、どうも中島氏は谷の証言を不確かなものとする印象操作をしたいらしいが、なぜ「殺害状況を良く知らなかった」となるのだろう。切り傷の様子から殺害の様子を分析している谷の証言はみごとだし、そして部屋には食事の用意もなにもなかったという谷の記述が私などどれほど貴重に思えたか。近江屋に会って谷が確認したかったのは事件当日の小僧の有無であって、これは谷の律儀さのあらわれである。事件のことがわからないから、近江屋主人に聞きに行ったのではない。
2)「田中光顕は明治末の宮内大臣当時の皇后夢枕事件で土佐藩の坂本龍馬偶像化の張本人であり、…」(193ページ)
 皇后夢枕事件が土佐藩のデッチ上げという話自体が、デッチ上げなのである。このことはブログで縷縷書いてきた。私の書いたものをお読みの上で、なおこういう表現をされるのであれば、田中光顕張本人説の根拠を提示していだだこう。
3)「…この池田屋事件では、手代木勝任が実は全体の指揮を取り近藤勇と共に働き、この時、手代木勝任も北添佶摩、望月亀弥太ら土佐藩、長州藩の尊王攘夷派の志士を斬っているなど、共に大きな手柄を立てている」(216ページ)
 最近『池田屋事件の考察』(講談社現代新書)という労作を発表した中村武生氏が読んだら目をむくのではないだろうか。手代木が指揮?
 望月は門倉屋敷の脇で自刃し、北添は一橋家の役人に槍で刺されたという説はあるが、手代木に斬られたなどという説は寡聞にして知らない。
 一事が万事ということがある。筆をすべらせては他の論考に影を落としてしまう。
 私ごとだが、手術で11リットル出血し、輸血を受けた。アグレッシブな人の血が入ったらしく、怒りっぽくなっている。ご海容のほどを。
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社

芭蕉の妻の命日

2011-10-04 18:26:38 | 読書
 4年前に刊行されていた別所真紀子氏の小説『数ならぬ身とな思ひそ 寿貞と芭蕉』(新人物往来社)を私は読んでいなかった。このほど別所氏に「寿貞私考」という論考のあることを知ったものの、その出典がわからぬまま、まあ小説を読めば、その論考の概要は察しがつくだろうと、アマゾンからその小説を取り寄せてみた。
 まさにビンゴというか、小説のあとがきに代えて、「寿貞私考」が付されていた。そこに次のようなことが書かれていた。

〈尚、伊賀上野の念仏寺に「松誉寿貞」なる墓があり、忌日が六月二日となっているので、これを寿貞の墓と見る説もありますが、芭蕉が訃報の返事を書いたのが六月八日、早飛脚でも深川から嵯峨へ六日で届けるのは無理なので、別人の墓か、寿貞の墓ならば忌日が間違っていることになるでしょう。〉
 

 前回のブログに書いたことと重なる箇所なのだが、別所氏の思い違いを指摘しておきたい。
 厳密には墓はなく、あくまでも過去帳の記述である。発見者は郷土史家の菊山当年男であるが、忌日は「二日の条」とあるのみで、なぜか月の記載はない。しかし「六月二日」と確実視されるのは「水無月のころ」寿貞が死んだとする別の史料があるからである。いったい深川から、旅先の京都にある芭蕉のもとに寿貞の訃報が6日後に届くわけがない、とする別所氏の断定はどこからくるのだろうか。江戸の通信網をみくびってはいけない。
 東海道を6日で走る「定六」という飛脚便があったのである。さらに言えば定六というのはいわゆる定飛脚であるけれど、仕立飛脚なら4日あれば江戸から京に便りが届けられたのである。寿貞の死は即座に飛脚便で知らされ、芭蕉もまた訃報を受け取るやいなや即座に返事を返しているのであった。
 したがって別人の墓?とか忌日が間違っているとか言うことのほうが間違っているのである。
 元禄7年6月2日が芭蕉の妻(あえてそう呼ぶ)寿貞の忌日であり、芭蕉がこの世を去るのが元禄7年10月12日。つまり寿貞の死から4ヵ月後に、芭蕉は寿貞のあとを追うのであった。
数ならぬ身とな思ひそ―寿貞と芭蕉
別所 真紀子
新人物往来社
 

小山榮雅『芭蕉、深川へ渡る』を読んで

2011-10-02 18:14:39 | 読書
芭蕉の評伝に関した新刊本は目についたら片っぱしから購入することにしている。小山榮雅氏の『芭蕉、深川へ渡る』(発行・檸檬新社、発売・近代文藝社)をアマゾンで発注した時点では、同書が現代小説という体裁をとった謎解き本だとは予想していなかった。謎解きとはなにか。同書の帯に、こうある。

 日本橋の裏店へ、二十歳になる養子の桃印と二十五歳の内妻の寿貞と二歳になる次郎兵衛の三人を残したまま、一人で深川へ渡った芭蕉の「謎」に迫る。

 そう、芭蕉は謎の多い人物だが、とりわけ妻の寿貞そして桃印をめぐる三角関係には、いまだ定説がない。寿貞は尼となった女性の法号であり、本名は不明である。また養子の桃印は芭蕉の実の甥であるのに、これまた本名がわからない。桃印というのは芭蕉の使用した俳号桃青にちなんだ俳号であるはずだが、桃印の俳句は一句も記録されていないという不思議さである。
 寿貞と桃印は、かりにも親子の関係になるのだが、その二人が姦通し、つまり芭蕉を裏切って駆け落ちしたという説がある。小山榮雅氏は、姦通が死罪であった芭蕉の時代に、そんなことがありえただろうかと疑問を持ったらしい。そこで小山氏の出した結論は、寿貞は芭蕉が江戸に来てから、口入屋に依頼して雇った「年季奉公の妾」であり、年季が明けてから桃印と結ばれたとするものである。だから姦通罪には当らなかったというのだが、さてどうか。
 寿貞は芭蕉が江戸で知り合った江戸女とする小山氏の見解は、すこし強引すぎるように思われる。寿貞は芭蕉と同郷の伊賀上野の女性であった。江戸の口入屋が紹介した江戸出身の女性などではない。伊賀上野寺町の光明山念仏寺の過去帳に「松誉寿貞」の記載があるし、同寺の過去帳には「寿貞尼舎弟」あるいは「寿貞尼姉」という人物の記載もあるからである。この念仏寺は芭蕉の生家である松尾家の菩提寺ではないが、寿貞に「松誉」という文字をつけているのが意味深である。彼女は芭蕉と同じく藤堂新七郎家に仕えていた中尾源左衛門の身内であった、と私は信じている。くどいようだが江戸の女性ではないのである。
 実は謎だらけの俳聖の、その謎の多さの理由は彼が幕府の諜報活動者であるとすると納得がいく。寿貞も桃印も諜報活動に従事していた、という視点から私は時代小説を書き始めている。芭蕉の評伝は小説のかたちで類推するしかない、のは小山氏と立場を同じくするわけだ。
 それにしても、芭蕉の実子の次郎兵衛の芭蕉亡き後の消息がわからないのはなんとも歯がゆい。芭蕉のパトロンだった杉山杉風の子孫には山口智子という女優さんがいる。次郎兵衛や、芭蕉の子あるいは桃印の子とされる「まさ」や「おふう」の子孫が現存していても不思議ではない。どこかでひっそりと息をひそめられているのではないかという気がしてならない。
芭蕉、深川へ渡る
小山 榮雅
檸檬新社

豊川渉の思出之記のこと

2011-09-22 05:47:03 | 読書
 伊予の国に弘化4年(1847年)に生まれ、昭和5年に満83歳で死去した豊川渉の辞世は「見た夢は八大地獄雪月花」である。「八大地獄」とは何であったか。たぶんそのひとつには、彼の元服親で「恩人」であった国島六左衛門の自殺があったはずだ。
「いろは丸事件」に関心をお持ちの方ならもうお気づきだろうが、豊川渉とは『いろは丸終始顛末』の筆者であり、愛媛県郡中町の5代目町長を務めたこともある人物である。満19歳のとき、実際にいろは丸に機関見習いとして乗り組んでおり、海援隊に入らぬかと誘われたこともあったらしい。しかし船の知識に乏しいのが恥ずかしく、「末輩に追い遣わされるのも残念なりと躊躇した」と告白している。その「躊躇」はおそらくほろ苦い後悔として彼の生涯につきまとった。「…既往を顧みれば終始事志と齟齬し、青年にして故郷を距るに躊躇したり…」というような述懐が「思出之記抜抄」にあるからだ。
 豊川渉の「思出之記」が出版されたと知り、版元の愛媛県松山市の創風社出版に直接発注し、届けられた本を最初に手にしたとき、なにかあたたかいものに触れたような手触り感があった。いまはそのわけがわかる。「望月宏・篠原友恵編」となっているが、編者のおふたりは父娘であり、望月氏は豊川渉の孫、篠原氏はひ孫に当たる方だった。篠原氏のあとがきによれば、その望月氏は本の校正作業の終了した今年3月30日に亡くなられており、表紙と挿絵は望月氏の夫人つまり篠原氏の母親の令子さんが担当されたとのこと。血族の絆でつくられた本なのである。豊川渉自身が家族愛の強い人物であったことは、「思出之記」を読むとよくわかるのであった。
 さてこの豊川渉の回顧録で注目すべき個所をひとつ紹介しておこう。慶応年間のことである。長崎の外人居留地での、豊川ら三人と居住地にいた美人とのやり取りのエピソードのあと、こんな記述があるのだ。
「…主人が帰ったのであらうと幾分は心配して居ると、美人と手を携へて入って来るのを見ると、蘭人のボードインで此間船の代金を渡しに父と共に蘭館へ往った時に見た人であるから向こふから笑顔して互いに目礼したが…」
 大洲藩はいろは丸をボードインから買ったわけではなく、ポルトガル人から買ったと主張する人たちは、この個所をどう判断されるのであろうか。ちなみに豊川はいろは丸の買い付け責任者であった国島六左衛門付き若党であったことは付言するまでもない。
 ところで豊川渉の辞世である。彼は現実に八大地獄(たとえば安政の大地震もふくめて)を見てきたのに、「見し夢」と詠っている。現実だったものを夢まぼろしと見なしたくなる心情を、わたしたちはおもんばかる必要があるのではないか。しかし、夢まぼろしでない、いい現実の記録を残してくれたものだ。そしてその記録を公にしたのは、繰り返すがあたたかい血の絆であった。
豊川渉の思出之記
クリエーター情報なし
創風社出版

追記:本書は豊川渉が自身の日記をもとにまとめた回顧録で、手書き原文のPDFがCDとして付属されている。その筆跡からも豊川の人柄は偲ばれる。

菊地明『京都見廻組 秘録』を読む

2011-09-19 16:39:18 | 読書
 洋泉社歴史新書の近刊、菊地明氏の『京都見廻組秘録』を読んだ。たいへん読みやすく工夫されているから、ほとんど一気呵成の読了となった。副題に「龍馬を斬った幕府治安部隊」とあるように、見廻組の誕生と終焉を概括しながらも、龍馬暗殺の実行犯である佐々木只三郎と今井信郎に焦点が合わされている。
 与頭の佐々木只三郎が紀州藩士の娘と結婚していて、その妻の名が美津であることなど初めて本書で知った。美津はいったい紀州藩士の誰の娘であったのだろうか。紀州藩といえば例のいろは丸事件との関連が当然思い出されるから、なんとなく心が騒ぎ、妙な想像がふくらんで、想念が横道にそれたりしたけれど、読書の愉悦のひとつはこういうところにもある。
 定説では佐々木只三郎は戊辰戦争で敗走し、和歌山の紀三井寺で死んだことになっており、実際に墓もあった。しかし紀三井寺では死んでいないという説もあって、直感的には死んだ場所は違うだろうと、ずっと私も思っていた。本書では、佐々木の最期を目撃した人物の証言が紹介されている。銃撃を受け負傷していた佐々木は、海路を江戸に帰還する軍艦富士山丸の中で死に、水葬に付されたという記録者がいるのだから、著者の菊地氏の主張するように、こちらのほうが真実だろう。
 さて、ところで私は本書の第4章「近江屋事件と佐々木只三郎」だけには、違和感をしきりに覚えた。菊地氏は別の著書でも菊屋峰吉の証言を偽りと決めつけておられたが、本書でも同様の見解が披瀝されている。要するに、龍馬暗殺当夜、刺客が語るところの近江屋にいた「書生」あるいは「小僧」あるいは「給仕」をどう見るかが問題なのだが、菊地氏は刺客と遭遇した書生を峰吉とみなすのである。これはちょっと無理な見解ではなかろうか。さらに峰吉が佐々木を認識していた、しかも声でわかった(ほんとうは近江屋主人のこと)などとするのは、かなりな行き過ぎである。近江屋にいた小僧の人数の解釈は暗殺の時刻とあわせて慎重に想像をめぐらすしかない。
 明治もだいぶ経ってから、谷干城が近江屋主人に、事件当夜小僧が何人いたかどうか問いただしていた。近江屋主人は、しどろもどろながら刺客の話を裏付けて小僧がいたと語っていたではないか。谷は近江屋主人の話を信用しなかったが、最初からうさんくさい近江屋主人の言動であっても、ここは本当のことを語っていると見るべきである。菊地氏は疑うべき人物を間違っている。峰吉ではなく、近江屋主人の方に疑惑の目を向けなくては、龍馬暗殺の真相はみえてこない。
 むろん本書は龍馬暗殺事件の解明が主題ではない。主題は京都見廻組の歴史である。コンパクトではあるが、その主題はじゅうぶんに達成されている。
京都見廻組 秘録―龍馬を斬った幕府治安部隊 (歴史新書y)
菊地 明
洋泉社



ボルヘス『詩という仕事について』を読む

2011-07-26 16:16:20 | 読書
 小説はさかのぼれば高貴な叙事詩であり、現今の小説はその叙事詩の堕落したものではないか、というような見解を述べたのはボルヘスである。このアルゼンチン生まれの二十世紀文学の巨匠はこうも語っている。
「私の考えでは、小説は完全に袋小路に入っています。小説に関連した、きわめて大胆かつ興味深い実験のすべての――例えば、時間軸の移動というアイデアや、異なる人物たちによる語りというアイデアの――行き着くところは、小説はもはや存在しないとわれわれが感じるような時代でしょう」
 引用は『詩という仕事について』(岩波文庫・鼓 直訳)からであるが、ハーヴァード大学の講義で語られた言葉だ。1967年秋から翌68年にかけての講義だから、昭和でいえば42年から43年頃のことである。平成23年のいま、小説はまだ袋小路に入ったままである。
 ボルヘスの考える小説、あるいは文学がどういうものか、よくわかるのがこの講義録なのだが、これほど心に沁みる名言が散りばめられている記録だと、読む前には正直思わなかった。
 6回の講義の5回目「思考と詩」のはじめのほうにハンスリックの言葉が引用されている。それは「音楽はわれわれが用い、理解もできるが、翻訳することはできない言語である」という個所である。あきらかにボルヘスは、すべての芸術は音楽にあこがれるという先人の言葉に共感している。昭和40年の終わりころ、音楽に疎い私なのにハンスリックの『音楽美論』をむさぼるように読んでいた。当時衝撃を受けた吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』に触発されて、小説固有の美学を理論的にみきわめたかったからである。昭和41年5月号の『群像』に掲載された私(本名の近藤功名義)の処女評論『吉本隆明』にもハンスリックを援用したフレーズを書きつけているが、実を言うとハンスリックのことは誰にも顧みられないだろうと感じていた。ああボルヘスも読んでいたのだから、あながち的外れの本を読んだわけではなかった、と今頃になって慰められたような気分だ。
 ボルヘスは袋小路に入った小説、あるいは言語表現になかば絶望し、なかばそうではない。ボルヘスは小説を依然として信じている。最終講義の「詩人の心情」で彼はみずからの引き裂かれた心情と矛盾を隠そうとしていない。彼は聴衆にこう告げた。「仮にあとで裏切られると分かっていても、人間はなにかを信じるよう努めるべきではないでしょうか」
 文章を読んで胸にこみあげてくるものがあったのは久しぶりのことだった。
「何かを書いているとき、私はそれを理解しないように努めます。理性が作家の仕事に大いに関わりがあるとは思っていません。現代文学のいわば罪障の一つは、過剰な自意識であります」
 巨匠だから言える言葉である。
 彼は講義の最後に自作のソネットをスペイン語で朗読してみせる。スペイン語がわからなくても「意味などというものは重要ではありません。重要なのは音楽まがいのもの、語り口とよばれるようなものです」という。
 言語の美学はどこに宿るのか、そういう形で伝えたかったのであろうと思う。
 もし聴衆が、または読者が実作者ならば、かっこいい語り口で物語を紡ぎたくなるはずだ。そういう誘惑に駆られる講義録だ。たとえ堕落した叙事詩であったとしても、物語の可能性をまだ私も信じたい。
詩という仕事について (岩波文庫)
J.L.ボルヘス
岩波書店


ゴダール『封印された系譜』を読む

2011-05-14 16:55:38 | 読書
 入院に際して再読用の資料5冊と理系本1冊、それに杜牧の詩集の計7冊をピックアップし、さて肩のこらない読み物もいるなと加えたのが、ロバート・ゴダード『封印された系譜』上下巻(北田絵里子訳・講談社文庫)だった。ゴダードを選んだのはまさしく正解だった。
 ひさびさに物語というジェットコースターに乗ったのである。術後もむさぼるように読んでいたが、別種の痛み止めになったかもしれない。展開はめまぐるしく、よくまあと感心するほど意表をついてくれるのである。ゴダードらしいといえば言えそうだが、、重厚な雰囲気のあった初期作品と比べれば軽みが出てきたような気がする。いずれにせよ超のつくエンターティメントには違いない。
 本のカヴァーの惹句を借りれば「デンマークの巨大企業一族がひた隠しにする出自の秘密とロシア皇女の生き残り伝説がからみあい、大きな陰謀に巻き込まれてゆく」男の物語である。
 ロシア皇女とはむろんロマノフ王家のアナスタシアのことだ。いまでも哀切な主題歌が耳に残る映画『追想』では、アナスタシアをイングリット・バーグマンが演じていた。共演はスキンヘッドの怪優ユル・ブリンナー。学生時代、坊主頭にしていた私はブリンナーに似ているなどとからかわれていたから、こういう映画ははずしていないのである。この小説でもテレビドラマ化されたさいに女優のことが話題にされているが、なぜか映画のほうには筆が及んでいなかった。
 ともあれロシア、デンマーク、フィンランドという三つの国のからむ歴史には疎かったけれども、三国間に濃密な過去のあったことを再認識させられたのも収穫だった。訳者はこの作品を「北欧の紀行ミステリー」とも評しているが、たしかにそういうおもむきもある。
 たとえば主人公がホテルの窓から北欧の都市の家並みを眺めるシーンがある。しかしそれは最初から絵になるのである。むしろ絵になる風景の中に主人公がいるのだ。いま私のいる病室は17階で、広い窓からは虎ノ門、霞ヶ関方面のビル群が見える。けれども建物の高さは区々、色合いも雑駁で、およそ心象を託する風景ではない。絵にならぬのである。もっとも憂愁をおびるときがないではない。雨にけむるときだ。東京のビル群は煙雨というバイアスをかけると、北欧並みになるらしいと気づいたのは余談である。(病室にて)
封印された系譜(上) (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社