毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
直言居士
佐高信著「小泉純一郎と竹中平蔵の罪」(毎日新聞社)を読んだ。著者の名はずいぶん昔から知っていたし、TVの報道番組でも時々姿を見かけたりするから、その歯に衣着せぬ「直言居士」ぶりはよく知っていたが、その著書を読んだのは実はこれが初めてだった。
本書の刺激的な題名を新聞で見かけたとき、小泉のfanaticalな言動にはずっと胡散臭さを感じてきた私は、すぐに読んでみようとAmazonに注文した。だが、送られてきた本を読み始めて少なからず落胆した。題名にあるような二人を断罪する記述は、第1章「ギルティペアの小泉と竹中」(P.12~34)だけで、他の章にも散見はされるものの表題に見合う内容はほぼ1章にしか書かれていない。あとは、田原総一朗を代表とするマスコミへの批判、国民生活を等閑にする自民党政治への糾弾といったもので紙面が埋められていて、私が期待した内容とはズレがあった感は否めない。(しかも、後半3分の1を占める備忘録的な「日記」は蛇足な気がする)
しかし、随所に私の知らなかった事実や、著者の視点の確かさを示す論述もちりばめられていて、やはり一読すべき書であると思った。
『国民に「安心」を与えるのが政治の役目であるはずなのに、小泉や竹中のやったことは、国民から安心を奪い、そして「自己責任」を押しつけた。
私は小泉を一次方程式しか解けない男と批判してきた。アメリカ一辺倒で、アメリカと中国という二次方程式になると解けない。(中略)
ちなみに、小泉の後の安倍晋三は一次方程式も解けず、福田康夫に至っては、そもそも解く気がなかった。麻生太郎は「方程式」という字も読めないかもしれない』(P.19)
この指摘には苦笑するしかないが、小泉・竹中が推し進めてきた「改革」には無神経さと押しつけがましさがあり、「現在の日本の荒廃はそこに根ざす」と断言する筆者が、伊藤千尋著「反米大陸」(集英社新書)について記した以下の文章は深い示唆を含んでいる。
『「天国からはあまりに遠く、アメリカにはあまりに近い」といわれる中南米の国々は、なぜ次々に反米政権を誕生させているのか。伊藤はその原因を、アメリカの圧力によって進められた新自由主義の経済に求める。ちなみに、私は新自由主義というのはほめすぎで、ジャングルの自由に戻す旧自由主義だと断罪しているが、いずれにせよ、規制緩和、民営化、そして外資の導入などが主な政策で、その最初の実験場となったのが中南米だったのである』(P.178)
「規制緩和、民営化、そして外資の導入」といえば、まさしく小泉・竹中が血道をあげて進めてきた「改革」であり、その結果たる現在の日本の状況は、市場原理を過信した自由化や規制緩和がもたらした負の累積効果と苦闘するラテンアメリカの姿と見事にオーバーラップしている。だが、日本には相変わらず親米政権が維持されているのは、いくら不況下とは言え、中南米諸国と比べれば、はるかに経済水準(生活水準)が高いからなのだろうか?小泉・竹中「改革」の負の遺産が、アメリカからの圧力によるものであるのなら、現在の混迷する社会状況から反米の機運が高まってもよさそうなのに、まったくそうならないのは、不思議な気がする・・。(国民に実態があまり知らされていないのも事実であるように思う)
だが、本書を読んで一番感じたのは、佐高信はどうしてここまで辛辣な言葉を重ねることができるのか、という疑問である。もちろんこの国を憂いての発言なのだろうが、そこまで筆者を揺り動かす原動力はいったい何だろう?気の弱い私などでは、とても言えないような批判を相手が誰であろうと浴びせかけて怯むことがない。その決然たる姿勢はいったいどこからやってくるのか・・。佐高信について詳しくない私では想像すらできないから、しばらくは彼の著書を幾つか読んでみようと思っている。
本書の刺激的な題名を新聞で見かけたとき、小泉のfanaticalな言動にはずっと胡散臭さを感じてきた私は、すぐに読んでみようとAmazonに注文した。だが、送られてきた本を読み始めて少なからず落胆した。題名にあるような二人を断罪する記述は、第1章「ギルティペアの小泉と竹中」(P.12~34)だけで、他の章にも散見はされるものの表題に見合う内容はほぼ1章にしか書かれていない。あとは、田原総一朗を代表とするマスコミへの批判、国民生活を等閑にする自民党政治への糾弾といったもので紙面が埋められていて、私が期待した内容とはズレがあった感は否めない。(しかも、後半3分の1を占める備忘録的な「日記」は蛇足な気がする)
しかし、随所に私の知らなかった事実や、著者の視点の確かさを示す論述もちりばめられていて、やはり一読すべき書であると思った。
『国民に「安心」を与えるのが政治の役目であるはずなのに、小泉や竹中のやったことは、国民から安心を奪い、そして「自己責任」を押しつけた。
私は小泉を一次方程式しか解けない男と批判してきた。アメリカ一辺倒で、アメリカと中国という二次方程式になると解けない。(中略)
ちなみに、小泉の後の安倍晋三は一次方程式も解けず、福田康夫に至っては、そもそも解く気がなかった。麻生太郎は「方程式」という字も読めないかもしれない』(P.19)
この指摘には苦笑するしかないが、小泉・竹中が推し進めてきた「改革」には無神経さと押しつけがましさがあり、「現在の日本の荒廃はそこに根ざす」と断言する筆者が、伊藤千尋著「反米大陸」(集英社新書)について記した以下の文章は深い示唆を含んでいる。
『「天国からはあまりに遠く、アメリカにはあまりに近い」といわれる中南米の国々は、なぜ次々に反米政権を誕生させているのか。伊藤はその原因を、アメリカの圧力によって進められた新自由主義の経済に求める。ちなみに、私は新自由主義というのはほめすぎで、ジャングルの自由に戻す旧自由主義だと断罪しているが、いずれにせよ、規制緩和、民営化、そして外資の導入などが主な政策で、その最初の実験場となったのが中南米だったのである』(P.178)
「規制緩和、民営化、そして外資の導入」といえば、まさしく小泉・竹中が血道をあげて進めてきた「改革」であり、その結果たる現在の日本の状況は、市場原理を過信した自由化や規制緩和がもたらした負の累積効果と苦闘するラテンアメリカの姿と見事にオーバーラップしている。だが、日本には相変わらず親米政権が維持されているのは、いくら不況下とは言え、中南米諸国と比べれば、はるかに経済水準(生活水準)が高いからなのだろうか?小泉・竹中「改革」の負の遺産が、アメリカからの圧力によるものであるのなら、現在の混迷する社会状況から反米の機運が高まってもよさそうなのに、まったくそうならないのは、不思議な気がする・・。(国民に実態があまり知らされていないのも事実であるように思う)
だが、本書を読んで一番感じたのは、佐高信はどうしてここまで辛辣な言葉を重ねることができるのか、という疑問である。もちろんこの国を憂いての発言なのだろうが、そこまで筆者を揺り動かす原動力はいったい何だろう?気の弱い私などでは、とても言えないような批判を相手が誰であろうと浴びせかけて怯むことがない。その決然たる姿勢はいったいどこからやってくるのか・・。佐高信について詳しくない私では想像すらできないから、しばらくは彼の著書を幾つか読んでみようと思っている。
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