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「うらなり」

 小林信彦の「うらなり」を読んだ。「うらなり」といえば夏目漱石の「坊っちゃん」の中に出てくる顔色のたいそう悪い、英語教師古賀のことである。「うらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれる」と主人公で語り手の坊っちゃんが、こうあだ名をつけたとおり万事控えめな男である「うらなり」は、その存在感は希薄ではあるが、「坊っちゃん」という小説の中ではかなりのキーパーソンである。彼の許婚であったマドンナに教頭赤シャツが横恋慕することが、一連の事件の発端になっているからである。彼を邪魔者扱いした赤シャツが、たぬき校長を抱き込んでうらなりを追い払ってしまったことに腹を立てた坊っちゃんと同僚の山嵐が、赤シャツと太鼓持ちの野だいこをやっつけるというクライマックスまで、うらなりは物語の裏側にその影のような存在を映し出している。
 そうしたうらなりを主人公にした小説を書こうとした動機を小林信彦は、「ぼくの考えでは、坊っちゃんの行動は、うらなりから見たら、まるで理解できないのじゃないかと思うのですよ。不条理劇みたいでね。その、うらなりの視点から見た『坊っちゃん』を書いてみたいのですよ」(創作ノート)と述べている。確かにこの小説の前半はその視点で描かれている。私のように何度となく「坊っちゃん」をよんだことのある者には、何もわざわざあらすじを辿ってくれなくても、といささかの冗長さを感じないでもなかったが、小林の言を借りれば、「ぼくの世代では当然のことだったが、現代の読者が『坊っちゃん』を読んでいるかどうかである。・・・ぼくたちの世代のように親しみを込めて読んでいるかどうかは不明である。ディテイルはおそらく忘れられているだろう」から、有名すぎると思われる「坊ちゃん」でも、ある程度の事件の説明は必要なのかもしれない。
 昔、私が中学生だった娘に漱石は全部読めよと言ったことがあるが、「いやだ、面白くないもん」と言下に断られてしまった。それ以来、娘の読書には口を挟まぬことにしたが、今の若い世代には、漱石は遠い存在なのかもしれない。ちなみに、光村図書発行の中学1年国語の教科書には、「坊っちゃん」の書き出しから松山に出立するまでが10ページほどにわたって掲載されているから、今でもほとんどの人がその一部くらいは読んだことがあるだろう。しかし、それに興味を持って自分で本を買ったり借りたりして最後まで読み通したことのある人は少ないのかもしれない。
 だが、私にとって「坊っちゃん」は、何度読んでも新しい発見があって興味の尽きない愛読書だ。作家丸谷才一も『闊歩する漱石』という著書の中で、「起承転結といふか序破急といふか、とにかくそれがうまく行ってゐて、たるんだ所が一箇所もない。一気呵成にぐんぐん進んで行って、小気味よく終わる。素晴らしい出来です」と絶賛している。まったく同感であるが、私が「坊っちゃん」を大好きな理由には、かつてNHKで放送された「新・坊っちゃん」が大変面白かったことが大きな影響を与えているかもしれない。柴俊夫が坊っちゃん役だったが、配役を調べてみた。
     坊っちゃん・・柴俊夫
     山嵐・・・・・西田敏行
     赤シャツ・・・河原崎長一郎
     たぬき・・・・三國一朗
     野だいこ・・・下條アトム
     マドンナ・・・結城しのぶ(最初は大原麗子の予定だった)
まったく配役の妙というか、誰もが私の抱いていたイメージとぴったりの役者ばかりだった。しかし、うらなり役は私の記憶にはまったくなく、あれこれ調べてもなかなか分からなかった。存在感のないうらなりらしくてそれも面白かったが、やっと見つけたのが、未確認ではあるが(確認のしようがない)、園田裕久という人らしい。写真を見てみたが、丸めがねをかければ私の記憶にあるうらなりと一致するような気もするのだが、どうだろう・・・
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