塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

地名探訪:「幕張」

2010年11月21日 | 地名探訪

 地名探訪第三弾、今回は千葉の「幕張」を取り上げようと思います。幕張といえば、幕張メッセや千葉マリンスタジアムのある千葉県側の副都心として知られています。我々が幕張と聞いて思い浮かべるベイエリアは、戦後の埋め立てによって形成されたもので、最寄駅はJR京葉線の海浜幕張駅です。古くからある総武線や京成電鉄の幕張駅や京成幕張駅、幕張本郷駅はベイエリアからは結構離れたところにあるので注意が必要です。すなわち、地名の起源でいうところの「幕張」は、ベイエリアからは少し奥へ入ったあたりを指しています。

 さて、「幕張」というちょっと変わったような、かっこいいような響きの地名の起源はどこにあるのか。以前、池上彰さんの番組の司会でおなじみの某タレントが、別の雑学番組で「昔、ある武将が陣を布いて幕を張ったから幕張って地名になった」と自慢げに話していたことがありましたが、これはまったくの誤り。そもそも「幕張」という表記になったのは、つい大正時代のこととされています。少なくとも、明治時代初期までは「幕張」ではなく「馬加」と表記され、読みも「まくわり」といっていました(旧かな遣いではどちらも「まくはり」)。ですから、武将が合戦をしていたころには「幕張」という表記はなかったのです。

 千葉市周辺には、鎌倉時代以前からの武家の名門千葉氏が勢力を持っていました。その千葉氏の一族に馬加氏があり、下剋上の戦国時代に本家千葉氏を乗っ取ってしまいました。当然ですが、この馬加氏が幕張氏と称したという事実もありません。

 では、「馬加」の由来はどうでしょう。これにはいくつかの説があります。1つは、真桑瓜(まくわうり)の栽培に適していたからという説です(ウィキペディアでも紹介されています)。しかし、ウィキにもあるように、真桑瓜という瓜が栽培されていたという記録がみられないため、信憑性は低いと思われます。

 2つ目に、馬をたくさん集められるところであったからという説です。この場合の馬にはさらに、祭礼用の馬と軍事用の馬という2つのパターンがあります。祭礼用の馬というのは、現地の素加天王神社の記録にあるもので、享徳元年(1452)の祭礼に馬を多く集めたことによるとされています。前述の馬加氏による千葉本家への反乱が享徳三年(1455)のことですから、時期的に合わないということはないものの、疑問は残ります。また、軍馬のパターンは目的が祭礼ではなく軍事というだけで話の筋は同じです。千葉県北部(下総国)には、古代から江戸時代まで馬の生産用の牧場が設けられていたことから、馬を多く集められる土地であったということはいえるかもしれません。ただ、それが「馬加」という字や「まくわり」という読みにつながるかというと、いまひとつ決定力に欠けるようにも思われます。

 3つ目に、古語に由来するという説です。私は古語にはさほど詳しくないので定かではありませんが、古語で「マク」は「沼地、湿地、沼沢地」を、「ワリ」は「海辺、浜辺」を表すのだそうです。つまり、「馬加」とは「海辺の湿地帯」といった意味の「マク・ワリ」からきているというのです。確かに、今でこそ東京湾岸はほとんど埋め立てられていますが、江戸前一帯は古くは多くの大河が注ぎ込む水気の多いところでした。とりわけ古代では、まともに道も作れないほどドロドロだったため、東海道は三浦半島の走水から船で上総国(千葉県中部)へ渡るルートをとっていたといわれています。また、関東以北にはアイヌ語や古語にちなむ地名が数多くあり、「馬加」もその1つであるという説は一番納得できるように思います。

 以上にみたように、「幕張」のもとである「馬加」の語源については、諸説あって確定はていません。ただ、幕張も現代のイメージと異なりかなり古い歴史を持つ地域であることは確かです。なんでも、幕張には幕張独特の方言があるというくらいです(「あなた」のことを「にしゃ(二者)」というそうです)。また、「馬加」がなんで「幕張」になったのかについても、よくわかりません。おそらくは、初見ではどうしても「バカ」と読みたくなる字面を嫌っての改名ではないかとは察せられます。

 私は東京の西側に住んでいるので、どうも千葉県側にはなかなか縁がないのですが、もし幕張方面へ行くことがあれば副都心だけでなく海辺や山側にも足を運んでみようかなと思います。

  



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