塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

地名探訪:「高知」

2011年06月08日 | 地名探訪

久々の更新となってしまいました。どうも、震災以来大きな記事ばかり書こうとするので、滞ってしまうようです。そこで今回は、ひさかたぶりに地名シリーズで一息つこうかと思っています。本日とりあげるのは、昨年の大河ドラマの舞台となった「高知」です。

 高知の地名の由来は、江戸時代に土佐藩主となった山内氏の築いた高知城にあります。それ以前は、高知城のある丘を大高坂山(おおたかさやま)と呼び、かなり古い時代から大高坂氏という豪族が住んでいました。南北朝時代には、土佐での南北朝勢力間の激戦がここで行われました。

 さて、関ヶ原の合戦による論功で土佐一国の領主となった山内一豊は、大高坂山に新しい城を築きます。同時に、土地の高僧に頼んで城に新しい名前を付けてもらいました。新しい領主が城や町に新しい名前を付けるのは当時のブームでした。大高坂城は、鏡川と江ノ口川という2つの川に挟まれていたことから、「河中山城(こうちやまじょう)」と改名されました。

 しっかり者の奥さんと、自身のゴマスリで一国の主にまで登りつめた一豊ですが、彼の生存中はまだずっと「河中山城」のままでした。まして、麓の町がどう呼ばれていたのかは定かではありません。そもそも、城も城下町もまだまだ建設中でしたから、「河中山城下」という以外にとりたてて呼び名がなかったのかもしれません。

 その後、「河中」の字のごとく川に挟まれた城と町は、相次ぐ水害に悩まされました。一豊死後に跡を継いだ甥の忠義は、そんな「河中」の字と嫌って、再び別の土地の高僧に字を改めるように諮りました。その助言によって、「河中山」の字は読みは同じで「高智山」と改められました。そして、「高智山城」がいつしか「高知城」となり、城下町も「高知」と呼ばれるようになりました。つまり、高知という地名に落ち着いたのはかなり新しいことといえるのです。

 ところで、「大高坂」を「おおたかさ」と読むのも難しいですが、高知県は実は難読地名や難読苗字の宝庫ともいえるところです。たとえば公文式考案者の公文公氏の公文(くもん)や、元セガ社長の入交昭一郎氏の入交(いりまじり)、戦国武将として名高い長宗我部氏(ちょうそかべ)や香宗我部氏(こうそかべ)などが高知特有の苗字です。

 そこで、オマケとして高知難読地名クイズで〆たいと思います。みなさん、いくつ読めますか?

 1、五百蔵
 2、介良
 3、薊野
 4、別役
 5、戸波
 6、尾立
 7、波介
 ・・・・挙げたらきりがないのでこの辺にしておきます^^; 答えは下の方に。





















 1、いおろい
 2、けら
 3、あぞうの
 4、べっちゃく
 5、へわ
 6、ひじ
 7、はげ

 いかがでしょうか。なんでそうなったの?というものもあれば、単にちょっと訛りが入っているもの、あるいは特定の漢字に特定の読みが充てられているものなどパターンがいくつかあるようですね。高知はとても良い所です。ブームもひとまず去ったことですし、今ならゆっくり楽しめるのではないでしょうか。

  



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