塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

「百年の計」と「競争社会」

2010年05月28日 | 社会考
  
 サッカー日本代表が韓国に完敗した24日の試合後、岡田監督が進退伺を口にしたことが問題となった。しかし、ワールドカップ開催までひと月を切った状況での監督の交代など現実的ではなく、岡田監督はすぐに冗談だったとして発言を撤回した。この岡田監督の発言について、メディアはこぞって責任放棄だと非難した。だが、本番直前だったから責任問題は棚上げされただけで、これが開催3カ月前とかであったら、おそらくメディアは一斉に「辞めろ」と書きたてたんじゃないかと思う。

 26日には、ヤクルトスワローズの高田監督が辞任した。背後には何かドロドロしたものがあるようだが、表向きは交流戦での9連敗という成績不振の責任をとったものだ。万年最下位だったころの阪神が好きだった自分としては、9連敗くらいでいきなり辞任しなくてもと思ったりもするが、一般のファンにとっては耐えがたい数字なのだろう。

 立て続けの指揮官の辞任騒ぎでふと思ったのは、日本人は目前の結果を求めすぎてはいないかということだ。一度は指揮権を任せてみても、短いスパンで結果が出なければすぐに首を挿げ替えようとする。次が駄目なら、またすぐ次に、という具合だ。

 こうした傾向が顕著なのが政治だろう。現下の鳩山首相率いる民主党政権は、誰が見ても終末的状況と思われるが、考えてみれば民主党政権も、昨年秋に前政権に見切りをつけて選んでからまだ8ヵ月ほどしか経っていないのだ。8ヵ月でもう底が知れたというのももっともだが、これが、国民が見切りと首の挿げ替えを繰り返した結末だということも認識しなければならない。

 珍しく5年超の長期政権となった小泉内閣以降、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣そして鳩山内閣と現在にいたるまで短命政権が続いている。いずれも、初めは期待されるが、すぐに失望を買って非難を浴びて辞職、というパターンだ。しかも、政権が交代するたびに酷くなっていると感じているのは、私だけではないだろう。もはや、鳩山内閣も駄目だから交代といっても、誰もなり手がいないくらいに消耗してしまっている。

 「ろくな政治家がいない」と言ってしまえばそれまでだが、そんなろくな政治家がいない状況の下地を作っているのは、有権者にも非がある。今度の参院選では、「若けりゃいい、有名ならいい」といわんばかりにタレント、スポーツ選手、とりあえず若い、とりあえず女性といった候補者が乱立し、問題となっている。メディアでもネットでも、そうした客寄せパンダのような人たちに政治ができるのかと批判している。しかし、政治家は客を寄せられないパンダを飼ったりはしない。うわべではどんなにメディアに批判されようとも、そうした有名人やイメージだけ候補が相当数の票を獲得できることは間違いないのだ。

 現行の政策を非難する人は、よく「長期的視野に立って」とか「我々の子孫の代のことを考えて」などと口にする。それでは、政治家の立場に立って考えたときに、10年20年先にようやく効果が表れるような政策を訴えるインセンティヴを持つかどうか。衆議院任期の4年間維持できる内閣がほとんどない日本において、長期の計画を立てたところでじっくりと取り組める保証など全くない。その上、政策よりも知名度やイメージが選挙に影響するとなれば、馬の眼前にぶら下げたニンジンのように、現金給付だ無料化だとオイシイ話をバラまき続ける方が、割が良いと考えるのは当然だろう。

 とりわけ政治では、やれ「百年の計」だ「米百俵」だと、中長期的政策が求められる。そのくせ、有権者自身がそうした長期的な目で人を選んではいないのだ。少なくとも、衆議院なら4年間、参議院にいたっては6年間日本の政治を託すのだ、という慎重さをもって投票に臨む必要があろう。

 スポーツから入って政治の話が長くなってしまったが、このことは先の監督の件にも当てはまると思う。野球にしろサッカーにしろ、1シーズンやってみて、その経験が2年目で生かされると考えれば最低で2年は結果を待つべきではないだろうか。ワールドカップであれば一度預けた以上、とりあえずは最後まで温かく見守ってはどうだろうか。もちろん、放縦しろということではなくで、厳しさは温かさの部分集合にとどめてはいかがか、ということだ。

 ちなみに少々ぼやきを付け加えると、このところの学術研究というものも、どうも短期に結果を出すことが要求される傾向にあるように思う。理系文系を問わず、早々に成果がでるものもあれば、じっくり腰を据えないと結果が見えないものもある。サントリーの「青いバラ」は、開発に十数年を要した。これはサントリー創業者の「やってみなはれ」の精神があってこそと言われている。今の日本の状況では不可能に近かっただろう。「百年の計」と「競争社会」のどちらをとるのかという問題に、我々一人々々が自分の答えを持つよう心掛けなけらばならないと思う。

  



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