塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

良い作品は整合性を超える

2010年05月25日 | 書評
  
 最近ふっとアニメ版「時をかける少女」が観たくなった。時間移動を扱う話は、どんなに練り直しても、どこかにタイムパラドックスが生じてしまう。タイムパラドックスについては、以前記事にしたことがある。「時かけ」も、この問題については突っ込みどころ満載である。むしろ時間移動を扱った物語のなかでは、かなり時間に関する設定がずさんな方ではないかとさえ思う。

 しかし、揚げ足取りの好きな自分ですらいちいちそんなことにはかまっていられないくらい、この作品には人を惹きつける魅力があると思う。結局良い作品というのは、多少の整合性の問題は軽く乗り越えてしまうものなのだろうと、自分は考えている。

 たとえば、夏目漱石の『こころ』で、「私」は「先生」から郵送されてきた遺書を汽車のなかで広げる。遺書は、四つ折に畳まれて郵便で送られてきた。ところが、その遺書は文庫本で100ページ以上の文量であり、折ったり郵便で送ったりするのは不自然であると、わざわざ脚注がつけてある。また、「私」はそのころ父親が死の床にあり、そんな肉親を放って、汽車に飛び乗り「先生」のもとへ向かうというのは考えられないという批判もある。

 しかし読めば分かることだが、遺書が折られているかいないか、「私」がそれを汽車のなかで読むか家で読むかは、話のテーマには何ら影響を与えない部分だ。もちろん指摘はいちいちごもっともだが、そのような整合性上のミスによって小説の価値が損なわれているかといえば、おそらくいえないだろう。『こころ』において「先生」の遺書が読者に与えるインパクトは、それくらい大きなものだと思う。どうしても気になって仕方がないというなら、「四つ折の郵便」を「分厚い小包」に、「汽車のなか」を「実家の一室」にでも脳内変換すれば済む話である。

 逆に、整合性にこだわろうとすれば、ミスが目立ってしまう結果にもなりかねない。そのような例として、ここでは浦沢直樹の『20世紀少年』を挙げたい。この作品では、本格科学スペクタクルとか何とか銘打たれているように、論理的設定が非常に細かく作り込まれている。そうした細部にわたる設定や展開は、実際にあり得る話だと読み手に思い込ませたいのではないかという意図さえ感じられる。

 ところが、かゆい所にばかり心血を注ぎすぎたのか、肝心なターニングポイントで割と説明もなく話が進められている。「なぜ友民党が連立内閣に入ると景気が回復するのか?」、「なぜ東京のロボットを退治すると国連で表彰されるのか?」、「なぜ顔も見せない新興宗教の教祖をわざわざローマ法王の方が出向いて訪ねるのか?」、そして「なぜローマ法王を助けると世界大統領になれるのか?」。これらはすべて話の核心を左右する出来事だが、その因果関係は全く触れられることなくスルーされている。物語の大筋にはさほど影響しない細かな設定が妙に凝っているだけに、こうした重要なポイントでのアラが目立ってしまって仕方がない。

 一応付け足しておくと、浦沢さんは日本を代表する優れた漫画家の1人だと思っている。『MONSTER』はとても面白かった。『MONSTER』の成功で少し偏ってしまったのかな、というのが僕の感想である。

 結局、長い話を作ろうと思ったら、人間1人の頭で完全な整合性をつけることは困難だということなのではないだろうか。その点は割り切ってしまって、自分が据えた主題にとにかく軸足を置き、多少枝葉の部分で齟齬が生じてもガンガン話を進めてしまった方が、メッセージ性のある力強い作品に仕上がるように思われる。逆に、あまり枝葉末節の設定にこだわっていると、主題の方がおろそかになったり肝心なところで繋がらなくなってしまう危険性が出てしまう。主題の追求と整合性の追求とは、相反するベクトルとまではいわなくとも、縦軸横軸の関係にあるといえるのではないだろうか。

  



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