塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

大津いじめ事件所感:いじめに対する認識の誤り

2012年09月28日 | 社会考
    
 大津いじめの被害生徒が自殺したのが昨年10月と聞いているので、まもなく発生から1年になる。その後、他の多くの都道府県でも学校でのいじめが報じられるようになり、いじめ問題が再び社会問題としてクローズアップされている。他方で、個々の案件もさることながら全体としてのいじめ問題の解決に関する議論は、報道の過熱ぶりほどには進んでいないように思われる。

 先々月の記事で、そもそもわが国では「いじめ」の定義が曖昧であるという点を指摘した。「本人がいじめと感じたらいじめ」というのは道徳の上では問題ないが、行政や司法など厳格な定義が求められる場面では大津の学校関係者が二言目には言うように「いじめとは認識できなかった」というグレーゾーンを許してしまうことになる。

 一方で、いじめ問題に取り組もうとする側にも、基本的な認識で現実とのずれがある場合があるように思える。今回は、そのうち2つの点について私見を述べさせていただきたい。

 ひとつは、いじめ問題に対するスローガンとしてよく掲げられる「いじめゼロ」や「いじめをなくそう」といった謳い文句だ。ただの掛け声というのならまだしも、本気でいじめをこの世からなそうと意気込んでいるのなら、それは単にいじめの本質を理解していないということになる。いじめを完全にゼロにすることはできない。私は以前の記事で、いじめを「加害者と被害者の力関係の優劣に依拠して、精神的・肉体的苦痛を与える行為」と定義した。翻って、いじめが起こりうるということの必要条件は、人間が複数いるというそれだけなのだ。すなわち、人間が2人以上いればどこでもいじめは起こりうる。

 大人の世界でだってこれだけハラスメントで溢れているのだから、成長過程の学校社会でいじめが起きないはずがない。交通事故や殺人と同じように、なるべく起こらないように努力したり、起きた場合に迅速に解決を目指したりすることはできても、発生件数をゼロにすることはできないのだ。この点を踏まえずに「いじめゼロ」が良いことであるかのように考えている限り、いじめを見てみないふりするという選択肢が生まれてしまう。

 いじめはどの学校、どのクラスでもあって当たり前。見つけてナンボ、解決するのが職責。こうした考え方が、これまで安定した人生を送り、これからもそうありたいとばかり願う教職員や官僚の方々にはできないのだろう。目下のところ、いじめがない学校が良い学校と評価されているようだが、私にいわせればそのような学校はただの職務怠慢だ。重要なのは、いじめをいかになくすかではなく、いかに見つけて対処するかという点にあるものと考えている。

 さて、ふたつ目は、頻度としてはそれほど多くは見かけないのだが、自殺した生徒になぜ具体的な記録を遺さなかったのかと残念がる人たちについてだ。走り書きのようなメモだけ遺し、結果裁判で十分にいじめが立証されなくて苦労するといったことが、いじめ自殺問題ではしばしば見受けられる。こうした場合、世論では自殺者が何も書かず語らず死んでいったことを悔しがり、なかには「死ぬくらいならいじめた相手の氏名と所業を全部書きだせばいいのに」といった声を聞くこともある。

 しかし、少し考えてもらいたい。若いみそらでもはやこの世にいることは苦痛でしかなく、死んで楽になろうと思い詰めている人間が、なんでわざわざ時間を割いて嫌な思い出をリフレインさせようとするだろうか。嫌な奴の名前や受けた恨みを書き出す気力があるなら、そもそも自殺などしないのではないだろうか。追いつめられて、他に方法が思いつかないから死ぬのであって、我々生きている人間の論理を当てはめるのはお門違いであると思う。

 むしろ、何も書かれていない白紙の部分にこそ、被害者の無念や苦しみ、辛さを読み取らねばならないのではないか。語らぬ死者の気持ちに心を傾ける人間性があれば、いじめ自殺裁判もかなり違った方へ向くであろうに、と考えると教員の質だけでなく司法に携わる人々の質にも疑問を呈さざるを得ない。

 以上の点を踏まえると、今後の教育といじめの問題に関して進むべき方向が明らかとなるだろう。まず、生徒が1人でない限りいじめは起こりうるのであって、いじめをなくそうというのではなく、いじめをいかに素早く発見し処理するかという点に軸足を置いて、新しい制度なりマニュアルなりを作るべきだろう。そして、もし自殺者が出てしまった場合、それは相当に尋常ではない事態なのだと認識すべきである。いじめが原因に限らず、若者が自殺するなど異常なことだ。その異常性をしっかり自覚して対処できるような人物でなければ、教育や司法に携わるべきではないし、そのような人物を育て選別できるような資格制度を構築しなければならないだろう。