先日の春の嵐はものすごい風でしたね。そして、嵐が去ってようやく桜の季節がやってまいりました。今年は例年よりかなり遅い開花となったようで、花見のメインをいつ・どこにしようかいまだに考え中です。
さて、桜の季節といえば、学生にとっては卒業&入学のシーズンです。そして、卒業式&入学式で話題となるもののひとつが、君が代不起立問題です。とくに今年は、橋下徹大阪市長が府知事時代の昨年6月に、公立学校教師に君が代の起立斉唱を義務づける条例を成立させたこともあって注目を浴びています。他方、不起立における処分をめぐって争われた最高裁の判決が今年1月に言い渡され、戒告を超えた減給以上の処分は重すぎるとの見解が示されました。橋下市長の腹案と最高裁の判決は真っ向から対立しているわけですが、マスコミや世論はこういったナイーヴな問題にはなるべく触れたくないようで、対岸の火事と眺めながらという程度の議論しかみられないように感じます。
私自身、憲法の解釈がどうだとか、精神の自由がどうだといった議論にまで発展すると、なかなか自論をまとめられるだけの材料も思索の蓄積も十分にもっているとはいえません。ですが、そのような小難しい議論の前に、私にはこの問題に関してどうにも気になることがあります。
君が代は、1999年の国旗国歌法によって正式に日本国の国歌と定められています。そして、種々の学校式典では国歌斉唱とそのための起立を求められます。これに応じないということは、規則ないし職務命令に反しているということになります。これを子供たちの言い回しに落とすと、「きまりを守らない」あるいは「言われたことを守らない」となります。
先生は、当然ながら生徒たちに「きまりは守りなさい」、「言われたことをきちんとしなさい」と日常的に注意します。その心は、学校は勉強と同時に社会生活を学ぶ場でもあるというところにあるのでしょう。ですが、その当の先生たちのなかにきまりを守らない人があり、学校がそのような人を毅然と取り締まることができていないとなると、どうでしょう。そのような人たちが社会のルールについて子供たちを諭す立場にいるというのは、私にはどうも腑に落ちません。
大阪府では、口元まで見てちゃんと歌っているかどうかをチェックしはじめていると聞きます。当然、これまで不起立だった教師たちは行き過ぎだと抗議するのでしょう。ですが、口元チェックがダメだというのなら、あなた方教師がよくやる生徒の持ち物の抜き打ち検査はどうなの?と聞きたくなります。自分たちは生徒に強いておきながら、自分たちがされる立場になるのはNOというのは、とても理屈に合いません。
もちろん精神は自由です。ですが、公務に服する者であり、人に教える立場にある以上、決められたルールには従い、言いたいことがあるならその上で唱えるというのが筋ではないでしょうか。職務命令には従わず、言いたいことはわめき散らし、それでいて自分を罰するのは不当だなどとのたまう人たちから、私は決してものを教わりたいとは思いません。それでもなお起立したくないというのであれば、最低でもご自身の職命は賭していただかないと、生徒たちに示しがつかないのではないかと考えます。