

この箇所の「Shofetim・裁く・助ける」という言葉から来ているのですが、「士師」とか「裁き司」では一般的に意味が通じませんので、「解放者、救済者」と理解すれば分かりやすいと思います。
やっと約束の地に入ったイスラエル部族には、それぞれ土地が割り当てられましたが、その段階で先住民との戦いは未だ終わっていませんでした。反イスラエル勢力は未だ各地に点在しており、イスラエル民族を脅かしていたのです。当時のイスラエルには、モーヤやヨシュアのような指導者はおらず、約束の地に入ったと言う安心感の故か、烏合の衆と化した民は早くも偶像礼拝に陥っていました。それで神はその時、その地域、その相手ごとに、救済者を送ってイスラエルの民を守られたのです。
本書は、彼らがカナンの地に入ってから、イスラエルが王制によって建国される迄(BC1400-1100)約300年間の、政治的指導者、宗教的指導者、国を導く預言者、それどころか政府も、首都さえなかった混沌とした時代に活動した12人の救済者たちと、イスラエル民族の歴史が記されているのが本書の内容です。
さて、本書のキ−ワードとなる御言葉が、21章中計4回(17:6、18:1、19:1、21:2)登場します。

実は本書を歴史的観点から見ますと、本書は旧約中でも、私達にとって非常にメッセージ性が濃い、ある意味身近な書巻であると言えます。何故なら、この士師の時代は今の日本の状態と重なるものがあります。それでは、現代に生きる私たちに士師記がどのように適応できるのでしょうか?今日は、本書から4つポイントでお話しをします。


イスラエル民族の歴史には、有史以来、繰り返されている一つのサイクルがあります。
①神に選ばれ、神と契約を結んだ民にもかかわらず神を忘れ、神との関係から離れて行く(

②他の神々にひれ伏す(

③イスラエルの人々の生活が脅かされる(

④イスラエルの部族間や異民族間での争いが起きる(

⑤イスラエルの人々が主に助けを求める(

⑥神が救済者や預言者を遣わしてイスラエルの人々を助ける(

このようなことが繰り返されるのは、士師記の2章10節に書かれているように、「信仰の継承(自分の家族は勿論、次世代への継承)」が成されていない事が原因です。そしてそれは、私たちの生活が、危機的な状況に陥ることを意味しています。

現代に生きる私たちクリスチャンは、この世に神様から遣わされた「士師!」であるという自覚を持つことが大切です。12士師は、12部族や12弟子に比べると、非常にマイナーな存在です。彼らはダビデやエリアのような国民的ヒーローではなく、ごく普通の人、非常にクセのある人、女性に弱い乱暴者や仲間たちからのけ者にされているような人たちでした。神は聖人君子のような人物でなく、欠陥だらけの人間をあえて選ばれるのです。そして彼らは限られた時代・部族・地域の救いに向けて神様から派遣された地域限定型救済者でした。 私達も現代日本という特殊な時代・国に神様から使わされている存在なのです。

当時のペリシテ人は、すでに鉄器を武器として使用していました。しかし、当時のイスラエルの人々には、鉄を精製する技術はなく、そんな状況の中で、サムソンはロバの顎の骨を武器にペリシテ人を倒したのです。また、シャムガルの武器は何と牛追い棒でした。「そんな、まさか?!」と思われるかも知れませんが、ここに神様の力が士師を通して現されています。そして今も、神様を信じるクリスチャンには、常識を超越した神様の力が聖霊様によって与えられているのです。
2コリント8章11-12説には、このように書かれています。


士師たちはどのようにして神様の使命を成し遂げることができたのでしょうか?彼らの力の秘訣が聖書にこう記されています。









また、新約聖書(ヘブル書11:32)に取り上げられている士師が4人(ギデオン、バラク、サムソン、エフタ)います。上記の4人と比較すると、オトニエルのかわりにバラクの名が挙げられていますが、彼ら12人は全て神によって立てられた救済者であり、神様に用いられるの力はいつも聖霊から来ます。
私たちの力はいつも神様から来るという事を信じ、聖霊に依り頼むこと、それは士師記の時代も、現代に生きる私たちの時代も同じです。いつも御声に耳を傾け、聖霊に従い、自分の思いで先走らないことが大切です。イエス様と繋がること。それが、聖霊の力を得るという事につながります。イエス様とつながってさえいれば、私たちクリスチャンは必ず、自分が置かれた場所で花を咲かす事が出来るのです




