Good News Report

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救いの聖岩

2015年10月16日 | Good News
麦打ち場は広々として、風通しが良く、大きく平らな岩がある。

そこで刈り入れた麦の穂を岩の上に、太陽の光で乾燥させた後に並べ、麦穂を打つこうして実と殻を分けて収穫する。

こうした収穫作業をベースにキリストが話された、マタイ13章の「麦と毒麦」のたとえ話。

これは終末時代に生きる私たちへの重要なメッセージである。

先ず、麦打ち場に麦を置く前に、麦と毒麦を分別する必要がある。

もし、麦と毒麦を一緒に麦打ち場で打ってしまうと、麦に異物が混ざって全体がダメになってしまうからである。

毒麦は麦と同じ畑に一緒に生えており、外見上、本物の麦とほとんど見分けがつかない。

また、根が繋がっているので、毒麦を抜こうとすると、麦も一緒に抜かれてしまう。

なので、毒麦は収穫する段階で注意深く選別し、火で焼いておかなければならなかった。

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである(マタイ13章39節」

そして、終末の時には、それと同じような事が起こるから「耳の有る者は聞きなさい(マタイ13章43節)」とイエスは警告された。

畑は世界の事であると同時に、教会の事でもある。つまり地域教会には、クリスチャンとノンクリスチャン、そして偽クリスチャンの3種類の人達がいる。

そして最後の収穫の時に、麦と毒麦とが分けらる。この「分ける」という言葉が、日本語で「裁き」と訳されているのである。

教会の土台は、麦と毒麦を、実と殻を「分ける」ための裁きの岩である。

そこには、人間の感情・感覚・道徳観などが入り込む余地は全くない。

完全なる聖さ、完全なる義、完全なる赦しがあってこそ、神の国は成立するからだ。そしてそこに入るためには、完全なる分割が要求される。

そこで私たちがすべきことは、そのような完全さを目指すことではなく、そんなことは自分には出来ないことを悟ることである。

この同じ場所に、キリストはもう一度、裁き主として来られる。

しかし、神は人間に対する怒りを、私達が感謝し、礼拝するための場所と変えて下さった。

ダビデ最後の失敗のエピソードは、神の怒りと裁きではなく、神の憐れみと赦しがテーマなのである。



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