麦打ち場は広々として、風通しが良く、大きく平らな岩がある。
そこで刈り入れた麦の穂を岩の上に、太陽の光で乾燥させた後に並べ、麦穂を打つこうして実と殻を分けて収穫する。
こうした収穫作業をベースにキリストが話された、マタイ13章の「麦と毒麦」のたとえ話。
これは終末時代に生きる私たちへの重要なメッセージである。
先ず、麦打ち場に麦を置く前に、麦と毒麦を分別する必要がある。
もし、麦と毒麦を一緒に麦打ち場で打ってしまうと、麦に異物が混ざって全体がダメになってしまうからである。
毒麦は麦と同じ畑に一緒に生えており、外見上、本物の麦とほとんど見分けがつかない。
また、根が繋がっているので、毒麦を抜こうとすると、麦も一緒に抜かれてしまう。
なので、毒麦は収穫する段階で注意深く選別し、火で焼いておかなければならなかった。
「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである(マタイ13章39節」
そして、終末の時には、それと同じような事が起こるから「耳の有る者は聞きなさい(マタイ13章43節)」とイエスは警告された。
畑は世界の事であると同時に、教会の事でもある。つまり地域教会には、クリスチャンとノンクリスチャン、そして偽クリスチャンの3種類の人達がいる。
そして最後の収穫の時に、麦と毒麦とが分けらる。この「分ける」という言葉が、日本語で「裁き」と訳されているのである。
教会の土台は、麦と毒麦を、実と殻を「分ける」ための裁きの岩である。
そこには、人間の感情・感覚・道徳観などが入り込む余地は全くない。
完全なる聖さ、完全なる義、完全なる赦しがあってこそ、神の国は成立するからだ。そしてそこに入るためには、完全なる分割が要求される。
そこで私たちがすべきことは、そのような完全さを目指すことではなく、そんなことは自分には出来ないことを悟ることである。
この同じ場所に、キリストはもう一度、裁き主として来られる。
しかし、神は人間に対する怒りを、私達が感謝し、礼拝するための場所と変えて下さった。
ダビデ最後の失敗のエピソードは、神の怒りと裁きではなく、神の憐れみと赦しがテーマなのである。
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そこで刈り入れた麦の穂を岩の上に、太陽の光で乾燥させた後に並べ、麦穂を打つこうして実と殻を分けて収穫する。
こうした収穫作業をベースにキリストが話された、マタイ13章の「麦と毒麦」のたとえ話。
これは終末時代に生きる私たちへの重要なメッセージである。
先ず、麦打ち場に麦を置く前に、麦と毒麦を分別する必要がある。
もし、麦と毒麦を一緒に麦打ち場で打ってしまうと、麦に異物が混ざって全体がダメになってしまうからである。
毒麦は麦と同じ畑に一緒に生えており、外見上、本物の麦とほとんど見分けがつかない。
また、根が繋がっているので、毒麦を抜こうとすると、麦も一緒に抜かれてしまう。
なので、毒麦は収穫する段階で注意深く選別し、火で焼いておかなければならなかった。
「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである(マタイ13章39節」
そして、終末の時には、それと同じような事が起こるから「耳の有る者は聞きなさい(マタイ13章43節)」とイエスは警告された。
畑は世界の事であると同時に、教会の事でもある。つまり地域教会には、クリスチャンとノンクリスチャン、そして偽クリスチャンの3種類の人達がいる。
そして最後の収穫の時に、麦と毒麦とが分けらる。この「分ける」という言葉が、日本語で「裁き」と訳されているのである。
教会の土台は、麦と毒麦を、実と殻を「分ける」ための裁きの岩である。
そこには、人間の感情・感覚・道徳観などが入り込む余地は全くない。
完全なる聖さ、完全なる義、完全なる赦しがあってこそ、神の国は成立するからだ。そしてそこに入るためには、完全なる分割が要求される。
そこで私たちがすべきことは、そのような完全さを目指すことではなく、そんなことは自分には出来ないことを悟ることである。
この同じ場所に、キリストはもう一度、裁き主として来られる。
しかし、神は人間に対する怒りを、私達が感謝し、礼拝するための場所と変えて下さった。
ダビデ最後の失敗のエピソードは、神の怒りと裁きではなく、神の憐れみと赦しがテーマなのである。
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