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『時は神なり』 詩編90:14

2014年08月24日 | Good News


■『時』に関するC.S.ルイスの洞察

 C.S.ルイスが、『詩編を考える』という本を書いているが、この本の最後に、『時』ということについて、実にユニークな見解が記されている。「私たちは、もうこんなに大きくなって?とか、何で時が経つのは早いのだろう!」と、我々はよく驚きの声を上げる。時間と言うこの上もなくありふれた経験が、ひどく珍しいものであるかのように驚かされるといった按配だ。だが、これはよく考えて見ると、実に不思議なことである。

 何故なら、それは魚が『どうして水ってこんなに濡れているんだろう?』と、しょっ中考えているようなものだからである。しかし、もし魚がやがて陸地に住む生物として運命付けられているとしたら、魚が水が濡れていることに驚いたとしても、無論、何も不思議なことはない」とこの本はここで終わっている。

 この話しでC.S.ルイスは何が言いたかったのだろうか? 彼はイエス・キリストの弁証家である。つまり彼の結論は、「だから神はいる」、「だから天国は存在する」ということなのである。


■ヘブル文学の最高峰 詩編90章のテーマは『時』

 詩編はヘブル語で「テリヒーム」と言い、「ハレルヤ」とほぼ同義語である。英語の「プサーム」は、ギリシア語の「プサスモイ・奏でる」という意味から来ている。この90章は、詩編全150章中、唯一、作者モーセと記されている章である。クリスチャンを10年やっている(?)人でも、詩編にモーセの作品があると聞いて驚かれる人も少ないないが、一般的にヘブル社会では、90-100迄がモーセの章と言われており、確かに95章8-11節等の内容を見ると、それも頷ける。

 実は、ヘブル語の 「の」、「のために」「による」 は、前置詞として同じ意味を持つので、「モーセの歌」とも、「モーセのための歌」とも取れるのだ。そしてこの90章は、詩編の中でも、「比類なき気高さに溢れた最も感銘深い詩」、「ヘブル文学の最高峰」と謳われている詩である。この「ヘブル文学の最高峰」が謳ったテーマ。それが『時』であった。
今日のメッセージは、聖書が語る『時』に関して、私たちが認識すべき4つの点について語る。





Ⅰ. ヘブル語の時には永遠と言う概念が込められている。

 創世記1章5節の第一日目の創造で、神は『時』を創造された。時間というものは、太陽や、空気や、自然環境と同様、人間が生活するために、神が創造されたものなのである。ギリシア語の『時』と言う言葉には、『カイロス(神の時)』と『クロノス(人の時)』という二つ概念があるが、実はヘブル語には、大文字と小文字の区別がないように、現在形と未来形という時制の区別もないのである。

 つまり、彼らは現在のことを未来のことにように、未来の事を現在の事のように語るのである。例えば、ユダヤ人が友人と待ち合わせしていて、1時間経ってもその友人が来ない場合、私たち日本人なら、彼はもう来ないと判断する。ところが、ユダヤ人は待ち続ける。何故なら、「彼(友人)は来る ”He comes.” のだから」。彼らには、“He will come.” 彼は来るだろう。」という未来の区別がないので、ユダヤ人は、その友人が実際に来ていなくても、あたかも来ているかのような態度を示すのである。

 私の友人が、メシアニックジューの友人の家に食事に呼ばれた時、その友人が、「ところで私たちの家族は、900年前にシナイ山で…。」などと話し始めた時、何を言っているのか理解出来なかったそうである。90年だったらまだ分かるけど..。つまり、彼らは、こういった時空の感覚の中で生きているのである。私たちにとっては果てしない昔の出来事を、今の自分と直結させて考えているのである。

 これは日本人には、なかなか理解出来ない感覚だが、ここで大切なことは、ヘブル語の『時』には、『永遠』という概念が埋め込まれているということである。つまり、一分であろうと、一時間であろうと、一年であろうと、一世紀であろうと、「今、ここに約束がある。」という、クロノスを超越した時間空間を、聖書は創り出しているのである。

 教会が様々な困難に遭っている時、「こんなに待っているのに主は来てくださらない…。」と私たちは、呟きたくなる。ところが、神の時空において、主の再臨は既に完成されているのである。その完成された神の御国の幻を見ながら、私たちは日々の困難を耐え忍ぶように召され、また耐え忍ぶ力が与えられているのである。


Ⅱ. 人生とは時間であり、時間とは命のこと

 昔、日本では人生50年と言われていたが、今はおよそ80年。この人生80年とは、はれっきとした時間のことであり、それは有限である。人生とは、神から与えられた時間のこと。人生とは時間であり、時間とは命のことなのである。

 また、一つボタンのかけ違えてしまうと、また全てのボタンを外して、また最初からかけ直さなければならないように、日常生活においても、仕事においても、動作は一緒でも順番を違うと大変なことになる。ボタンをかけている動作は同じでも、かけ方を間違うと、全てやり直さなければならなくなってしまうからである。

 人生という限られた時間の中で、優先すべき事を優先し、どうでも良いことは捨てていくことは、実に重要な作業である。つまり、私たちが何に時間を使っているのかということは、何に対して自分の命を使っているのかということと同じなのである。


Ⅲ. 人は自分がすべきことを知っていながら、楽な方を選択する

 人は朝起きてから夜寝る時まで、自分の生活の中でやっていることには全て、順位が付けている。その優先順位は、ほとんどの場合、無意識の内に付けられているのだが、その選択基準は現実的に多くの場合、目先にある物なのである。例えば、すごくお腹が減っていると、もうすぐ食事の時間だと言うのに、つい目の前にあるドーナツに手が出てしまう。これが人間の性なのだ。

 つまり、私たちは普段、頭ではまともなこと考え、口ではまともなことを言ってはいても、いざ実際の行動となると、その場限りのことをやってしまうのだ。先を見て我慢するということが、なかなか出来ないのである。楽なことと苦しいこと。人はどちらを先に選ぶか?それは間違いなく楽な方である。つまり、私たちは日々生活の中で、やるべきこととは知ってはいても、ついつい先延ばしにしてしまうという性質を持っているのである。

 私たちは誰もが、当たり前のように明日はやってくると考えている。しかし、実際はそうではない。私たちは何時、何処で、どんな形で自分に死が訪れるか、全く分からないのである。人は必ずしも年をとってから死ぬのではない。ある日突然、死が私たちに訪れるかも知れないのである。

 もし今日、半年後にあなたに『死』が訪れるとしたら、あなたは残された時間をどう使うだろうか?誰とどのような時間を過ごすだろうか?自分に残された時間が僅かであることを知らされれば、誰だって、自分にとって本当に大切な事だけを厳選して、行動するようになるはずである。今まで同様、TVゲームや、日本のTVドラマに熱中したりしている人がいたら、その人は精神異常である。

 ところが、人間というものは、「死は何時訪れるかも分かりませんよ」と言われたくらいで、自分の死について真剣に考えることは出来ないのである。そう言われても、「それは確かにそうだけれど、まぁ、今日明日ということはないでしょ」と考えるのが普通なのである。これが私たちの『死』と『主の再臨』に対する捉え方の現実である。そして実際に『死』と『再臨』の現実が自分の目の前に迫った時に初めて、人はあわてふためくのである。


Ⅳ. 神の国と神の義を第一に求める

 イエス・キリストは、自分が何時、何処で、どのように死ぬのかと言うことを知っておられた。その点において、私たちとは状況が全く違う。自分は間もなく十字架にかかって死ななければならない。そのことをはっきりと知っていたイエスは、どのように3年半の伝道生涯を過ごされたのだろうか?イエスがいつも第一優先としていたのは、神の国と神の義である。それがどれほど大切なのかというと、自分の全財産を売ってでも買うべきものだとイエスは言われた。

 「神の国と神の義を第一に求める」このことは、今まで繰り返し、繰り返し、言ってきたことであり。そんなことは、言わなくても誰だって分かっている。しかし、ここでもう一度、私たちは自分の優先順位と、イエスの優先順位について真剣に考えなければならない。何故なら、人が物事を選択する背景には、神の導きと共に、それを阻止して人を破滅に陥れようとしている悪魔の力も働いているからである。

 神が人間と関わっておられるように、神の対極にいるサタンも、人間と関わっている。悪魔礼拝でもしていない限り、人は誰も自分が悪魔に仕えているなどとは夢にも思っていない。ところが、神と悪魔の真ん中の位置というものは存在せず、霊の世界においては中間というものはないのだ。つまり、人間は神側の支配下か、悪魔の支配下か、その二つの内のどちらかなのである。

 マタイ16章21-23節で、イエスが十字架と復活の預言された時、ペテロはイエスに「とんでもない、そんな事はあってはなりません!」と言った。確かに人間的な観点からすると、神の子であり、救い主であるイエスが、この世で最低最悪の十字架刑に架かるなど、あってはならないことである。つまり、ペテロは人間的には、至極当然のことを言ったまでなのだ。

 ところが、そう言ったペテロにイエスは何と言われたか?「サタン、引き下がれ、あなたは神を思わず人のことを思っている!」イエスはペテロのことを、何とサタン呼ばわりしたのである。つまり、普段私たち人間が考えていることと言うのは、得てしてサタン側に騙された考えなのである。

 私たちは、両足を片方ずつ、神と悪魔に突っ込んだまま、天国に行くことは出ない。神側に付く者は、常に自分の価値観と優先順位を、神側に置かなければならないのだ。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とルカ17章21節でイエスが言われたのは、聖書が語る『神の時・神の国』は、これから将来起こることであると同時に、既に私たちの内で始まっているという宣言である。この地上に流されることなく、天国人としての選択をいつも心掛けるようにしよう!



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