『ヨブは、神が太鼓判を押すような立派な人物。その彼がサタンの告発によって突然、凄まじい不幸に教われる。その様子を見た友人達は「それは何か罪の結果に違いない!」と言うが、ヨブは「そんな事はない!」と言う。ヨブは神様に「何故!?」と訴え続けるが、神はヨブの質問には一切答えられない。最後に神が登場するのだが、逆に神はたたみかける様にヨブに質問仕返す。その質問に一言も答えられないヨブは「私が浅はかでした!」と悔い改め、神はヨブを回復された』
多くの人は、ヨブ記のテーマを「人生の苦難について」と考えているが、もし、この話を人生の苦難の中にあるノンクリスチャンの人に勧めて、果たして何らかの答えが期待出来るだろうか?ヨブ時のテーマは実にシンプルなのだが、その適応においては実に難しい書巻である。
どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。(23章3節)
神よ、私はあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。(30章20節)
どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。(31章35節)
ヨブは全てを失ったが、信仰を失った訳ではなく、「神などいない!」と叫んでいたのでもない。ヨブにとっての問題のは、「自分がこんな目に遭っているのに、何故神は何も答えられないのか?」という「神の沈黙」であった。以下、本書が伝えている普遍的真理である。
第一の天で起きている出来事は、第二第三の天で起きている事と直結している。このような霊的世界の存在を無視すると、結局、因果応報という結果に必然的になってしまう。人生は地上の世界と、目に見えない霊的世界のトータルで考えて初めて人生は意味を持つ。
本書に記されている次異次元における神とサタンと人間とのやり取りで分かる事は、この世の悪は、サタンの誘惑と、それに追従する人間の間違った判断から来るもので、神はこの世のあらゆる悪を善に変えられるが、善をつくるために悪を生み出されることはない。
本書は、神と人との仲介者(イエス・キリスト)の必要性を訴えている。この存在を求める・求めない、認める・認めないが、人生の明暗を分ける。
このような時にも、見よ、天には私の為に証人があり、高い天には私を弁護してくださる方がある。私の為に執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す。(16章19-20節)
この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう。(33章24-25節)
この世は因果応報ではない。これを逆に言うと、ヨブのような正しい人であっても、人生で苦難に襲われることがある。と言うことである。真の義というものは、努力でや才能で得られるものではなく、神の赦しによって神から与えられるもの。神の赦しによって義とされた人間は、たとえ人生においてどんな困難な遭遇したとしても、最後は必ず祝福で終わるのである。ハレルヤ
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多くの人は、ヨブ記のテーマを「人生の苦難について」と考えているが、もし、この話を人生の苦難の中にあるノンクリスチャンの人に勧めて、果たして何らかの答えが期待出来るだろうか?ヨブ時のテーマは実にシンプルなのだが、その適応においては実に難しい書巻である。
どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。(23章3節)
神よ、私はあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。(30章20節)
どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。(31章35節)
ヨブは全てを失ったが、信仰を失った訳ではなく、「神などいない!」と叫んでいたのでもない。ヨブにとっての問題のは、「自分がこんな目に遭っているのに、何故神は何も答えられないのか?」という「神の沈黙」であった。以下、本書が伝えている普遍的真理である。
第一の天で起きている出来事は、第二第三の天で起きている事と直結している。このような霊的世界の存在を無視すると、結局、因果応報という結果に必然的になってしまう。人生は地上の世界と、目に見えない霊的世界のトータルで考えて初めて人生は意味を持つ。
本書に記されている次異次元における神とサタンと人間とのやり取りで分かる事は、この世の悪は、サタンの誘惑と、それに追従する人間の間違った判断から来るもので、神はこの世のあらゆる悪を善に変えられるが、善をつくるために悪を生み出されることはない。
本書は、神と人との仲介者(イエス・キリスト)の必要性を訴えている。この存在を求める・求めない、認める・認めないが、人生の明暗を分ける。
このような時にも、見よ、天には私の為に証人があり、高い天には私を弁護してくださる方がある。私の為に執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す。(16章19-20節)
この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう。(33章24-25節)
この世は因果応報ではない。これを逆に言うと、ヨブのような正しい人であっても、人生で苦難に襲われることがある。と言うことである。真の義というものは、努力でや才能で得られるものではなく、神の赦しによって神から与えられるもの。神の赦しによって義とされた人間は、たとえ人生においてどんな困難な遭遇したとしても、最後は必ず祝福で終わるのである。ハレルヤ
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と考えることが、誰にも1つや2つあるはず。
そして、その答えを見出せず、その痛みの中で生き続ける人たちがたくさんいます。
ある人たちは、「因縁」として、一生懸命、善行や施し、信じているものにお金を費やしてしまうこともあります。
私の場合、30余年前(随分、昔になりました…)ヨハネによる福音書9章3節の御言葉によって「因果応報」から解放されました。
すぐに「因果応報ではない」と理解できたわけではありませんでしたが、イエス様を信じ、イエス様と共に歩み続けて、神様の真理を少しずつ、理解して、
「神様は、善のために悪を引き起こす方では決してなく、この世の悪い出来事は、サタンと人間の間違った判断によって引き起こされること」
だとわかりました。
そのことにより、目に見えない霊的なことを、恐れず、冷静に受け止めることができるようになってきたと同時に実生活も平穏な心で送ることができるのは、神様の愛と恵みにほかなりません。
1人でも多くの人にこの幸せを体感していただくために今週も御言葉を宣べ伝えていきましょう!
さて、ヨブは義人でありながら、沢山の苦難を受けました。ヨブは持っていた物全てを失い、残ったのは彼に「神を恨んで死になさい」と言った奥さんだけ。こういった状況の中で、神様は沈黙されておられましたが、ヨブの周りに起きた不条理は、異次元の世界での神様と悪魔のやり取りが原因でした。そして最後に神様はヨブの前に現れ、ヨブは沢山の苦難と苦しみを受けながらも神様の前にひれ伏して、神様を称えました。神はそれを見て、ヨブが今まで持っていたものを二倍して祝福されました。そしてヨブ記を読むと、救い主イエス様の預言も書かれてる所があります。この時代から既に神様は救い主を用いる計画であった事を学ぶ事が出来ました。30分de一巻のメッセージで、ヨブ記を、聖書もっと詳しく学べる事が出来る祝福に感謝です!
今回、人間にとっての知恵は、まさに人間と神様との仲介者であられるイエス様を知ることだと思った。それこそが「知恵」だ。ヨブもそれを望んだ。信じれば救われるという十字架の救い同様、確かにメッセージは超シンプル。救いは努力や才能によって得られるものではなく、ただ神様から恵みによってのみ与えられる。神様から赦されて義とされた人は、人生を祝福で終わることができる。
ヨブは、友人のためにとりなして、このシンプル且つ絶対的な神様による知恵を実践した。そして私は、「家の教会」で礼拝することこそ、何よりの実践(アプリケーション)であると、前回の礼拝に続いて、語られている。次週は全150編の詩編。えんぢぇる師のプロローグは、またまたグッと来ています。(でも150編も読めるかな。。。)ヨブと三人の友達のように、共に語り合い、共に礼拝し、共に祝福を得る友よ来たれ!お待ちしています。
クリスチャンの此の世での生活そのものと位置図けてきましたが、なんと奥が深い事でしょうか。第一の天は第二の天の影響下にある事。サタンは偏在できない事。人間はサタンにそそのかされ、サタンの下の位になった事。サタンは第一の天の実権を持っている事。そして、ヨブは神と人間の間には調停人が必要であると言ったこと。イエス・キリストの十字架があれば。
9章、16章、33章,、因果応報は間違いである。今は、キリスト・イエス様のとりなしのおかげで、義とされ続ける恵みに与っています。考えられない大きな恵みを覚えます。イエス様に感謝します!
果たして自分が神に試されたとしてもヨブ同様に神に信頼できるか本当のところ不安がある。
そう考えると、やはりイエスキリスト無しでは信仰を貫くことは難しいのだと感じる。
第二の天で神とサタンが話をし、その結果がこの地上に影響していることが分かった。
この世はサタンの支配下にあるが、神を信じ信仰を貫いているものには、神の許しがなければサタンも手出しができない。
サタンに捕らわれないようイエスキリストを主と信じ、信仰を貫けるよう祈り続けたい。
その時に神を疑わずに歩むことは難しいと感じる。神がサタンにヨブの信仰を試す機会を与えた。
神はそれでもヨブは神から離れることがなく、そのことが今のヨブに必要であることもわかっていたうえで、サタンからの試みを許された。
果たして自分もそのような信仰を持ち続けられるかはっきり自信がない。
神の計画の中、この世においてのサタンの試みによって、信仰を失わないよう日々祈り続けたい。
【アプリケーション】
ヨブ程の正しい人でも、サタンが触れるのを神様が許されたら、これだけの苦難があると思うと
ちょっと耐えられない。
過去の体験として、理不尽な事とか耐えられない
哀しみなど、ノホホンと暮らす我が家を神にサタンが訴えて
それを許された場面が、ありありと目に浮かぶ。
しかし我が家は、神と人との仲介者
イエス様を全員が信じ、今に至るのだから
サタンの負け、神の勝利だと思う。
確かにノンクリには、適応の難しいヨブ記だが
宇宙の事や恐竜の事などが、遥か昔に
語られてる所は、神様の凄さとして
アプローチできるのではと思った。
【メッセージについて】
とても端的にで、分かりやすかった。
ヨブの3人の友人を
聖霊派
福音派
カトリック
の欠点に分類していること。
ヨブの願いはただ一つ、神の御言葉を頂くこと。
つまり神との関係の回復だ。
しかし神の沈黙は続き、3人の友人は
ヨブ自身の罪から来る、因果応報説をひたすら
語り、見舞いに来た筈が逆に責め苛む。
人間とサタンは、因果応報が好きである。
確かに聖書でも、罪から来る報酬は死です。
と言っているが、これは因果応報とは違う。
アダムによって全ての人に罪が入り
この原罪により、人間は死ななければならなく
なったが、それと同時に死を克服する
神と人との仲介者、最強弁護士
イエス・キリストによって、死罪を免れるのですと聖書は語る。
これはヒューマニズムでは、説明がつかない。
さてヨブの願い通り、神が登場するが
ヨブの何故、どうしてには全く答えられない。
ひたすら神の御わざの、広さ高さ深さについて
語られる。
ヨブは賢い人だから、神の御心を汲み取り
ただただ平伏する。
私なら、でもとかだってとか言いそうだが。
最後にヨブは、神から三人の友人について
執り成しの祈りをしなさいと言われている。
これは時を超えて、私達クリスチャンに
求められている事ではないだろうか。
私達クリスチャンも、世にあっては
悩み苦しみがあり、時には本当に理不尽な
目にも合う。
そして弱っている所に、親切なヒューマニストが
傷口に塩を塗る事をしてくれる。
同時にイエス様を否定したり、嘲ったりされる。
そんなもの信じてるからだとか。
でも私達は、そこを耐え抜き神の御声を待ち
ノン・クリの為に祈る使命があると思う。
逆説的に言えば、そんなの神様がいらっしゃらなければ、出来ない!
ヨブ記の事、これまた多くの事含まれています。三年連続で、私の年頭聖句になったところです。本書は私達が住む世界を取り巻いているとも見えます。また、教会内部の事柄とも見えます。三人の友のメッセージをその性格を表して下さりありがとうございます。お陰で良く分かりました。
私達が住むこの世界は、無茶苦茶な世界です。どこからどこまでも矛盾して、どこまでも整合性のない世界です。ここに、摂理ある(愛だけの世界を創ること)世界を実現されようと神はされていると思います。私達の完成です。それは宇宙の完成だととらえています。
サタンも何もかも神様がお創りになりました。ご計画のために。サタンも神様の道具でしかないと思っています。サタンがいなければ、私の完成はないのではと思っています。この世界では私は光の子です。イエス様のものです。
イエスのみです。戦いがあります。いずれにしても、サタンの世界は受け入れられません。
この聖書の御言葉を提示して、第二の感想をお送りしたく思っています。先生も、人々に躓きを与えない様に、公では言えない事が多くあるのだろうと思います。私も、私信としてプライベートな所ですので、かなりの事をここに現していこうと思っています。
時間制約もあり、乱文乱筆をお許しくださいませ。二回目の感想を書く準備にかかります。宜しくお願い致します。イザヤ65章が早く来ますように。アーメン。