〇澤田瑞穂『中国史談集』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2017.9
中国の文学・民間信仰・怪異研究者である澤田瑞穂氏(1912-2002)の史談集。原本は2000年に早稲田大学出版部から刊行されたもので、一部を除き(4編)、未発表の作と新たに書き下ろされた作からなることが「あとがき」に記されている。その内容は、偽ご落胤事件、風俗禁令、宦官、倭寇、刺青、残酷な刑罰、花柳界、男色、宗教結社など。話題に応じて、古代から近現代(民国、さらに共産党中国)まで、融通無碍に時代を行き来しているが、いちばん記述が多い(印象的な話が多い)のは明代、次が宋代ではないかと思う。
明代は、明朗さに欠ける王朝だと思う。皇帝に名君がいない。いや、太祖洪武帝も成祖永楽帝も偉大な皇帝ではあるけど、どこか暗い影がある。そのほかの皇帝は言わずもがなで「暗愚外紀」に語られる末代四人の皇帝の逸話は、ぞっとするほど滑稽である。神宗万暦帝〔※〕は吃音のため四人の老女官が通訳していた。光宗泰昌帝は房中術の金丹薬を服して急死した。熹宗天啓帝は大工仕事、特に水からくりが好きで得意だった。毅宗崇禎帝は一人で馬に乗れなかった。崇禎帝には「崇禎三異図」(明の滅亡を予言する)という、まことしやかな怪異談も伝わっている。
異彩を放つのは武宗正徳帝である。生来明敏で記憶力にすぐれ、乗馬や弓術を得意としたというのだから、名君の素質があったはずだが、どこかで道を間違ってしまった。若くして即位すると、政務をなおざりにし、側近たちと遊びに熱中した。微行(おしのび)が大好き。皇妃を迎えると、尚寝と呼ばれる監視役を廃止し、自由に後宮めぐりに耽るようになった。内侍や宦官たちと市井の商売ごっこをするのが好きだったとか、絵に描いたようなダメ皇帝である。でも著者は「およそ皇帝にはめずらしい茶目で天真爛漫な武宗であった」とか書いていて、決して嫌いじゃない雰囲気が伝わってくる。
武宗正徳帝のもとで権力をふるった宦官が劉瑾。最後は武宗の寵を失い、反逆罪に問われて処刑された。「太監劉瑾」は、正徳年間の政争の顛末を語ったもの。猛きものもついには滅びる小説を読むように面白いが、ドラマの題材にはならないんだろうなあ。また、熹宗天啓帝のもとで権勢を握った宦官は魏忠賢。「魏忠賢生祠異聞」は、人々が魏忠賢におもねって、争って祠を建てたことを語る。生き人形みたいな本尊が置かれていたようだ。しかし、このひとも最後は失脚して自縊して果てた。思うに、昨今の日本人は「日本人はすばらしい、悪人はいない」ことを誇りたがるが、中国史は「最高の聖人」も「最低の大悪人」もいてこその歴史なのである(だって、中華は世界そのものなのだから)。
太祖洪武帝は偉大だったと書いたけれど、嗜虐的な一面があったことは「惨刑」に詳しい。本書には、古代以来の残虐な刑罰について、実に詳しく具体的に説明した一連の論考が収録されているが、私は苦手なので、飛ばし飛ばし読んだ。同様に刺青を論じた「彫青史談」も、中国史の「表舞台」ではあまり読むことのないもので、貴重だと思う。北宋には「花腿」といって大腿部の刺青をひけらかしながら馬で行く少年たちがいたというのは本当なんだろうか。
「後庭花史談」というタイトルの一篇は男色に関するもの。福建が男色をもって喧伝されてきた地方だというのは知らなかった。清代の華北(北京・天津)では歌舞伎の女形や子役あがりが多くを占めていたというのは、映画『さらば、わが愛/覇王別姫』を思い出す。ここでまた、明の武宗正徳帝が多数の内官(宦官)を男色の相手として寵愛したという記述が出てきて苦笑してしまった。やるなあ、ほんとに。
「あとがき」は中国文学者の堀誠氏で、著者の澤田瑞穂氏が折口信夫に深く私淑していたエピソードを語っており、これも興味深い。また澤田瑞穂氏の蔵書「風陵文庫」は早稲田大学図書館に入っているそうである。
※2020/6/8補記:檀上寛『陸海の交錯:明朝の興亡』(岩波新書)に憲宗成化帝が吃音であった話が出てきて、この本を思い出した。私は吃音を神宗万暦帝の話としてメモしているので、勘違いかと不安になって澤田氏の本を見直したら、通訳つきだったのはやっぱり万暦帝で、成化帝も口吃であったが、朝に臨むと朗々と宣旨することができたと書かれていた。