見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

明の皇帝と宦官たち/中国史談集(澤田瑞穂)

2017-11-16 00:28:14 | 読んだもの(書籍)

〇澤田瑞穂『中国史談集』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2017.9

 中国の文学・民間信仰・怪異研究者である澤田瑞穂氏(1912-2002)の史談集。原本は2000年に早稲田大学出版部から刊行されたもので、一部を除き(4編)、未発表の作と新たに書き下ろされた作からなることが「あとがき」に記されている。その内容は、偽ご落胤事件、風俗禁令、宦官、倭寇、刺青、残酷な刑罰、花柳界、男色、宗教結社など。話題に応じて、古代から近現代(民国、さらに共産党中国)まで、融通無碍に時代を行き来しているが、いちばん記述が多い(印象的な話が多い)のは明代、次が宋代ではないかと思う。

 明代は、明朗さに欠ける王朝だと思う。皇帝に名君がいない。いや、太祖洪武帝も成祖永楽帝も偉大な皇帝ではあるけど、どこか暗い影がある。そのほかの皇帝は言わずもがなで「暗愚外紀」に語られる末代四人の皇帝の逸話は、ぞっとするほど滑稽である。神宗万暦帝〔※〕は吃音のため四人の老女官が通訳していた。光宗泰昌帝は房中術の金丹薬を服して急死した。熹宗天啓帝は大工仕事、特に水からくりが好きで得意だった。毅宗崇禎帝は一人で馬に乗れなかった。崇禎帝には「崇禎三異図」(明の滅亡を予言する)という、まことしやかな怪異談も伝わっている。

 異彩を放つのは武宗正徳帝である。生来明敏で記憶力にすぐれ、乗馬や弓術を得意としたというのだから、名君の素質があったはずだが、どこかで道を間違ってしまった。若くして即位すると、政務をなおざりにし、側近たちと遊びに熱中した。微行(おしのび)が大好き。皇妃を迎えると、尚寝と呼ばれる監視役を廃止し、自由に後宮めぐりに耽るようになった。内侍や宦官たちと市井の商売ごっこをするのが好きだったとか、絵に描いたようなダメ皇帝である。でも著者は「およそ皇帝にはめずらしい茶目で天真爛漫な武宗であった」とか書いていて、決して嫌いじゃない雰囲気が伝わってくる。

 武宗正徳帝のもとで権力をふるった宦官が劉瑾。最後は武宗の寵を失い、反逆罪に問われて処刑された。「太監劉瑾」は、正徳年間の政争の顛末を語ったもの。猛きものもついには滅びる小説を読むように面白いが、ドラマの題材にはならないんだろうなあ。また、熹宗天啓帝のもとで権勢を握った宦官は魏忠賢。「魏忠賢生祠異聞」は、人々が魏忠賢におもねって、争って祠を建てたことを語る。生き人形みたいな本尊が置かれていたようだ。しかし、このひとも最後は失脚して自縊して果てた。思うに、昨今の日本人は「日本人はすばらしい、悪人はいない」ことを誇りたがるが、中国史は「最高の聖人」も「最低の大悪人」もいてこその歴史なのである(だって、中華は世界そのものなのだから)。

 太祖洪武帝は偉大だったと書いたけれど、嗜虐的な一面があったことは「惨刑」に詳しい。本書には、古代以来の残虐な刑罰について、実に詳しく具体的に説明した一連の論考が収録されているが、私は苦手なので、飛ばし飛ばし読んだ。同様に刺青を論じた「彫青史談」も、中国史の「表舞台」ではあまり読むことのないもので、貴重だと思う。北宋には「花腿」といって大腿部の刺青をひけらかしながら馬で行く少年たちがいたというのは本当なんだろうか。

 「後庭花史談」というタイトルの一篇は男色に関するもの。福建が男色をもって喧伝されてきた地方だというのは知らなかった。清代の華北(北京・天津)では歌舞伎の女形や子役あがりが多くを占めていたというのは、映画『さらば、わが愛/覇王別姫』を思い出す。ここでまた、明の武宗正徳帝が多数の内官(宦官)を男色の相手として寵愛したという記述が出てきて苦笑してしまった。やるなあ、ほんとに。

 「あとがき」は中国文学者の堀誠氏で、著者の澤田瑞穂氏が折口信夫に深く私淑していたエピソードを語っており、これも興味深い。また澤田瑞穂氏の蔵書「風陵文庫」は早稲田大学図書館に入っているそうである。

※2020/6/8補記:檀上寛『陸海の交錯:明朝の興亡』(岩波新書)に憲宗成化帝が吃音であった話が出てきて、この本を思い出した。私は吃音を神宗万暦帝の話としてメモしているので、勘違いかと不安になって澤田氏の本を見直したら、通訳つきだったのはやっぱり万暦帝で、成化帝も口吃であったが、朝に臨むと朗々と宣旨することができたと書かれていた。

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2017年11月@関西:大阪歴史博物館、東洋陶磁美術館

2017-11-13 22:45:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪歴史博物館 特別企画展『世界に誇る大阪の遺産-文楽と朝鮮通信使-』(2017年9月30日~11月26日)

 私は文楽も好きだし、朝鮮通信使にも興味があるが、なんだよこの取り合わせ、と思いながら見に行った。6階の特別展示フロアに上がると、通路を挟んで右が「朝鮮通信使」、左が「文楽」の展示に完全に分かれていた。「朝鮮通信使」のほうから見る。通信使の様子を描いた絵画資料が多く、特に船の図がたくさんあって面白い。通信使は釜山から海路で対馬に寄港し、馬関を経て瀬戸内海を航行し、大坂に入る。大坂で日本側が用意した川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀からは陸行する。展示品の多くは、川御座船を描いたものなので、漕ぎ手は祭りさながら、揃いの浴衣(?)あるいは袴姿の日本人である。まわりには小さな供船がにぎやかに付き従い、船端で景色を眺める通信使の姿も描かれる。

 行列図には愛らしい小姓がいたり、鉄砲を携えた炮手がいることに初めて気づいた。あと、以前にも見たような気がするが、通信使をもてなした御馳走献立の次第(メニュー)が面白い。「七五三膳」という形式で、寿司が出たり伊勢海老が出たりしている。絵画としていちばんインパクトのあった『文化度朝鮮通信使人物図巻』の写真をあげておく。これは楽人の図。



 なお、資料のほとんどは朝鮮通信使の研究者である辛基秀(シンギス)氏(1931-2002)が収集し、同館に寄贈したものであるそうだ。

 文楽関係は、展示の半分くらいを鬘見本が占めていた。国立文楽劇場で鬘・床山担当をつとめた名越昭司(1931-2016)の旧蔵品をご遺族が寄贈したものである。そのほか、静と忠信の文楽人形(吉田文雀氏着付け)や戦前の四ツ橋文楽座のポスターやチラシなどが出ていたが、これらも複数のコレクターからの寄贈だった。

大阪市立東洋陶磁美術館 国際巡回企画展『イセコレクション-世界を魅了した中国陶磁』(2017年9月23日~12月3日)

 フランス・ギメ東洋美術館と同館で開催される国際巡回展。戦国時代(紀元前5-3世紀)から清時代までの中国陶磁を、重要文化財2点を含めた88点で紹介する。「世界を魅了」ってなんぼのものよ、という気持ちで見に行ったのだが、見ているうちに、だんだん冷や汗が出てきた。これはすごい。優品揃いで全くあそびがない。

 この展覧会開催中、同館は写真撮影が可能となっている。私のイチ押しは、南宋官窯の長頸瓶。米色青磁である。



 磁州窯の黒釉刻花、牡丹唐草文梅瓶も好き。



 藤田伝三郎、安宅コレクションを経て現在に至る飛青磁瓶(元時代)、川端康成旧蔵の三彩長頸瓶(唐時代)ど、伝来を聞くだけで、ただものでないと分かる品もあった。遼・金時代のやきものが多い点は私の好みに合致して嬉しかった。気になるコレクターは「イセ食品」の会長・伊勢彦信氏と聞いても、全く分からなかったが、鶏卵業界のリーディングカンパニーであるそうだ。伊勢氏は、中国磁器以外にも、印象派の西洋絵画、アールヌーボーのガラス器、近代日本画など多数の美術品を所蔵しており、「求めに応じて美術館に無償で貸し出している」というのが素晴らしい。こういう実業家、まだいらっしゃるんだなあ。

 展示を見ながら、明清の各時代の磁器の特徴をあらためておさらいしたので簡単にメモ。永楽(洗練が進む。余白を大きくとった優美な文様、コバルトの濃淡。大型の器多い)-宣徳(年製を記すことが始まる)-成化(完成度が高い)-弘治・正徳(政情が不安定、作例が少ない)-嘉靖(隙間なく塗りかためた雑彩多く、瓢箪形多い)-万暦(五彩盛行、赤絵好まれる)。あと明代の黄釉と清代の黄釉は色味が異なり(後者はレモンイエロー)、乾隆帝の時代、官窯では黄地青花が焼かれた。
 
 なお、常設展エリアも撮影可能なので、汝窯の水仙盆を撮っておいた。うれしい。


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2017年11月@関西:天理参考館、橿原考古学研究所附属博物館

2017-11-12 22:07:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
天理参考館 特別展『天理図書館 古典の至宝-新善本叢書刊行記念-』(2017年9月16日~11月27日)

 先週末の関西旅行の続きを駆け足で。正倉院展(奈良博)のあとは天理に移動。本展は、2015年4月から始まった新天理図書館善本叢書の刊行を記念する特別展。国宝3点・重要文化財10点を含む古典籍70余点を三期に分けて展示する豪華版である。叢書の分類にあわせて「国史古記録」「古辞書」「源氏物語」「奈良絵本」「連歌俳諧」のカテゴリーを設け、各期ともそれぞれに見どころを立てている。私が見たのは第二期で、『播磨国風土記 三条西家本』(巻子本である)と『類聚名義抄 観智院本』の2件の国宝を拝見した。『明月記』は嘉禄3年9月27日条、定家(1162-1241)66才のとき、小野右府こと右大臣実資(957-1046)の夢を見た記事が展示されていた。定家が生まれる100年くらい前に死んだ人だ。長押の上に座ったというのが面白い。神様(に近い存在)は高いところに影向するんだな。

 いちばん面白かったのは「奈良絵本」。金持ちの道楽みたいな豪華本でなく、素朴なものが多かった。室町末期の『じやうるり』(浄瑠璃姫物語)や江戸初期の『ひだか川』(道成寺縁起)など。寛文頃成立の『常盤の嫗(うば)』は、発心を志す老女が「それにつけても…」と言いながら、忘れられない食い物を列挙していく。柿、芋、餅、栗、くらいは普通だが、鯉、鮒、うさぎ、むじな(!)、うどん、まんちう、ひやむぎ、ようかんなど、当時の食生活の意外な豊かさが垣間見えて面白い。「若くて飲みし茶もほしや」ともいう。

 あわせて、常設展示もひとまわり。特に中国・東アジアの考古美術の充実ぶりは日本一だと思う。何度来ても面白い。写真撮影も自由。

↓伏拝男子(後漢)。跪拝俑の極小サイズと思えばいいのだろうけど笑える。


↓唐代、まさに馬に乗ろうという動きがリアル。


↓唐代は女子も馬に乗る。カッコいい。


 天理駅へ戻る途中、「満天食堂」というセルフサービスのうどん屋を見つけてランチ。入りやすくてコスパもよく味も満足。店内には開店祝いの花籠が飾られていて、まだ新しいお店らしかった。次に天理に行くときも寄ってみたい。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 橿原考古学研究所創立80周年関連事業特別展・秋季特別展『黒塚古墳のすべて』(2017年10月7日~11月26日)

 天理から畝傍御陵前へ移動。本展は、発掘20年を迎える黒塚古墳について、出土資料を一堂に展示し、その全貌を紹介する特別展。黒塚古墳は天理市柳本町にある古墳時代前期の前方後円墳で、1997年に33面の三角縁神獣鏡が出土したことで知られている。ニュースになっただろうと思うのだが、当時の記憶は全くない。私が黒塚古墳の存在を意識したのは、2008年のTVドラマ『鹿男あをによし』だった(なつかしい!)。実在の黒塚古墳展示館もドラマに登場していて、いつか行ってみたいと思ったまま、もう9年が経ってしまった。

 本展は、はじめに奈良盆地の東南の山麓に広がる「オオヤマト古墳群」をパネルと出土品でひとつずつ紹介する。学生時代は、何度かこの一帯(山の辺の道)を歩いたが、最近10年くらい全く行っていない。現在は「崇神天皇陵」を「行燈山古墳」と呼び「景行天皇陵」を「渋谷向山古墳」と呼んでいることを初めて知る。いや、いいことだと思う。そして「箸墓」はやっぱり「箸墓古墳」であることをちょっと喜ぶ。また、オオヤマト古墳群以外でも、32面以上の三角縁神獣鏡が見つかった椿井大塚山古墳(京都・木津川)、紫金山古墳(大阪・茨木)などが紹介されている。

 そして、いよいよ黒塚古墳については、出土した三角縁神獣鏡33面が全て展示されている。銘文の翻刻が添えられていて、長かったり短かったりするが「吾作明竟甚大好」(あるいは張氏作竟、王氏作竟)で始まるのが定型文のようだ。鏡褒めなのかな? また、同笵・同型鏡の所在についての注記もある。機内だけでなく、群馬や静岡で出土している例もあった。でもいちばん興味深かったのは、写真で見る埋葬施設の形状と副葬品の配置である。カラー写真なので、細長い石室(粘土棺床)の朱色が鮮やかで、神々しくも禍々しくも感じられる。三角縁神獣鏡は全て棺を取り囲むよう周囲に置かれているのだが、やや小ぶりな画文帯神獣鏡は棺内から出土している。

 黒塚古墳は柳本駅から徒歩で行けるらしい。天皇陵とちがって、円墳の上にも上がれるようなので、来年はぜひ時間を作って行ってみようと思う。
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言葉の民の革命/ロシア革命100年の謎(亀山郁夫、沼野充義)

2017-11-10 21:05:44 | 読んだもの(書籍)
〇亀山郁夫、沼野充義『ロシア革命100年の謎』 河出書房新社 2017.10

 今年2017年は、ロシア革命から100年目に当たる。そこで、池田嘉郎『ロシア革命:破局の8か月』(岩波新書)を読んでみたりしたが、基礎知識が不足しすぎて、よく理解できないことが多かった。本書は、ロシア文学を専門とするお二人の対談なので、分かりやすいかと思って読んでみた。実は、もう少し政治的事件としての「ロシア革命」を真正面から論じるのかと思ったら、そうではなかった。しかしロシア文学史というか精神史の概観を理解するにはとても役に立ち、面白かった。

 はじめにロシア人≒スラヴ民族は「言葉(スローヴォ)の民」であるという見解が示される。あのプーチンでさえ(by沼野さん)どんな質問にもきちんと論理的に答える。「そのまま印刷できるのではないかと思うほど立派な、文法的にも正しいロシア語」だという。これはすごい。今、そんな言語能力を持った大国の首脳がどれだけいるだろうか。ゴルバチョフはアイトマートフという作家に会って「私はあなたの小説を全部読んでいるけれども」と話し始めた。これは安倍首相が大江健三郎と会って「私はあなたの小説を全部読んでいる」と言うようなものだという。ロシアにおいては「言葉というもののあり方が違うのではないか」という指摘を念頭に、以下の記述を読んでいく。

 本書は「文学がロシア革命を準備した」という視点から、ロシア革命以前の19世紀にさかのぼる。ドストエフスキーの『罪と罰』(1866年)は個人的殺人を扱いながら、テロルの危険と革命を予言するものだったと考える。1981年にドストエフスキーの急死と皇帝アレクサンドル二世の暗殺。19世紀リアリズム小説の古典と呼ばれる偉大な長編小説が次々に誕生した時代が終わり、黄昏の時代を代表する作家がチェーホフ。ドストエフスキーの翻訳者である亀山さんが「僕は隠れチェーホフ派なんですよ」という。1890年代の停滞の中で、トルストイの『復活』(1999年)が誕生する。トルストイに対する二人の評価は高い。亀山さんは「ドストエフスキーがちょっと青臭く感じられるくらい」といい、沼野さんは「トルストイは(略)原理的に国家に対決する人です。国家に立ち向かうということは、教会とも対決するということである」と述べる。世紀末から世紀初頭にかけては、登場人物が前時代より小粒になる。しかし、日露戦争の敗戦がロシアの知識人と芸術文化に大きな衝撃を与え、「日本人には想像もつかないパラダイムシフト」が起きたという指摘は興味深かった。

 1917年の革命については、前述の池田嘉郎氏の著書も参考にしながら、二月革命の可能性を論じている。現代のアメリカで、オバマ政権は理念は立派だったけれど、大衆の望むような成果を上げられなかった。そこで大衆の支持がトランプに向かい、大変なことになってしまい、オバマはなんていい人だったんだろうと思っている。「二月革命はオバマ政権みたいなものだったかもしれない」という沼野さんの見立ては面白い。そしてわずかな記述からも、レーニンが天才的な革命指導者だったことを理解した。

 革命直後の戦時共産主義(内戦)の時代、ロシアは完全に疲弊し、レーニンが市場経済を一部認めたネップ(新経済政策)を導入する。この時代(1920年代)のキーワードは、アヴァンギャルド、多元主義、モダニズム、未来派など。1930年代には大形式(大長編)が復活する。当時の芸術家たちは、独裁者スターリンという存在に幻惑され、賛美すると同時に批判もしていた。この精神構造を、亀山さんは「二枚舌」という独特の用語で説明する。スターリン時代は、粛清(テロル)によって自由が圧殺されたが、大衆の生活は安定し、豊かな時代でもあったという。「天上のパン」よりも「地上のパン」。ロシアでゴルバチョフが評価されない理由も、その点にあるらしい。あと、ロシア人には天才に対する信仰がある(米原万里さんの言葉)というのも面白い。にこにこして誠実に他人の意見を聞いている人間は駄目なのだそうだ。

 1953年にスターリンが死に、「雪どけ」の時代が来る。64年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフ時代が82年まで続く。亀山さんはこの時代のソ連を知っていて「皆幸せそうだった」と振り返る。結局、人間にとって究極の選択は、自由か平等か、何が幸せなのか?という質問にたどりついたとき、ロシア革命の100年(実はその前史を含めた200年)を、なぜ外国人である我々が振り返る必要があるのか、少し分かったように思った。

 なお、本書には文学だけでなく、思想・科学、絵画、音楽、建築、映画、演劇なども縦横に取り上げられており、総合的なロシア芸術思想史として読むことができる。巻末の人名キーワード集がたいへんありがたい。
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2017年11月@関西:正倉院展(奈良国立博物館)

2017-11-09 22:11:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 『第69回正倉院展』(2017年10月28日~11月13日)

 今年も正倉院展に行ってきた。前日は京博の国宝展でくたくたになり、奈良・新大宮泊。日曜の朝、早めに宿を出て、7時半頃、博物館に到着すると、先頭から20~30人目くらいに並ぶことができた。その後も列の伸び方が遅いので、今年はみんな京都に行っているのかなあと思ったりした。しかし8時を過ぎると、ぐんぐん人が増えてきて、開館時にはピロティの下(3列)をはみ出ていたと思う。やっぱり、並ぶなら8時前からが正解である。

 おかげで、まだ比較的、人の少ない会場に入ることができた。冒頭には大きな鏡や『羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)』が出ていることを確認し、もう少し先から見始めることにする。尺八が二件。『樺巻尺八(かばまきのしゃくはち)』は竹製で樹皮を巻いてボーダー模様にしたもの。アイボリー色の『玉尺八(ぎょくのしゃくはち)』は聖武天皇遺愛の品だという。白玉製だと思ったので、「東邪」黄薬師を思い出してニヤついていたのだが、図録の解説によれば大理石製と鑑定されているそうだ。前回出品が1999年というから、たぶん私は初見。

 『漆槽箜篌(うるしそうのくご)』は飛天や来迎図などに描かれる竪琴である。原品はかなり破損して「残欠」と呼んだほうがいい状態である。明治年間の復元品も展示されていたが、描き装飾の図柄など、ちょっと違和感がある。解説にも「推定を含んだ復元模造である」と記されていた。これも前回出品は1994年という珍しいもの。ほかに伎楽面、楽舞用の布製品などがあった。

 続いて西新館へ。最初の部屋は仏菩薩への献物に使われた箱や台など。『碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)』は何度も見ているが、大人可愛いデザインで大好き。花を咥えて向き合う二羽の水鳥、手描きのあたたかみが感じられる。緑色の綾を張った『黄楊木几(つげのきのき)』、脚がヒョウ柄っぽい『蘇芳地六角几(すおうじのろっかくき)』もいいが、私は何の変哲もない『花籠(けこ)』(竹籠)に魅入られてしまった。浅いものとやや深いものの二種類が出ていた。どちらも底は四角く編み始め、縁は円形に整えてある。目が詰まっていて均一である。螺鈿や銀工のような華やかさはないけれど、実用的なものづくり技術の高さに感心した。

 次室の冒頭に、今期の見ものである『緑瑠璃十二曲長杯(みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)』があった。口縁は長円形で十二の屈曲を持つことからこう呼ぶのだそうだ。かなり濃い緑色である。側面には金魚藻のような草と、横向きのウサギが刻まれている。まん丸い目で、アニメのキャラクターのように単純化された姿だ。正倉院の展示ケースは、ほぼ全て展示台の下に鏡が仕込まれていて、あらゆる方向から立体的に鑑賞できるのが素晴らしい。私は隣りの『玉長杯』もいいと思った。乳白色の玉を刻んだシンプルな長杯で、いかにも酒が美味そうに感じる。『金銅八曲長杯』や『犀角杯』など、なぜか今年は酒杯シリーズが揃った。このへんまで進んでも、まだ周りに人が少ないので気持ちがよかった。

 鳳凰の顔を持つ長い注ぎ口のついた『金銅水瓶』はどこか西域風である。『玳瑁杖』『琥珀誦数(数珠)』など上品な工芸品が続く。西新館の後半には、各種の刀子、帯など。ここにも用途のよく分からない白玉器(舟形?の中央に長方形の穴)があった。極細の竹を色糸で編んだ『竹秩(じす)』は、チロリアンテープのようで愛らしかった。経典を包むものである。

 このあと、混雑し始めた会場内を冒頭まで戻り、はじめに見逃した東新館の冒頭を見る。『鳥花背八角鏡(ちょうかはいのはっかくきょう)』はとにかく大きい。鈕(つまみ)の左右には向き合う鳳凰、上に鹿?、下に角のある獅子?を配する。こういう大きな鏡は、ほぼ正倉院展でしか見られない宝物だと思う。『槃龍背八角鏡(ばんりゅうはいのはっかくきょう)』は、ひとまわり小さいが、直径30センチを超える。二匹の龍が向き合って首をからめあい、足もとには山岳。周囲には八卦文。優美な『鳥花背八角鏡』に比べると、古風で呪術的な雰囲気が漂う。前者は2004年、後者は2005年以来の出品とのこと。

 『羊木臈纈屏風』も可愛くて大好き。羊の背後の樹に二匹のサルがいる。ペアとなる『熊鷹臈纈屏風』は、前景に鷹(クマタカ)、後景に樹と麒麟とイノシシを描く。いま図録を(しかも眼鏡をはずして)見て、ようやくイノシシの姿を認識できた。図録の解説によると、立派な巻角、三角形の斑文を持つヒツジは、ゾロアスター教の神の化身であることを表しており、ソグド人の都アフラシアブ遺跡(ウズベキスタン)で見つかった壁画によく似ているという。面白い~。漠然と「シルクロードの終着点」と言われてきた正倉院であるが、西域文化を東方に運んだソグド人の存在を意識すると、さらに発見があるのではないか。

 あと、アンパンみたいな蜜蝋が山ほど展示されていたのは微笑ましかった。解説によれば、西域以西に生息するセイヨウミツバチではなく、中国など東アジアに生息するトウヨウミツバチのものであることが有力と分かったそうだ。科学が進むといろいろ新しい発見があるものだなあ。楽しい。
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失敗に学び、強くなる/自民党(中北浩爾)

2017-11-08 23:24:29 | 読んだもの(書籍)
〇中北浩爾『自民党-「一強」の実像』(中公新書) 中央公論新社 2017.4

 私は安倍政権に強い不満を持っているので、現政権の礼賛本は読みたくない。その一方、感情的な非難で留飲を下げているだけの「反安倍」本にもうんざりしている。2017年10月の衆議院選挙が終わり、自民党の強さを再認識しながら、この政治状況のきちんとした分析が読みたいと思い、書店を歩いていて、本書にめぐりあった。

 冒頭に「安倍独裁といった見方は極端すぎる。その逆も然りである。支持するのであれ、批判するのであれ、まずは自民党の現状を冷静に観察してみる必要があるのではないか」とある。読み終えて、本書がこの宣言どおりの内容だったことを保証する。だいたい1980~90年代から今日までを視野に入れ、「派閥」「総裁選挙とポスト配分」「政策決定プロセス」「国政選挙」「友好団体」「地方組織と個人後援会」という章立てで、自民党について余すところなく語っている。

 はじめの二章は党内の人事システムを主題とする。かつて自民党には、経世会(→平成研)、宏池会、清和会という三大派閥があったが、前二者の凋落により、今は清和会の時代と言われている。しかし、この10年あまり、清和会の台頭以上に顕著なのは、無派閥議員の増加だという。80~90年代、派閥は「権力抗争と金権腐敗」の主要因として強い批判を浴びたが、ひとつの選挙区で複数の自民党候補者が争う中選挙区制では、派閥の支援がきわめて重要だった。しかし、90年代後半から2000年代前半にかけて小選挙区制が整備されたことで、派閥の求心力は大幅に低下し、「党の公認」が決定的に重要となった。また、二大政党制を目指す野党の結成(新進党、民主党)に対抗するために「選挙の顔」となる総裁の役割が重要化した。ううむ、面白い。言われてみると納得できるが、国政選挙の制度改革が、自民党の体質を大きく変えてしまったというのが、とても興味深い。

 次に政策決定プロセスについて。自民党政権には、内閣が法案や予算案を閣議決定する前に、自民党の審査を経るという慣行(事前審査制)がある。党の政務調査会部会→政調審議会→総務会を経ることにより、関連する省庁、業界団体等と重層的な調整が行われる。恥ずかしながら、この仕組みを私は全く知らなかった。中学や高校で国の制度については習ったけれど、実はこういう自民党の組織・制度まで踏み込んで習うほうが、現実の政治を理解する上で役に立つのではないだろうか。なお、官邸主導の政治を目指した小泉首相は、事前審査制を廃止しようとした。民主党では鳩山政権が政策調査会を廃止したが、政策決定に関与できなくなった多くの議員の不満を生む結果となった。この失敗に学んだ自民党は、現在も事前審査制を継続しており、安倍首相はこれを巧みに利用している。この小泉、安倍の手法の違いも興味深かった。

 国政選挙については、自民党と公明党の選挙協力が双方に利益をもたらしており、解消される可能性は低いいう分析が示されている。しかし、2017年10月の衆議院選挙の結果については、新しい分析が必要だろうと思いながら読んだ。

 次に友好団体とは、農協、医師会、各種の職能団体、中小企業団体、宗教団体などである。自民党は非常に精巧な陳情処理システムを持ち、利益誘導政治の批判を受けつつも、政策と票・カネの交換をおこなってきた。ところで、利益誘導政治批判の急先鋒は、自民党最大のスポンサーである財界だった。これは間違えないでおきたいところ。財界は「利益誘導政治」を抑制し「自由経済体制」を堅持するために、票とカネを自民党に注ぎ込んできたのである。この章を読むと、やっぱり職業を通じて何らかの団体に属している人は圧倒的に多く(自分がそうでないので忘れがちだが)、そのことが自民党の票が減らない理由なんだろうなと思った。

 そして地方組織と個人後援会について。2009年に下野した自民党が政権を奪還できたのは、強靭な地方組織があったためと言われている。国政選挙と異なり、都道府県選挙(特に農村部)では自民党の優位は圧倒的なのだ。これは都市住まいの私には見えにくない視点だった。

 ほかにも興味深い分析は多数あったが、印象的だったのは、安倍政権が、下野の経験あるいは民主党政権の失敗によく学んでいると分かったことだ。ひとつは党内の結束の重視であり、その裏返しとして、外への対抗姿勢の明確化である。民主党などリベラル勢力との差異化を図るため、右派的な理念を一層強調するようになったと著者は指摘する。原因と結果を逆にしたような話だが、意外と腑に落ちるところがある。

 また中選挙区制から小選挙区制への移行によって、いくつもの政治文化が失われたことを初めて認識した。そのひとつ、派閥の解消はよいことのように思うが、本書を読むと、派閥が若手議員の教育機能を担っていたことが分かる。また、小選挙区制では、ひとりの議員が選挙区のあらゆる要望に対応しなければならなくなり、特定の政策課題を専門とする議員は存在できなくなってしまった。いわゆる「族議員」のことで、あまり好意的に論評されることは少なかったと思うが、本当に消滅してよかったのか、疑問が残る。
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大混雑、絵画の至福/国宝(京都国立博物館). 第3期

2017-11-07 00:28:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 開館120周年記念 特別展覧会『国宝』(2017年10月3日~11月26日)(第3期:10月31日~11月12日)

 国宝展第1期第2期に続き、第3期も行ってきた。第1期は土曜の夕方だったが、待たずに入れた。第2期は平日の夕方で、正面ゲートは待たずに入れたが建物に入ってから10分ほど並んだ。第3期は三連休の初日で、覚悟はしていたものの、公式ツィッターを眺めていると、午後になっても一向に混雑の収まる様子がない。16時頃、博物館に着くと、チケット売り場前で警備の人が「70分待ちです!」「70分待ちです!」と触れ回っていた。

 正面ゲートはスムーズに入れたが、建物前に長い待ち列ができている。建物の中にも折り返しの列があるようだ。しかし、そろそろ帰る人が多いのか、70分は待たずに40~50分で先頭に到達した。第1期、第2期は、基本的に観客をエレベーターで3階に誘導していたが、「3階は大変混雑しております。1階からもご覧いただけます」という案内を聞いて、半分くらいの人が1階に流れていたのは、柔軟な対応でいいと思った。私は絵画の2階から見ることにする。

【2階】

・仏画:東寺の『両界曼荼羅図』は何度か見ているが、細部の色彩の美しさにあらためて気づく。西大寺の『十二天像』から閻魔天と火天、京博(東寺旧蔵)の『十二天像』から火天・水天・風天。西大寺の閻魔天は正面向きの黄牛(あめうし)に乗り、火天は左向きの白牛に乗る。おおらかで躍動感があって好き。東寺旧蔵の十二天像は、動きが少なく、闇に浮かぶ宝石のように謎めいた感じ。水天のぽっちゃりした色っぽさ、風天の風になびく天衣や袖の美しさは何度見てもイイ! 次に奈良博の『十一面観音像』は、白とピンクの肉身がなまめかしい。頭上には長い瓔珞を垂らした天蓋、蓮華座の花びらからも露のように瓔珞が垂れている。赤に截金を配した衣、だいぶ退色しているが緑色の天衣を胸の前でリボンのように結ぶ。法起寺→井上馨→益田鈍翁という伝来も慕わしい。『不動明王像(黄不動)』は三井寺(園城寺)の秘仏ではなく、曼殊院のもの。摸本でも十分すぎる迫力。Wikiによれば「京都・曼殊院等に伝わる多くの模写像は磐座上に立つが、本像は円珍が実際に感得した際のさまを表現しているため、虚空上に立つ姿を本紙いっぱいに描いている」という見分け方を覚えておこう。第3期は(第4期も)密教色が濃厚でたいへん素晴らしい。

・肖像画:第1-2期で「六道と地獄」だった部屋がテーマ変更。右手には、歴史の教科書でも美術史でもおなじみ『後鳥羽院像』に『花園法皇像』。中央にいわゆる神護寺三像、左から伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像だったと思う。大きいので、人混みの後ろからでもよく見えて、ありがたかった。神護寺三像は、わりとよく見ている気がして、あまり感動しなかったのだが、調べたら、今年2017年と2009年に訪ねた神護寺の宝物風入れでも、2014年の京博・平成知新館オープン記念展も、2008年の京博・旧平常展示館ファイナル展でも、見ているのは源頼朝像と平重盛像の2幅だけだった。藤原光能像は、私は2007年に東博の国宝室で見ている。2014年にも国宝室に出ているが、これは見逃しているかも。3幅揃いは初めてだったかもしれない。もっと感動してくればよかった。なお、左手には『随身庭騎絵巻』。これが出る展覧会なら必ず見に行っちゃうくらい好きな作品だが、こういう大展覧会では映えないのが残念。

・中世絵画:『瓢鯰図』など。初めて知った金地院の『渓陰小築図』は明清の山水図みたいな個性的で不思議な味わいのある作品。伝・周文が2点あり「周文作の可能性が最も高いもの」という解説がついていた。狩野正信の『周茂叔愛蓮図』は淡い緑色がきれい。「万人受けする狩野派画風の特徴がすでに備わる」という解説は、誉めているのかいないのか、ちょっと苦笑した。永徳は超ラブリーな『花鳥図襖』。大井戸茶碗『喜左衛門』もこの部屋に出ていた。

・近世絵画:右に長谷川等伯の『松林図屏風』、中央に息子・久蔵の『桜図壁貼付』(智積院)、左に応挙の『雪松図屏風』。三横綱揃い踏みみたいな贅沢空間である。そして志野茶碗『卯花墻』は1~4期まで通期展示なのだな。きっと茶碗も嬉しかろう。『松林図屏風』は照明がよいのか、料紙の色がやわらかく感じられ、溶け込むような墨色も優しかった。松の根っこのラフな表現に目が留まった。

・中国絵画:大徳寺の牧谿筆『観音猿鶴図』3幅対(まとめてこう呼ぶのか)が来ていた。東博の『出山釈迦図・雪景山水図』3幅、小品の『林檎花図』『鶉図』も。アルカンシエール美術財団の『青磁下蕪花入』も美しかった。

【1階】

・陶磁:第2期と同様、通路に列ができている。今期の見ものは東洋陶磁美術館の『油滴天目』だという。何度も見ているなあと思いながら、並んで一度は最前列で見た。銀色の油滴がぎっしり詰まった華やかな茶碗、ただし覗き込むと底には油滴がなく、夜の海のような黒一色が広がっている。展示ケースのまわりかたが第2期と逆(時計まわり)になっていたのは、こっちのほうが合理的だと思った。墨蹟は宋・高宗の真筆『徽宗文集序』など。

・絵巻物:徳川美術館の『源氏物語絵巻・柏木』、大和文華館の『寝覚物語絵巻』が来ていたが、混雑でほとんど見えず。でも『信喜山縁起絵巻』の「延喜加持の巻」が見られたので満足。『扇面法華経草子』も美しい場面が開いていた。

・染織:熊野速玉神社伝来の古神宝類など。

・金工:厳島神社の『紺糸威鎧』は変わらず。

・漆工:なぜかここに妙法院の『ポルトガル国王印度副王信書』が出ていた。

・彫刻:あまり変化なし。新たな見もののひとつは浄瑠璃寺の多聞天立像。

【3階】

・書跡:『日本霊異記』『今昔物語』など。今期は「書跡」の美を愛でるというより、文学研究、伝本研究の面で価値ありとされた文献資料が多かった。ちょっとこの展覧会のジャンル分けには無理がある。

・考古:土偶や土器が減り、福岡市博物館から『金印』が来ていた。これを「最前列で見るための列」は、3階から階段を下って2階へ伸び、20~30分待ちの札が出ていた。私は何度か見ているので、遠目に見るだけにした。印の本体は意外と薄い感じがした。

 第4期にも行ってコンプリート記録をつくるかどうかは、いま考えているところである。
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2017年11月@関西:京都非公開文化財特別公開(法性寺など)

2017-11-05 23:44:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
 三連休は、例年どおり奈良・正倉院展へ行ってきた。土曜日は京都で国宝展(第3期)と決めていたが、その前に非公開文化財特別公開をいくつか訪ねた。

■大悲山一音院 法性寺(京都市東山区)

 京都に到着後、最初にここへ。ずいぶん前に一度来たことがあるので二度目になる。電車の線路沿いだったことを思い出しながら、探し当てた。法性寺は藤原忠平が建立した藤原氏の氏寺だが、やがて荒廃。本尊・千手観世音菩薩立像は、藤原忠通(法性寺入道)が難病にかかった際、この仏像に祈祷して回復したことから厄除観世音菩薩と呼ばれるようになったという。これは俗説だと思うが、均整のとれた美しい千手観音である。お顔の左右に2面を持ち、頭上にはぐるりと2段+頂上面の25面、計28面の千手観音である。脇手は40本、蝶が羽根を広げたように上に広がるシルエットが美しい。シンプルな厨子に入っていて、金箔貼りの背景に脇手の影が映るのが、また効果的である。10畳ほどの畳敷きのお座敷に座って拝観する。内陣の正面に千手観音、左手奥に板の間があり、忠通さまの念持仏と伝える阿弥陀如来、さらに地蔵菩薩と毘沙門天がおいでになる。座敷の左側面に巨大な不動明王坐像と薬師如来坐像、これは20世紀になってからの模刻である。京都女子大の腕章をつけた学生さんが、きびきびした説明をしてくれた。



■北野天満宮(上京区馬喰町)

 直前まで全く行く予定にしていなかったのだが、国宝『北野天神縁起絵巻 承久本』が15年ぶりに公開されているというニュースを聞いて、行く気になった。本当なら、これは国宝展なんて行っている場合じゃない。しかし「15年ぶり」というのは本当か? 自分のブログで調べてみたら、2013年の東博『大神社展』で「日蔵六道めぐり」の場面を見ているので、展覧会に出陳されたことはあるようだ。



 北野天満宮の宝物館での公開となると、私には苦い思い出がある。2005年(平成17年度)の非公開文化財特別公開期間に、承久本が見られると思って行ったら、模本しか出ていなかった経験があるのだ。このとき、宝物館の立て看板にも、京都古文化保存協会のサイトにも「国宝北野天神縁起絵巻(承久本)」と書いてあったのがあまりにも悔しくて、京都古文化保存協会にクレームのメールを書いたら、丁寧な謝罪のお返事をいただいた。あれから12年経って、ようやくこの機会に巡り合い、わだかまりが解消した気がする。黒雲に乗って現れた天神と、剣を構えて応戦する時平の描かれた場面(巻五)、船に乗って都を離れる道真の場面(巻四)が開いていた。各巻一場面ずつなんてケチ~。

 実は、宝物館のかなりのスペースを占めていたのは宝刀展。まあ源氏の宝刀「鬼切丸 別名 髭切」を見られたのでよしとしよう。「館内撮影可」の貼り紙があったので「絵巻もいいんですか?」と聞いたら、案内の学生さんに「絵巻はちょっと…」と困った顔をされたので、逆に安心した。「鬼切丸」の限定ご朱印(1000円、グッズつき)もあったが、ご遠慮申し上げた。



※おまけ:回向院(上京区御前通一条下ル東竪町)

 北野天満宮から徒歩で南に下り、一条通りに出る。ここは大将軍商店街、またの名を「一条妖怪ストリート」ともいう楽しい商店街。一条通りを少し行き過ぎたところに見覚えのあるお寺が現れた。長澤蘆雪(長沢芦雪)の墓のある回向院である。久しぶりなので墓参に寄っていく。場所を忘れていて、墓苑の奥まで入って探してしまったが、墓はわりと手前にある。たぶんこの写真を載せるのは二度目。


 
■大将軍八神社(上京区一条通御前西入西町)

 一条通りに戻り、大将軍八神社へ。江戸時代半ばにスサノオノミコトとその御子八柱と暦神八神が習合して大将軍八神宮となり、明治以降、大将軍八神社と改称して現在に至るという。今回の見ものは、渋川春海によって作られたという天球儀である。江戸時代の天球儀といえば、永青文庫で細川重賢旧蔵品を見たなあと思い出す(調べたら、これも渋川春海作で銅製である)。大将軍八神社の天球儀はたぶん木製、白っぽい表面に赤と黒の鋲で星を表し、星座の名前等が墨書されている。「織女」「畢」「箕」などを見つけた。ほかにも、安倍家(土御門家)伝来の天文暦学関係の資料などがいろいろ出ていた。『貞享五年具注暦』の識語には「貞享四年十一月朔日天文生保井算哲源春海」とあった。最後の太陰暦である『明治五年壬申頒暦』(大学星学局)には「文部省天文局」の朱印があった。

 また、80体に及ぶ木造の神像が林立する薄暗い展示室も、ただならぬ迫力あり。中国風の甲冑をまとった武人像が最も多く、和装(束帯)の文官像がこれに次ぐ。1体だけ愛らしい童子像がある。そういえば、女神像はないのだな。

■八幡山 報土寺(上京区仁和寺街道六軒町)

 大将軍八神社でもらった地図を見ながら、一条通りをさらに東へ進む。初めて歩く道だったが、全く観光地らしくない商店街で、京都にもこんなところがあるのかと面白かった。報土寺の周辺は江戸時代に花街として栄え、遊女の投げ込み寺とも呼ばれた。本尊の木造阿弥陀如来立像は、いわゆるアン阿弥様(快慶ふう)の三尺阿弥陀の基準作。1942年に旧国宝に指定され、京都博物館に寄託されたとみられており、今回、初めての里帰り公開となった。きれいな顔立ちの阿弥陀仏だが、京博でどのように展示されていたか、あまりよく覚えていない。もとは近江八幡の日牟禮八幡宮に本地仏として祀られていたという伝承が興味深かった。



 さて、このへんでいい時間になったので、京博の国宝展に向かうことにする。以下、別稿に続く。
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マウス買い替え

2017-11-01 22:03:37 | 日常生活
私は総体的に物持ちがいい方だと思う。大きな不満がなければ、いつまでも同じものを使い続けたい。買い替えは面倒臭い。アナログな道具だけでなく、デジタルまわりにも同じ態度をとってしまう。



最近(といっても半年くらい前から)マウスの反応が鈍くなったので、掃除をしたり、マウスパッド代わりに紙を敷いたり、いろいろ苦心していたのだが、ふと思い立って新しいものに買い替えた。そうしたら、あまりにも操作が快適で、長い間の苦労は何だったのか、馬鹿馬鹿しくなってしまった。

というわけで、写真のマウスは廃棄することにしたが、少なくとも5年は使ったと思われ、もしかすると10年使ったかもしれない古道具なので、付喪神になって歩き出してもおかしくない。たぶん箸よりも櫛よりも、毎日、手になじんできた道具なので、記念にその姿をとどめておく。
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