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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

キャラメル色の青磁/米色青磁(鎌倉国宝館)

2012-06-13 23:05:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
鎌倉国宝館 常盤山文庫名品展2012『特集:米色青磁』(2012年5月31日~7月1日)

 米色青磁というのは、青い青磁と同じ釉薬が、一定の条件下で薄茶色に焼きあがったもので、「稲穂の黄金色」なんて、しゃれた形容をすることもある。私はこの色を見ていると「舐めたら美味そう」という妄想が膨らんでくる。何だっけな、あの昭和のスイーツ、ヨーグルト味のキャンディ…と、週末から考え続けて、そうだ、サクマのキャンロップだ!とようやく思い出した(※画像)。細かい貫入(ひびわれ)は、キャラメルを思わせるところもある。

 解説によれば、南宋官窯の米色青磁は、世界に4点しか知られておらず(全て日本にある)、そのうち3点が常盤山文庫の収蔵品なのだそうだ。とりわけ堂々たる貫禄を示すのが、下蕪形の米色青磁瓶。私は、2011年春、正木美術館の『憧憬 室町の風流』でこの瓶を見て、米色青磁の魅力にやられてしまった。裏側の胴裾の一部がぽっと青く発色している、と解説してあったが、確かめられなかったのが残念。隣りの、大きな灰皿みたいな米色青磁洗は、表面の右端が、確かに青みを帯びていた。そこだけ貫入も少ない。もう1点は、比較的小ぶりな米色青磁杯。

 前後には、格調高い書画の名品も並んでいた。清拙正澄の『遺偈(毘嵐巻)』は、昨年もここ鎌倉国宝館の常盤山文庫名宝展で見たが、私の好きな墨蹟である。南宋の『送海東上人帰国図』は、根津美術館の印象が強い。これもまた人間臭さが好ましい作品。海岸から乗り出すように腕を差しのべる人々を見ていると(見送っているだけなのに)俊寛の逸話を思い出してしまう。

 絵画は、観音図が4件、弁財天図が1件あったが、能阿弥筆『白衣観音図』は、蓮華座に安座した観音が、温泉場の湯けむりの中にいるように見える。もやもやした背景と、観音のキリッとした表情が対比的。宗遠応世筆『白衣観音図』(南北朝)は恬淡とした感じが好き。

 再び陶磁器に戻って、昨年も出ていた北斉時代の三彩、宋赤絵、景徳鎮窯の白磁や青白磁、龍泉窯の青磁など、バラエティに富んでいた。加えて「特別出品」されていたのが、繭山龍泉堂の所蔵する米内山陶片コレクション。根津美術館が『南宋の青磁』を特集したときにも見ているが、外交官の米内山庸夫が、中国駐在中に採集し、日本に持ち帰ったコレクションである。その学術的価値の計り知れなさを嘆賞しつつ、いま外務官僚が駐在地でこんな作業に血道をあげていたら、公私混同だの職務専念義務違反だの言われて、ボコボコに叩かれるだろうなあ、とも思った。ほんと我々は悲しい時代に生きている。
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鎌倉史跡散歩・源義朝主従の供養塔

2012-06-12 23:10:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
別の用事で鎌倉に来たのだが、4月に源義朝と鎌田正清の供養塔を探しにきて、結局、探しあてられなかったことを思い出した。そこで、リベンジ。宝戒寺から雪ノ下方面へ。滑川にかかる大御堂橋を渡り、右に折れてすぐ。



↑この資材置場の手前で右に曲がる。道の両側の番地が「雪ノ下四丁目」であることを確認(資材置場の先で曲がると「雪ノ下五丁目」になってしまう。前回はここで間違えた)。



やがて道路の左側、フェンスに区切られた狭い一角に、天に向かって、吹き上げる炎のように伸びた木立を見つけるが、気にも留めずに行きすぎようとしたら、



鬱蒼とした茂みの中に「勝長寿院旧跡」の碑を発見。ここか!と慌てる。しかし、伸び放題のヤツデとアジサイに覆い隠されて、碑文が読めない。



フェンスで区切られた敷地の左隅、緑陰に身をひそめる小動物のように、二つの五輪塔が並んでいる。どちらも小さい。左の塔に「源義朝公之墓」、右のさらに小ぶりな塔に「鎌田政家之墓」の石柱が添えられている。二基の距離が近くて、密談するように仲よさげなのが、かわいい。

平成八年に立てられた説明板によれば、源頼朝は父義朝の菩提を弔うため、この地に勝長寿院を建立し、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頸を埋葬した。勝長寿院には、定朝作の金色阿弥陀仏や運慶作の五大尊像(へえ~!)が安置されたが、16世紀頃に廃絶したと思われている。供養塔は、ごく近年の再建委員会(代表:鎌田丙午氏→鎌田正清のご子孫なのだろうか)によるもの。それでも、こうして往時を偲ぶ縁(よすが)となっているのは、奥ゆかしい。写真を見るまで気づかなかったが、木刀が供えられていた。
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変わる歴史像/近現代日本史と歴史学(成田龍一)

2012-06-10 22:46:07 | 読んだもの(書籍)
○成田龍一『近現代日本史と歴史学:書き換えられてきた過去』(中公新書) 中央公論新社 2012.2

 歴史像(解釈された歴史)は、新たな史実(出来事)の発見がなくても、解釈によって変わりゆく。本書は、まず冒頭に「近代日本を対象とする歴史学研究」のパラダイムシフトを三期に分けて概観する。

第1期:戦前(1930年頃~)の研究に起源を持ち、戦後直後から1960年頃まで、歴史学研究の中心となった「社会経済史」を基礎とする歴史像。西洋との比較による日本の特殊性、近代日本に対する批判的な意識が根底にある。

第2期:1960年頃~。市民運動、学生運動の高揚を背景とし、歴史の主体としての「民衆」を強調するとともに、民衆の対極にある国家を権力論として書き直す試みも見られる。狭義の政治にとどまらない社会や文化、地域史への注目も始まる。

第3期:1970年代半ば~。「国境」と「学問の境界」を越境する試みが始まる。第1期や第2期で自明とされていた日本や日本人の範囲、分析視点と考えられていた国家、民族、自由、平等といった価値軸が「近代」の歴史性の産物として捉え直され、あらためて「国民国家」が議論の対象となる。

 ちなみに学校の教科書は、著者によれば「第1期をベースに、第2期の成果がいくらか描き込まれている」状況で、「(教科書の)歴史像といま現在、歴史学で議論されている歴史像との間には隔たりがある」のだそうだ。

 本書は、近現代日本史を「明治維新(開国)」「明治維新(倒幕)」「明治維新(維新政権)」「自由民権運動の時代」「大日本帝国論」「日清・日露戦争の時代」「大正デモクラシー期」「アジア・太平洋戦争の時代」「戦後社会論」の9段階に分け、それぞれ、教科書での語られ方(≒第1期の歴史像)、第2期、第3期に加わった新たな見方・解釈を紹介していく。当然、ものすごい量の参考文献が挙げられている。歴史学者って、ほんとによく本を読むなあ…。私が読んだことのある文献は、この一割にも満たない。

 しかし、いろいろ面白かったのは、自分が教科書で習ったり、マンガや小説から学んだ「歴史像」の由来が分かり、戦後歴史学という天空の中で、星座のようにその位置づけが明らかになったことだ。

 たとえば、明治維新の出発点さえも、1950年代の教科書は、国内に要因(天保の改革の失敗)→外圧が拍車をかけた、という記述だったのに対し、開国を近代の出発点におく考え方は、第2期の1960年代の研究で確立した。考えてみると、私の知っている昨今の幕末時代劇は、みんな開国を重要イベント視していて、ほかの解釈はちょっと思いつかないくらいだ。

 さらに第2期中期には、幕府の行政官は当時の国際情勢をよく理解していたという「自信に満ちた日本像」や、ペリー来航は外圧ではなく、東アジア経済圏に西洋が「参入」してきた、という認識が打ち出される。この背景には、1980年代末の経済大国化した日本と、日米の貿易摩擦が窺えるという。どんな実証的な研究も、時代の空気と無縁に出現したり、受け入れられたりするものではないんだな、ということを感じた。歴史像(解釈)もまた歴史的存在である、という自覚は、歴史を語る前提として、身に付けておきたいものだと思う。

 意外だったことの一つは、田中正造が第2期の研究によって発掘された人物で、1970年代初めに教科書に登場するまでは忘れられた存在だったということ。私は70年代初頭の学習マンガで田中正造を知ったけれど、あれは最先端だったのか。司馬遼太郎の『坂の上の雲』も、第2期の歴史学を念頭において読む必要がある、と指摘されている。

 また、「大正デモクラシー」という用語の扱いが教科書によって異なり、章のタイトルになっている本(三省堂)もあれば、註にしか出てこない本(山川)もある、というのも初めて知った。ちなみに私は高校で日本史を学ばなかったので、記憶なし。なお、第3期の研究では、1910~20年代を「総力戦」の時代として把握する傾向が高まっているとのことだが、まだこの認識は教科書にまで入り込んではいないようだ。

 私は、第3期の歴史研究、特に「国民化」や「総力戦」の問題について、文化や風俗、身体、メディアなどから切り込んだ著作が好きで、比較的よく読んでいるほうだと思う。著者は、そうした成果も「歴史学」に包摂して、本書を編集しているが、(第3期の歴史学は)「歴史学研究として認知されることはなかなか難しく、第1期や第2期の歴史学を大切にする歴史家のなかには、ここで紹介したような研究の無視や排除の姿勢もみられます」と、やや苦渋の説明をしている箇所もあった。

 本書は「歴史の教員を目指す学生たち」を読者に想定して書かれているが、そうでなくても、ブックリスト、書評集として座右に置きたい労作である。第3期の研究、ダワー著『敗北を抱きしめて』の評言など、考えさせられた。
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ヒーロー登場/京劇・孫悟空大鬧天宮(北京京劇院)

2012-06-10 02:22:03 | 行ったもの2(講演・公演)
○日経ホール 日中国交正常化40周年記念事業 京劇西遊記『孫悟空大鬧天宮(だいとうてんきゅう)』(2012年6月9日、12:00~)

 2009年と2010年に中国の京劇劇団の来日公演を見て、だんだんハマりつつあった。2011年は、おなじみ西遊記に題材を取った『孫悟空大鬧天宮』が予定されていて、楽しみにしていたのだが、東日本大震災の影響で中止になってしまった。2年越しでようやく実現した公演である。

 いや、さすがに面白かった。私は、子どもの頃に読んだ西遊記(小学館版『少年少女世界の名作文学』)でも、孫悟空が三蔵法師に出会って取経の旅に出る前の、天界の神々を敵にまわして大暴れする物語が大好きだった。誰かを憎んで大暴れするわけではない、食べたいものを食べ、遊びたいように遊びまわる結果が神々(大人たち)を右往左往させる孫悟空の姿は、子どものヒーローそのままだったのだ。

 今回の会場は大手町の日経ホール。2009年と2010年に京劇を見た池袋の東京芸術劇場(改修前)は、やや場末感があって、そこが庶民に愛された芸能・京劇に合っている気もしていたので、最新設備のゴージャスな会場に少し戸惑う。ギリギリ直前にチケットを取ったので、かなり後列の右端の席だったが、舞台はよく見えた。ただ、舞台上手の楽隊席が、幕の影になって、ほとんど見えなかったのが残念だった。

 第1場:花果山→第2場:御馬監(天界の厩)→第3場:紫宸宮。花果山で小猿たちの錬兵を楽しむ悟空のもとに、太白金星(別名・李長庚。ずいぶん人間臭い別名を持っているんだな)が使者として現れ、悟空を天界に招聘する。金銀玉石、奇貨珍宝に彩られた天界の様子を聞いても心の動かなかった悟空だが「千万の駿馬に乗り放題」と聞くと、矢も盾もたまらなくなって、飛んでいく。悟空はそんなに馬好きだったのか。まあ馬って、男子にとってはスポーツカーやバイクみたいなものだったからな。サルが馬の守護神と考えられた(厩で一緒に飼われた)ことも反映しているのだろう。

 第1場だけは、ストーリーを分かりやすくするため、具象的な山奥の背景が舞台装置に取り入れてあり、え、ずっとこれでいくのかな、と思ったが、第2場からは、京劇本来の簡素な舞台になった。第2場は、小役人「弼馬温(ひっぱおん)」となった悟空の二人の部下、小心者の寅翁・堂翁のチャリ場から始まる。無邪気に役人ごっこを楽しむ悟空。御馬監で最も気性の荒い悍馬を引き出させ、乗りこなしてみせる。もちろん京劇の「お約束」に従い、舞台上に馬は現れない。房飾りをつけた馬鞭一本、あとは機敏な身体の所作で、悍馬の姿を想像させる演技力が見どころ。すごい、すごい。この芝居の孫悟空は、単に大立ち回りのできる運動神経だけでは通用しない難役だと思った。

 そのあと、弼馬温の上司だという馬王(これも小役人の内)が現れ、横柄な態度で、悟空を激怒させる。中国の民衆が(役人になりたがると同時に)いかに役人嫌いだったか、よく分かる芝居である。

 ここで休憩。後半は、第4場:蟠桃会→第5場:偸桃盗丹→第6場:站山(出陣)。冒頭の蟠桃会(桃苑)では、桃林を描いた背景幕がめぐらせてある。おじいちゃんの土地神も中国らしい役どころだな。孫悟空役は、李丹(Li Dan)さんから磊(Zhan Lei)さんに替わる。扮装や隈取で「役」を指定する要素が大きいから、途中で中の人が替わることに、それほど違和感はない。偸桃盗丹は、やんちゃで愛らしい、そしてサルらしい豊かな表情と所作が見もの。オペラグラスを持ってきてよかった。

 最後は、天界の武神たちが勢ぞろいして(女神も含む)悟空討伐に出立する。脚本は「必ずや打ち負かせ」「得たり」の応酬で終わっていて、そのあとは台詞なし、京劇らしい身体パフォーマンスのみ。音楽にあわせて、悟空と花果山の小猿たち(よく見ると一人ひとり隈取が違う)と、武神の連合軍が、激しい立ち回りを繰り広げる。団体戦あり、個人戦あり。強くて美しい女神にデレる悟空とか、お笑い担当の羅睺(らごう)とか、図体ばかりで頭の弱い巨霊神とか、変化があって面白かった。

 パンフレットの解説によれば、古い京劇・西遊記(安天会)では、神犬に咬まれて悟空が捕まる結末だったものを、中華人民共和国成立後、反封建を強調する意図もあって、悟空の大勝利に書き換えられ、定着したそうだ。政治的改編も、たまにはいいことをするものだと思った。

 公演パンフレットには、二階堂善弘先生が「『大鬧天宮』に登場する神々」を寄稿。あと無署名記事「京劇と西遊記」が、「西遊記」を題材とする戯曲の変遷と活躍した俳優について、手際のいい解説になっていて、役立つ。むかしの名優たちの白黒写真も興味深い。

※今公演のチラシ:京劇の古くさいイメージを壊していて、けっこう好きだ。

「オレ様、神様、悟空様!」

有限会社 楽戯舎

2009年京劇公演『安天会~孫悟空 天界大暴れ~』
これは見られなかった公演。隈取は『大鬧天宮』とだいたい同じ。

少年少女世界の名作文学
さまざまな文学作品について、今なお私にとっての「決定版」的な影響をもっている。
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豊かな多様性/東洋絵画の精華・中国絵画(静嘉堂文庫)

2012-06-08 22:56:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 受け継がれる東洋の至宝 PartⅠ『東洋絵画の精華-名品でたどる美の軌跡-』至高の中国絵画コレクション』(2012年5月23日~6月24日)

 4月からずっと同じタイトルの展覧会の第2部「中国絵画」編である。湊信幸氏の講演を聞いたあと、展示会場に入った。

 入口には余松の『百花図巻』が出ていたが、これはあとまわしにして、室内から。平置きのケースに、伝・夏珪『山水図』。「伝」の信憑性にはいろいろあるが、これはかなり夏珪らしさの濃い「伝」だという話だった。東博所蔵の伝・夏珪『山水図』(近衛家旧蔵)と並べた画像を見せてくれて、瓜二つぶりにびっくり。山水図では、元の孫君沢『楼閣山水図』も好きだ。

 南宋の人物画では、牧谿『羅漢図』よりも、作者不明の『羅漢図』が気に入った。色は地味だが、よく見ると岩座の上に敷いた大きなクッション、ドレープの豊かな衣、瓔珞に飾られた花置き台、岩壁のつる草まで、華麗で装飾的なのである。元の彩色仏画は、『十王図』全十ニ幅から1枚と、久しぶりに『文殊・普賢菩薩像』という厳選の出品。後者は、若冲の模写が残っているもの(だったよね?)。張思恭筆と伝えられる作で、獅子と白象、その手綱を取る侍者の力の入り具合が、張思恭っぽいと思う。

 壁に沿って、明代絵画→清代絵画と続く。張瑞図の『松山図』、岩ガキをごろごろ並べたみたいで面白いなー。いま、無料でもらった色摺りパンフレットを見ながら書いているのだが、宋元画は、絶対にパンフレットより現物のほうがいいと思う。ところが、明清画は、ときどき、パンフレットの縮小全体図や部分拡大図のほうが魅力的なんじゃないか、と感じることがある。どうしてか、分からない。私の眼が、まだ明清画の大幅の見かたを体得してないからかもしれない。来舶画人の江大来は、中国文化的なアクの強さが希薄で、日本の文人画家の作品かと見まごう感じがある。

 ぐるり一巡して、反対側の壁の展示ケースに戻る。ここには、元の道釈人物画と、禅林の周辺で描かれたと思われる明代の『竹林山水図』。湊信幸先生が、見てこころよく感じられるのが、自分にとってのいい絵画なのです、みたいなことをおっしゃっていたが、私は、このセクションの作品がいちばん好きだ。因陀羅、それに雪庵。悪戯っ子のような『寒山図』と、風にそよぐ『竹林山水図』。絵が好き過ぎて、読めない題詩まで必死で読もうとしてしまった。

 最後に、入口の余松『百花図巻』をじっくり見る。2メートルくらい開いていたかな。長く広げると、変化に富む構成、持続する緊張感がよく分かって魅力的である。一度くらい全部広げたところが見てみたい。
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16世紀の日本列島/世界史のなかの戦国日本(村井章介)

2012-06-06 23:38:38 | 読んだもの(書籍)
○村井章介『世界史のなかの戦国日本』(ちくま文庫) 筑摩書房 2012.4

 16世紀から17世紀前半といえば、信長(1534?-1582)・秀吉(1537-1598)・家康(1542-1616)の三英傑が覇を競った時代であることは、戦国オンチの私でもさすがに知っている。しかし、本書は、戦国の英雄たちが活躍する日本の中央地帯の歴史については詳しく述べることをせず、列島の周縁部に目を向け、そこで起きた事件を、世界史的な文脈の中で理解することを試みている。

 具体的には「蝦夷地(北方)」「琉球(中国)」「平戸・種子島(南蛮)」「石見銀山(朝鮮)」「秀吉と波多三河守」「朝鮮役における泗川(しせん)の戦い」を取り上げる。

 「蝦夷地」は、中世~近世日本にとって重要な北方世界との交易の口だったことは分かっていても、実態を知らないので興味深かった。松前藩が、自己を「日本の外」とする認識を持っていたというあたりが。

 「琉球」については、薩摩の侵攻に至るまでの古琉球の制度、文化が詳しく語られる。最近、『テンペスト』の波及効果で、いろいろ勉強したことの復習になった。幕府および薩摩は、琉球を完全に従えることもできたが、明との復交の道をさぐるため(および異国を従える雄藩ぶりを誇示するため)、敢えて独立国の外見を取ることを許し、冊封体制を利用しようとした、という解釈になるほどと思った。国際関係って、ほんと一筋縄ではいかないなー。

 「平戸・種子島」では、16世紀の東アジア海域世界に最初にあらわれたヨーロッパ勢力、ポルトガルとの接触について語る。興味深いのは、鉄砲伝来の実像。「ポルトガル船が種子島に漂着して西洋式の銃を伝えた」という常識とは異なり、ポルトガル人の乗っていた船は、中国人密貿易商の王直の船(中国式のジャンク)で、鉄砲それ自体も、ポルトガル人がヨーロッパから携えてきたものではなく、東南アジアで使われていたものの可能性がある。この考察で、著者が参照しているのが、幸田成友の『日欧交通史』であることにも地味に感動した。

 「石見銀山」で産出した日本銀が、大航海時代のネットワークに乗って、世界で流通したという話は聞いたことがあるが、本書が特に着目するのは朝鮮との関係である。朝鮮政府は、倭銀の流入を恐れ、国禁としたにもかかわらず、ソウルの商人と倭人との間で密貿易が行われ、灰吹精錬の法が朝鮮から日本に伝わり、爆発的な増産を導いた。この銀をめぐる日本-朝鮮関係史は、全く知らなかった。

 以上が、近世日本の「四つの口」におおよそ対応する中世的状況であるが、ここで再び日本における統一権力の登場の意味をとらえなおす。秀吉の挑戦と敗北は、ヌルハチと比べられる。そうそう、秀吉の朝鮮出兵(明征伐)を持ち上げすぎるのもどうかと思うが、あまり否定的にとらえるのもなあ、と思う。清(後金)を建国したヌルハチが、規律ある社会組織(軍事力)を背景に、中華に臆することのない自信と自意識をもっていたことは、秀吉に共通するものがあるという。

 この章でエピソード的に取り上げられている波多三河守という人物のことは何も知らなかった。秀吉の逆鱗に触れて非業の最期を遂げた地方領主で、その怨霊は20世紀まで影響を及ぼし、1993年に(!)佐賀県に巨大なモニュメントが建造されている。最終章も付録的エピソードで、朝鮮戦役中の島津軍にぬぐい切れない「中世」的要素(小集団の寄せ集め的な性格)があったことを考察する。

 以上、あちこち目まぐるしく飛び歩いて、雑然と片付かない感もあるが、これが「中世史」なのだろう。あとがきに「中世史家の多くが抱いている近世のイメージは、中世のはぐくんだ可能性を堅苦しいわくにはめて摘みとっていった時代、という暗いものである」と、近世史家が聞いたら鼻白みそうなことがぬけぬけと書いてあって、笑ってしまった。

 なお、本書は『海から見た戦国日本』(ちくま新書、1997)に最終章を増補したものである。こういう改題は混乱のもとで、あまり嬉しくない。
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奇想の再評価/講演・静嘉堂コレクションとの出会い(湊信幸)

2012-06-05 23:15:41 | 行ったもの2(講演・公演)
静嘉堂文庫美術館 講演会『静嘉堂コレクションとの出会い』(講師:湊信幸氏)(2012年6月3日、13:30~)

 『東洋絵画の精華』展の第2部『至高の中国絵画コレクション』(2012年5月23日~6月24日)にあわせたイベントである。東京国立博物館の副館長も務められた(平成21年まで)湊信幸氏のお名前は、展示図録でしばしば目にしてきたが、講演を聞くのは今回が初めて。冒頭10分くらい遅刻してしまった。ごめんなさい。

 静嘉堂中国絵画コレクションの中核部分は、岩彌之助(1851-1908)が明治20~30年代に蒐集したものであり、その代表的な作品は、明治末年から大正12年にかけて雑誌「国華」で集中的に紹介され、さらに大正10年(1921)刊『静嘉堂鑑賞』にまとめられて、広く世界に知られるようになった。

 今日でも静嘉堂の中国絵画を代表する宋元画の名品、牧谿『羅漢図』、伝・馬遠『風雨山水図』、孫君沢『楼閣山水図』などは、彌之助の蒐集による。一方、明治29年(1896)には、九州大分の千早家から明清画23点も購入している。これは彌之助の煎茶趣味と関係があるのではないか、という。どうやら茶の湯→宋元画、煎茶趣味→明清画と結びつくらしい、素人理解では。

 講師は、昭和61年(1985)夏、静嘉堂の中国絵画調査に携わった。この頃、中国絵画の見方には、ひとつの変化が起きていた。カリフォルニア大学バークレー校教授(当時)ジェームス・ケーヒル著『Fantastics and Eccentrics in Chinese Painting(中国絵画における奇想と幻想)』(1967年)が刊行され、1975年の『国華』にその邦訳が掲載された。八大山人と石涛、安徽派、揚州派なども取り上げられている。1977年には台湾故宮博物院で「晩明変形主義画家作品展」という展覧会が開かれた。

 そうだったのかー! このとき、私の頭に浮かんでいたのは、辻惟雄先生の『奇想の系譜』(1970年刊)である。日本美術の「正統」に対して、一種の異端である奇想や幻想を再評価した同書は、突然現れた異端児ではなく、背後に世界的な美術史の転換があったんだな、ということを初めて認識した。と思ったら、講師も、ちゃんと『奇想の系譜』のPPTを用意してきていて、辻君の本はもっと早く出来ていたが、まず正統の絵画史を出さないと(異端や奇想について)語ってはいけない雰囲気があった、みたいな裏エピソード(誰かの回想?)を紹介してくれた。

 そうした美術史の転換を踏まえ、大正10年の『静嘉堂鑑賞』掲載作品を再評価し、その後の蒐集作品を紹介するため、1986年10~11月には、文庫の隣りの展示館で『中国の名画展』が開催され(※美術館は1992年開館)、図録『中国絵画』が刊行された。

 1986年の展覧会で初公開されたものには、南宋の『羅漢図』(戸田禎佑先生ご推奨)などがある。以下、印象に残った作品と紹介コメントは、元の『栗鼠図』(かわいー。今回の展覧会には出ていなくて残念)、明・陳瑛『観音図』(デフォルメが面白い)、明・張爾葆(ちょうじほう)『山水図』(董其昌と並び称されるが、董其昌ほど屈折がない)、張翬(ちょうき)『山水図』(ものすごく縦長。明代の二大流派とされる浙派と呉派を融合したような画風。両者の対立が鮮明になるのは16世紀以後で、15世紀には共通する部分もあるのではないか?)。

 最後に、静嘉堂中国絵画コレクションの概観まとめ。これは分かりやすかったので、後学のため、配付資料からそのままの引用をご容赦。(※)内はお話から付記。

一、南宋画院系の宋元画(※茶の湯)
二、禅林周辺の宋元画(※茶の湯)
三、寧波を中心とする宋元と明の浙江仏画
四、明の画院画家と浙派の作品
五、明中期の蘇州の文人と職業画家たち(※以下、煎茶趣味)
六、明末の文人-董其昌の時代とそれ以降-
七、明末の福建の画家(1)-王健章と張瑞図-
八、明末の福建の画家(2)-黄檗僧の周辺
九、藍瑛と銭塘(杭州)の画家たち
十、清の来舶画人

 「福建の画家が目立つ」というコメントもあったように思う。福建、行ってみたい~。展覧会のレポートは別稿。
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天平の仮面劇/特別企画公演・伎楽(国立劇場)

2012-06-04 00:37:45 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 第34回特別企画公演『伎楽-日本伝来1400年』(2012年6月2日)

・午後2時開演「薬師寺の玄奘三蔵会-伎楽法要-」

 伎楽は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、寺院の法会でさかんに上演された芸能である。正倉院や法隆寺の宝物の中には、奇ッ怪で滑稽な「伎楽面」が多数伝わっている。しかし、平安時代を経て鎌倉時代になると、次第に上演されなくなってしまった。それを、1980年代以降、関西の大きな寺院で、復興の試みが行われてきたことは聞いていたが、東京では、なかなか実際に見聞する機会がなかった。

 今回の公演は二部構成。2時の部は、幕が開くと、舞台は薬師寺玄奘三蔵院の前庭という設定になっている。薬師寺管主(住職)の山田法胤氏が登場し、玄奘三蔵会の由来について、お話になった。

 玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。昭和17年(1942)に南京で玄奘三蔵のご頂骨が発見され、その7分の1が、蒋介石の判断で(とおっしゃっていた)日本にもたらされた。当初、埼玉県の慈恩寺に奉安されたが、昭和56年(1981)に、玄奘三蔵と縁の深い薬師寺に分骨された。毎年5月5日に玄奘三蔵会を開催することになり、昭和55年(1980)東大寺大仏殿昭和大修理の落慶法要のため復元された伎楽が演じられることになった。

 お話のあと、客席後方の扉が開き、楽の音とともに、奏者・演者・僧侶が二列になって登場し、舞台にあがった。奏者・演者は退出。しばらく舞台上は僧侶のみになり、法要が始まる。薬師寺のお坊さんは、みんな声がいいなあ、と感心する。詞章は舞台左右の電子掲示板に映し出されていたが、現代の一般的な音読みで、特に変わった読み方はしていなかった。最後は、久しぶりに見た大般若転読と般若心経。

 休憩のあとが、新伎楽「三蔵法師求法の旅」。玄奘三蔵院の前に作られた(欄干で仕切られた)四角形が舞台だが、けっこう自由に舞台をはみ出しても演じる。舞台の上手に、講釈師みたいにお坊さんが座して物語を読む。「玄奘は聡明なる児童にして、幼くして仏門に入りたり」みたいな、平易な文語調。

 舞台下手には演奏者(立ったまま)。5時の部の解説によれば、笛(龍笛)×2人、三ノ鼓(さんのつづみ。腰に下げ、撥で打つ)、腰鼓(ようこ。同じく腰に下げる)×3人、銅拍子(小型のシンバル)、銅鑼、という構成である。

 演者は頭巾で頭頂から後頭部をすっぽり覆い、髪の毛が完全に見えないようにした上に仮面をかぶる。ただし、この新作伎楽では、主人公の玄奘三蔵だけは素面(仮面なし)で演じる。今回は狂言師の茂山良暢氏だったが、薬師寺の法会では、毎年、歌舞伎や芸能界のスターをゲストに招いているようだ。商売うまいなー薬師寺。でも頭巾姿で仮面なしだと、ニンジャみたいで、ちょっと笑ってしまう。

 これも、あとで5時の部を見て分かったことだが、新作伎楽は復元伎楽の面(登場人物)と所作を巧く再利用して作られている。それにしても、いろいろツッコミたいところがあって、面白かった。高昌国の王様、尊大に構えすぎじゃないか? 確か『玄奘三蔵絵』では、逆に玄奘を礼拝してたぞ、とか。

 玄奘は、めでたく唐に経巻を持ち帰って、皇帝に拝謁する。その玄奘に師事して法相教学を学び、日本に伝えたのが道昭である。最後に講釈師の坊さんが、ひときわ声を張り上げ「薬師寺は玄奘の学を伝える寺なり~」みたいなことを言って、幕。

・午後5時開演「伎楽-幻の天平芸能を知る-」

 幕が開くと、玄奘三蔵堂はなく、欄干に囲まれた四角い舞台と、背景には、中央の開いた寺院の塀が残されている。天理大学教授の佐藤浩司先生が背広姿で登場、伎楽の基礎知識について語る。関西人らしく、親しみやすい語り口で、伎楽は雅楽に押されて、宮中では次第に廃れたこと、しかし、獅子舞、天狗など、日本各地の芸能に姿を変えて受け継がれたことなど、興味深かった。

 「雅楽」に対する「伎楽」は、「能楽」に対する「狂言」みたいなもの、というのも分かりやすかった。5時の部は、興福寺の雅楽家狛近真(こまのちかざね、1177-1242)が撰述した楽書『教訓抄』の記述をもとに復元した伎楽を楽しむ。同書には、わずかながら、伎楽の演じ方についての記述が見られるのだという。

 楽曲の復元に努めたのは、演奏家の芝祐靖氏。平安・鎌倉時代の伎楽譜をいろいろ見たが、唐楽の影響を受けていて使えなかったので、結局、伎楽面の個性にマッチした旋律とリズムを作ることにしたという。これが、非常に平易で、覚えやすく忘れにくい、さすが天才、と佐藤先生はベタ褒めされていたが、聞いてみて、確かにそのとおりだと思った。

 5時の部も「行道」から始まった。伎楽は行道(パレード)に始まり行道に終わる仮面劇なのだそうだ。先頭(下手側)を歩くのが治道(じどう)。長い鼻の持ち主で、天狗や猿田彦を思わせる。コイツは、そのあとの演目に登場せず、行道だけが役割である。以下、佐藤先生から、楽器のひとつひとつ、登場人物の性格について解説があった。

 そして、いったん全ての演者が引っ込んだあと、公演が始まった。復元伎楽は、語りなし、音楽だけの無言劇である。プログラムの演目は、行道に続き、獅子、崑崙、呉公、金剛・力士、婆羅門、迦楼羅、太孤、酔胡という並びになっていたが、これらの演目が一続きで演じられた。5時の部は、お話とあわせて1時間程度で、もうちょっと長くてもいいのに、と思ったが、『教訓抄』から分かることが少なすぎて、これ以上は無理なのだろう。音楽にはメリハリがあって、佐藤先生のコメントの意味がよく分かった。

 芝祐靖さん、プログラムの寄稿に「雅楽演奏を生業として二十年ほど経ったころ、単調極まりない雅楽の堅苦しさにすっかりくたびれて、何かもっと楽しい雅楽はないものかと思い続けていました」って、書いちゃう率直さが好きだなー。

 終演後、5時の部につきあってくれた友人と、丸の内の沖縄料理「うりずん」で夕食。2月に沖縄で行ったお店の東京店である。
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特別展『ボストン美術館 日本美術の至宝』(再訪・備忘録)

2012-06-02 11:34:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『ボストン美術館 日本美術の至宝』(2012年3月20日~6月10日)

 最初の参観は開催初日だった。あれから2カ月半、東京展もそろそろ終幕なので、もう1回行ってみることにした。1日(金)は、定時過ぎにそさくさと職場を出る。山の手線の内側の職場なのだが、上野への近道ルートがなくて、博物館到着は18時半頃だった。そろそろ空いてくる頃合いかと思ったら、この時間から入館するお客さんが、けっこう多い。

 第1会場・第1室。人が多くて、作品の最前列まで寄れない。最前列に進んでしまうと、長居できない雰囲気なので、ゴッタ返す観客の頭越しに眺める。これが初見だったら、かなりストレスだけど、一度見ているので、まあいいかと達観できる。平安時代の『馬頭観音菩薩像』は頭部と頭光が合体してしまって、巨大な茶髪のアフロヘアに見える。截金で飾られていた天衣や衣の縁(へり)も茶色く褪色して、毛皮みたいに見えるのが、逆にゴージャスに感じられて面白い。カタログに京都・興聖寺旧蔵というが、上京区の?宇治の? どっちだろう。

 平安~鎌倉時代の『毘沙門天像』は吉祥天、五夜叉など多くの眷族を従える。胸の前に斜めに長剣を構え、左手には宝塔ではなく蓮花?宝珠?みたいなものを掲げる。非常に装飾的な甲冑、特に兜と、ひるがえる天衣のように肩から上がるニ筋の炎(光?)。あんまり面白すぎて、初見のとき、アメリカン・コミックみたいだなーと思った。カタログの解説を書いているのは中国系(台湾)の方で、「中国・元代の、特に山西省における仏教絵画を想起させる」という。へえーなるほど。

 内山永久寺の障壁画『四天王像』(4面)は、図録の写真があまりよくない。実物の印象はもう少し暗くて、足元の邪鬼や背景の波がよく見えないが、頭部周辺の残りのよい多聞天と広目天は、もっと表情に生彩がある。全体に装飾的な仏画の多いこのセクションで、私がいちばん好きだったのは、信仰の対象としての威厳を保っている『一字金輪像』。

 第1会場・第2室「二大絵巻」は、まあまあの混みよう。「閉館まであと1時間です。まだ第2会場もございますのでご注意ください~」と案内の方が必死に急かすので、きちんと並んで見ていく観客はそれほど多くない。それなら、と思って、短い列に並び、最前列で一周する。『吉備大臣入唐絵巻』に何度も登場する楼閣は、第1巻がいちばん色彩の残りがいい。3、4巻になると屋根の色がほとんど飛んでいるし、柱の朱色の印象もかなり違う。でも何度見ても楽しいなあ、この絵巻。

 見ている間、男性の声で「これ、ストーリーが分かると面白いんだぜ、ユウレイさんがいろいろ助けてくれるんだよ」とか、若い女性が「あ、座って飛んでる~かわいい~」という声が耳に入る。画面から目を離せないので、どんな人が喋っているのか分からなかったが。やっぱり、こういう魅力的な作品が、美術ファンだけでなく、広く認知されるには、里帰り展覧会の意味は大きいのだな、と思った。

 『平治物語絵巻・三条殿夜討の巻』は、冒頭の大混乱の場面、交錯する人々の視線、表情がすごい。(脱げないように)烏帽子を押さえている男たちが何人もいる。牛車にひかれかかっている白イヌ。すでにひかれている男も。燃え上がる三条殿の場面は、いちばん観客が多かった。最後の引き上げる信頼・義朝軍の場面は、チラッと見て立ち去る人が多かったが、よく見ると、後白河上皇を載せた牛車を囲む軍勢の中に、豆腐のような空白が4、5カ所浮いており、重要人物の名前を書き入れるつもりだったらしい。烏帽子・狩衣姿の人物が信頼だとして、ほかの武者も特定できているのかな。知りたい。大河ドラマにも、このくらい迫力ある映像を期待したいが、セット撮影では、密集する騎馬武者軍団のものものしさを表現するのは無理だろうなあ、きっと。

 この絵巻の向かいに展示された『観音図』(元または鎌倉)に注意を向ける観客は少ないが、画中に描かれた大勢の死者たち(とりわけ無残な女性たち)への手向けのような気がして、私は、つい手を合わせたくなった。

 あとは途中を斜め見しながら、第2会場の光琳『松島図屏風』へ急ぐ。観客が多くて全景を見られないのが残念。しかし、人の頭越しに見ていたら、右側の高い岩山の頂上に生えている小さな松に注目する結果になって、変な松だなあ、と気になり始めた。波や岩山が抽象化されているのに対し、小さな松だけが、妙に生々しいのである。ただし、図録解説によると、松には加筆が認められるとあるから、もとの光琳の意図なのかどうかは分からない。フーリア美術館が所蔵する宗達の『松島図』右隻をもとにしていると読んで、画像(※Wikiにあり)を探してみたが、ずいぶん印象が違う。私は、これは光琳作品のほうが好きだ。第2会場・第3室の蕭白も、夢中で見入ってしまう。『商山四皓図屏風』左隻の、触角をのばしたカタツムリみたいな驢馬が可笑しい。

 時計を見ると、閉館まで15分。ここでUターンすると、混雑しているのは蕭白のところだけで、他はそろそろ閑散とし始めていた。しかし「二大絵巻」には、まだ人がいる。第1室の仏画は、かなり自由に鑑賞できる状態になっていた。最後に、また「二大絵巻」に戻り、お気に入り場面だけ、チラチラのぞき見ているうちに閉館チャイムが鳴った。案内の方は「まだお客様が並んでいらっしゃいます~どうぞ間を開けずにお進みください~」と列を進ませるのみで、さすがにジャスト20時では追い出さないのだな。当たり前の対応かもしれないが、感心した。ご苦労様です。最後まで様子を見ていようかと思ったが、申し訳ないので、そろそろ退出した。

 外に出たら、大勢の人がカメラを構えているので、何かと思ったら、平成館と本館の間の細長い夜空に、ライトアップされた東京スカイツリーが浮かんでいるのである。日中でも見えるんだろうけど、全然気がついていなかった。これは夜間開館のちょっとした「見もの」になりそう。

 ボストン美術館展は、たぶん名古屋会場か大阪会場で、もう1回くらいは見に行くつもりである。
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藤井斉成会有鄰館(備忘録)

2012-06-01 23:49:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
藤井斉成会有鄰館(2012年5月20日参観)

 あまりたびたび行けるところではないので、見たものの備忘録を残しておこうと思いながら、先週は忙しくて書けなかった。まだ記憶がよみがえるかしら。

■1階陳列室  

1階は、ほぼ常設なのだろう。動かしにくそうな「大物」が多い。同館のサイトの「蔵品略目」には、以下のような展示品があがっている。
 
婦人木彫(エジプト)
マトウラー帝釈窟説法図(インド)
仏伝図・石仏(ガンダーラ)
雲岡石窟仏頭(北魏)
太安元年仏座像(北魏)
天平二年弥勒三尊仏立像(東魏)
元象元年交脚菩薩像(東魏)
河清三年三尊菩薩立像(北斉)
開皇四年金剛力士像(隋)
黄玉観音立像(隋)
仁寿四年鉄観音立像(隋)
貞観十三年仏坐像(唐)
響堂山石窟羅漢像(唐)
五台山胡僧礼拝図(唐)
東王父・西王母画像石(漢)
画像空心磚・狩猟画像磚柱(漢)
十二字磚・長楽未央磚等(漢)
双馬画像磚(唐)
瓦当「羽陽千歳」「羽陽臨渭」等(漢)
熹平石経(漢)
正始石経(魏)
統和二十八年陀羅尼石幢(契丹)

確かにエジプトの婦人木彫とかガンダーラ仏とか雲岡の仏頭があった。このほか、私がメモに残したのは、

・漆箔木彫の三尊仏(宋)…つり目の観音(たぶん)を本尊とし、穏やかな表情の脇侍。よく彩色が残る。
・立膝をついた木彫羅漢像(宋かな?)…やたら脛が長い。
・流金阿弥陀像(明)…明太祖が使用したという螺鈿の寝台に収まっていた。
・供養人を描いた巨大な壁画(元)…永楽宮に似ているという。
   確かに、大きさも遜色なし。いちおうガラスケースに収まっている。
・熱河宮殿の壁画×2件(明)…むき出し。保存上、これでいいのか~。
・壁になにげなく鄭孝胥の書の額。
       
■二階陳列室  

青銅器、玉器、漆器、璽印、古銭、硯など。

・乾隆帝、康煕帝の玉璽(清)
・呉越王の印(五代十国)…呉越王=銭弘俶のこと。
・銅虎(戦国時代)…目が大きくて、かわいい。
・夾帯衣装(清)…科挙のカンニング用下着。細字でびっしり書き込みがされている。
・「建牙偉略」…展示室か、その外にかかっていた扁額。清・雍正帝の筆。
       
■三階陳列室

清の盛世をあらわす服飾工芸品、陶磁器、書画など。

・乾隆帝の大玉床…天蓋なし。ソファ。
・乾隆帝着用の龍袍×3件。どれも青色系。よくある黄色でないのが、かえってホンモノらしい。
   最上段の1着は、胸・原・袖・肩などにデザインされた白龍が、ビーズのような小さな真珠で埋めてある。
   赤は珊瑚。細身の袖口はストライプで、細い金糸の縫いとりあり。とても綺麗。 
・青磁のキリスト像(元)
・緑褐釉の梟のペア(後漢)…まんまるでかわいい!

以下、書画はけっこう丁寧にメモを取ってきたつもり。
 
・(金)王庭筠(おうていいん)「幽竹枯槎図巻」
・(清)鄭燮(ていしょう)書
・(清)華昆田 蘭花図
・(明)王鐸 書「香山寺詩」
・(清)郎世寧「春郊閲駿図」…これが日本で見られるのは、ほんとに幸せ。
   馬上の乾隆帝を、まぶしげに見上げている若者は誰?
・(清)倪元[王路](げいげんろ)書
・(梁)武帝 書「異趣帖」…わずか二行。
・(明)沈周 山水図…文人画っぽい。乾隆帝の印あり。
・(北宋)黄庭堅 書「李太白憶旧遊詩」…昨年5月に続き、二度目の参観。はじめの10行ほどが特に好き。  
   昨年秋に京博の『細川家の至宝』で「伏波神祠詩巻」を見たし、
   新春に東博の『北京故宮博物院200選』で「草書諸上座帖巻」を見たけど、どれも好きだ。
   黄庭堅は、かなり日本人好みの書家ではないかと思う。
・(明)王鐸 山水画
・(明)「楊貴妃入浴図」…歴史的主題に託した風俗画なのだろう。
   肌も露わな下着姿の楊貴妃、すだれ越しに覗いているのは玄宗皇帝?
・(唐)「春秋経伝集解」
・(清)袁耀「楼閣山水図」
・(北宋)許道寧「秋山蕭寺図」
・(明)張瑞図 書
・(明)陸治「白岳紀遊図」

三階陳列室の向かいは貴賓室である。その入口の上の扁額「夙志澄清」は印が見えなかったが、調べたら、康煕帝の筆らしい。
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