見もの・読みもの日記

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沖縄を知る/うちなーゆ ゆがわりや(国学院大学博物館)

2022-06-09 21:48:40 | 行ったもの(美術館・見仏)

国学院大学博物館 企画展『沖縄復帰50年 うちなーぬ ゆがわりや:琉球・沖縄学と國學院』(2022年5月19日~7月23日)

 1972年5月15日、米国の統治下にあった沖縄県が日本に返還されてから50年、さらに、1872年に日本の明治政府によって琉球国の外交権が剥奪され、琉球藩が設けられてから150年に当たることを機会として、沖縄の歴史や文化について振り返り、国学院大学と「沖縄学」研究との関わりについて再確認する企画展。

 そうなのか。今年が沖縄の「本土復帰50周年」であることはぼちぼち聞くが、「沖縄処分開始150周年」であることは、全く意識していなかった。はじめに、そもそもの南西諸島(沖縄を含む)の地理的環境と歴史が示される。

 「時代対照表」のパネルには、八重山・宮古、沖縄、日本、北海道、そして比較対象として中国の時代区分が線表で示されていた。私は東京生まれで「日本」の教育を受けてきたので、最近まで、標準的な「日本史」の時代区分しか知らなかった。2013-14年に2年間だけ北海道に住む機会があって、はじめて北海道の歴史の独特な時代区分を知った。沖縄には、旅行で1回しか行ったことがないが、やはり独自の歴史があり、さらに八重山・宮古には、沖縄諸島とも異なる歴史があることは、最近、国立歴史民俗博物館の『海の帝国琉球』展で学んだばかりである。

 琉球大学考古学研究室所蔵の土器残片が展示されていたが、「縄文時代後期・晩期」であるにもかかわらず「奄美・沖縄諸島の縄文土器には縄目の文様がない」という説明が付いていた。しかし、くっきりした線文や小さな凹みの繰り返し文で飾られた土器片もある。これらは、爪や植物、貝殻などを用いたものだという。

 14世紀、琉球中山王は明の冊封を受け、次第に琉球列島全域を支配下に収める。同じく琉大考古学教室から、首里城跡出土の青磁片・華南三彩片・高麗瓦片などが来ていた。戦後復元された守礼の門や識名園のカラー写真に交じって、昭和初期に撮影された首里城正殿(18世紀建造)の白黒写真もあった。

 1609年、琉球国は島津氏の軍事侵攻を受けて降伏し、以後、日中に両属して国家の存続を図る。こういう、周辺の大国に翻弄される小さな島(列島)の歴史は、ちょっと台湾に似ている気がした。国学院大学図書館が所蔵する『琉球人行列絵巻』は、全体に落ち着いた淡い色彩で描かれている。筆者の「公寳」は日本人だろうか、琉球人だろうか。

 1872(明治5)年には明治政府によって琉球藩が設けられ、1879(明治12)年、沖縄県となる。1880(明治13)年、琉球処分に関する清国との交渉に赴いたのは伊藤博文で、随行したのが井上毅である(清国側は李鴻章かな?)。井上毅関係文書「梧陰文庫」には、琉球処分に関する資料も含まれている。展示されていたのは、内務省の罫紙にさまざまな筆跡で書写された文書類。名も無い官吏たちが井上のために清書したのだろうか。そして、井上毅の旧蔵書・草稿案などの「梧陰文庫」が国学院大学に寄託されていることを私は初めて知った。

 明治以降、急速な日本化が進む一方、日本と異なる歴史や文化を有する地域であることを自覚した人々による「沖縄学」が生み出され、国学院大学は「沖縄学」の創成期に関わる人材を輩出した。さらに戦後、米国によって琉球大学が設置され、1972年の日本復帰に伴って国立琉球大学となったが、琉球大学の文学・歴史学の教員には、国学院大学の卒業生が多く採用されたという。

 大変おもしろい。昨年の『アイヌプリ』展や、中世神話を扱った『神の新たな物語』展を思い出しながら、この大学の学問領域が、辺境や異端をカバーしていることを実感して嬉しくなった。

 なお、タイトル「うちなーゆ ゆがわりや」の意味は(たぶん)会場内のどこにも説明がなかった。「うちなーゆ」は「沖縄の」で「ゆがわり」は「世変わり」らしいが「や」はなんだろう。詠嘆の助詞だろうか。

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