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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

なつかしの風林火山/武田二十四将(山梨県立博物館)

2016-05-02 22:16:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
山梨県立博物館 開館10周年記念特別展『武田二十四将-信玄を支えた家臣たちの姿-』(2016年3月19日~5月23日)

 武田信玄を支えた家臣として著名な「武田二十四将」を中心に、彼らの古文書、武具や肖像などの関連資料をとおして、その実像に迫る展覧会。ちょうど仕事で甲府に出張する機会があったので、その帰りに見て来た。

 甲府からバスで約30分。開館直後くらいの時間に着いたので、まだ館内にあまり人がいなかった。入ってすぐのカウンターで入館券を買ったら「コインロッカーはこちらでございます」「企画展会場はこちらでございます」といちいち親切丁寧なので恐縮してしまった。こういう博物館の経験はあまりない。職員の方に企画展の入口までご案内いただき、「いや~今日は暑いですね!」などと会話も振っていただいた。

 冒頭には何枚かの「武田二十四将図」があって、いずれも上段中央の信玄を中心に、同じような構図を取ってることを確認する。最も信玄に近い位置に配されるのが「武田氏の一門」で、次が「宿老・譜代家老衆」、以下「先方衆(他国衆)」「足軽大将衆」と続く。展示では、このカテゴリーごとに家臣たちを紹介する。特に有名な武将をひとり選んで「わしは○○じゃ!」という口調で背景を解説するなど、素人にも分かりやすく、親しみやすい工夫がされていた。

 「武田氏の一門」の語り手は弟・信繁というか、典厩さま。私は2007年の大河ドラマ『風林火山』が大好きだったので、戦国オンチのわりに武田家臣団にだけは詳しいのだ。出土品の陶磁器、武具(神社への奉納品)などもあるが、展示のほとんどは文書である。地味だが、解説が丁寧なので、なんとかついていける。そして、戦国時代の文書って、けっこう個人蔵が多いんだな。

 「宿老・譜代家老衆」では高野山・桜池院が所蔵する『過去帳(甲州月牌帳)』に目を見張った。武田家の菩提所・宿坊である成慶院(現、桜池院・成慶院)に伝わるもの。飯富虎昌の命日! 駒井高白斎の供養の記録! 同院所蔵の『武将文苑』には馬場信春(教来石!)の書状の写しもあるのか。いろいろとドラマの映像が頭に浮かんでくる。次回、高野山に行くときは、ぜひ桜池院に泊まってみよう~。

 「先方衆(他国衆)」とは、武田氏の侵攻を受けて武田氏に従属した国衆のこと。真田氏、諏訪氏、木曽氏などの資料が登場する。北信濃の国衆・市河氏について、その動向は武田氏と上杉氏のパワーバランスに大きな影響力を持っており、武田氏としても丁寧な対応をしなければならなかった、という説明が面白かった。戦国時代は、ただ武力を競っていただけでなく、「外交」が発達した時代でもあるのだな。

 「武田二十四将図」の最下段に描かれる五人は「足軽大将衆」で、その代表はもちろん山本菅助(勘助)。騎馬五十騎以下を預かり。合戦の最前線に配備されたいくさのプロ。会場では「軍師?そんな職名はない」と勘助に語らせていたけど、これは江戸時代に中国小説の影響で生まれた伝説らしい。なるほど。

 それから「二十四将」以外の武田家臣団全体を考える試みでは、海賊衆(水軍?甲州なのに?)がいたことや、伝馬衆や普請役、町人や職人の奉公の資料もあって興味深かった。そして、武田氏滅亡後の家臣団のゆくえ。家康に従った国衆もおり、越後上杉氏に従った国衆もいた。今年の大河『真田丸』は、まさに「いまここ」である。山本菅助の子孫は、最終的に高崎藩士となるのか。江戸初期になっても武田旧臣どうしが連絡を取り合っていたり、江戸中期には伝説化と脚色が進んで、山本菅助の子孫がかなり有名だったり、柳沢吉保が武田信玄を崇拝していたりするのが面白い。浮世絵師が描いた「武田二十四将図」がいくつか展示されていたが、歌舞伎や読み本などのメディアも武田軍団の伝説化を推し進めるんだろうな。

 絵画史料で興味深かったのは、東京国立博物館所蔵『長篠合戦図屏風(下絵)』(江戸時代)。いや~これ見たことがない。東博のデータベースを見ると「19世紀」とあって、比較的新しいものらしいのだが、解説に「武田軍が連合軍の設けた柵に殺到し、柵を倒そうとする様子や、一部は柵内に乱入している場面を描く点は他と異なる。こうした状況は合戦の記録からも事実である可能性が高い」という。誰がどんな意図と方法で、こうした場面を描き出したのか、とても知りたい。
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