○内田樹編『日本の反知性主義』 晶文社 2015.3
集団的自衛権の行使容認、学校教育法の改定など「あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導くはずのこれらの政策に国民の40%以上が今でも『支持』を与えて」いるのは何故か。国民の知性が総体として不調になっているのではないか、という認識が、本書の出発点にある。先行する類似の研究に、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003)という文献があることは、本書を媒介に初めて知った。しかし、内田氏が述べているように、アメリカ人の国民感情の底に伏流する反知性主義と、現代日本の反知性主義は「かなり異質なもののような気が」私もする。
それはさておき、現代日本の反知性主義・反教養主義について考えようという共同研究の誘いに賛同し、白井聡、高橋源一郎、赤坂真理、平川克美、小田嶋隆、名越康文、想田和弘、仲野徹、鷲田清一の9名による、視点もスタイルもさまざまな寄稿によって成り立ったのが本書である。ただし「(日本の)反知性主義」の特徴や来歴を詳しく解説しているのは、冒頭の内田氏と次の白井聡氏くらいだ。反知性主義者について語っても、彼らがそれを読むとは思えないので、虚しいところがあるのは否めない。
むしろ面白かったのは、寄稿者たちが考える「知性とは何か」という答えの豊かなバラエティである。内田樹氏は、カール・ポパーを引いて説く。個人がいかほど知性的であろうと念じても、人は知性的であることはできない、知性は「社会的あるいは公共的」なかたちでしか構築されない。しかしまた、同時代に多くの賛同者を得たというだけでは「社会的・公共的」であると言うことができない。未来の読者たちとの協働の営みを想像する頭脳の働きこそが知性であり、「時間の中でその真理性がしだいに熟してゆくような言明」を「知性的」と呼びたい。ここでは、歴史の中におのれを位置づける想像力が、知性と深く関わりづけられている。
一方、高橋源一郎氏は、鶴見俊輔が小学生の息子に「自殺をしてもいいのか?」と聞かれて、「二つの場合にはしてもいい」と即答し、戦争に引き出されて敵を殺せと命じられたとき、それから、女を強姦したくなったとき、と答えたというエピソードを引いて、回答の「速さ」に瞠目する。どうして、こんなに速く答えられるのか。それは、鶴見が「どこかにある正しい回答」を探すのではなく、自分の身心を一種の「メートル原器」にしているからだ、と解説する(ここで鶴見の学んだ「プラグマティズム」が、アメリカで南北戦争の惨禍を背景に生まれた、という注釈が入る)。この世界には「深さ」よりも「速さ」を必要とする問題もある。そして(誰もついてこられないような)思考の「速さ」は、必然的にその人を「孤立」に追いやる。
内田氏と高橋氏の「知性」の定義は、一見正反対のようにも見えるが、どちらも確実に「知性」の一面を抉っていると思う。また、名越康文氏は内田樹氏との対談で、実体験を踏まえて語る。33歳くらいになって、自分には圧倒的に知性が欠けていると気づき、猛然と読書を始めたこと。教養主義や知性主義は「みんな知っていることを俺だけ知らない」という焦燥感から発動するが、その焦燥感が訪れる時期は人によって異なり、高校生だったり、大学生だったり、30過ぎてからだったりする。それは「負けず嫌い」ではない。競争とは違う渇望状態。そして、知らないことを学ぼうとすると、なんとなく健康状態がよくなる。知識を獲得すると「いいこと」があるわけではなく、獲得したいなあと思うだけで心身の調子がよくなる。「初恋の感覚に近いかもしれない」という表現に微笑みながら共感した。
映画監督の想田和弘氏は、「台本至上主義」がいかに反知性的かを語り、知性とは、到達した地点にしがみつくことなく、いつでも捨て去る勇気を持つことだと説く。作り上げては壊し、作り上げては壊していく不断の運動の中にしか知性は宿らない。いい言葉だ。鷲田清一氏は、知性とは、それを身につければ世界がよりクリアに見えてくるというものではなく、むしろ世界を理解する補助線あるいは参照軸が増すことで、世界の理解はますます複雑になるという。複雑さに堪えきれる耐性を身につけていることが「知性的」であるという意味なのだ。こうして並べていくと「知性的」であることは、しんどい、面倒くさいことばかりである。目に見える利得はあんまりない。それでも多くの人間は、知性に「恋をする」ように作られていたと思うのだけど、そこが不調になっているのは何故なのかなあ。
ちょっと異色だったのは仲野徹氏の論考。生命科学の研究者である著者は、高度な研究機器の開発、インフラ整備、情報や知識の膨大化によって、科学研究における知性的な活動が著しく低下してきたと語る。薄々そうではないかと思っていたことが、現場の研究者の発言で裏付けられて、やっぱり、という感じだった。多くの実験がキット化されることで、原理が分かってなくても実験ができてしまう。ビッグデータの網羅的な解析が可能になると、研究は、考え抜いてピンポイントで釣り糸をたらす一本釣りでなく、ごそっと底引き網で獲っていくトロール漁業化する。そんな研究は面白くないが、やらねば競争に負けてしまうので、やらざるをえない。ううむ…。論文を一流雑誌に掲載するために必要なデータ量は、20~30年前の4~5倍になり、その分、論文執筆の機会(深く考える機会)が減っている。
それから、データベースにキーワードを打ち込むと、膨大な参考文献がリストアップされるので、片っ端から読んでいく。「この便利さが、知性の平板化とでも呼ぶべき状態を引き起こしているような気がしてならない。」「かつて、文献情報というのは、経験的に身につけるにしても参考文献をたどるにしても、時系列的に、ある程度の歴史的経緯を伴いつつ、個人の中に蓄積されていくものであった。いわば進化を逆にたどるようなものであるから、意識せずとも、研究のおおきな流れや重要な分岐点が立体的に刻まれていった。そして暗黙知が形成されていった。」「しかし、すでに存在する情報を学ぶ、というのと、時系列をおいながら情報を獲得していくのとは相当に違う。」「フラットな検索は、結果として、ところどころ穴のあいたパッチワークのような知識構築になりかねない。」
このあたり(自分自身が研究者ではなくて)研究支援とか研究者教育にかかわっている人には、ぜひ一読してほしいと思う。不便な昔に戻ればいいという問題ではなく、「便利さ」を知性の平板化に落ち込まないように使いこなしていくにはどうしたらよいのか、重要な課題である。
集団的自衛権の行使容認、学校教育法の改定など「あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導くはずのこれらの政策に国民の40%以上が今でも『支持』を与えて」いるのは何故か。国民の知性が総体として不調になっているのではないか、という認識が、本書の出発点にある。先行する類似の研究に、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003)という文献があることは、本書を媒介に初めて知った。しかし、内田氏が述べているように、アメリカ人の国民感情の底に伏流する反知性主義と、現代日本の反知性主義は「かなり異質なもののような気が」私もする。
それはさておき、現代日本の反知性主義・反教養主義について考えようという共同研究の誘いに賛同し、白井聡、高橋源一郎、赤坂真理、平川克美、小田嶋隆、名越康文、想田和弘、仲野徹、鷲田清一の9名による、視点もスタイルもさまざまな寄稿によって成り立ったのが本書である。ただし「(日本の)反知性主義」の特徴や来歴を詳しく解説しているのは、冒頭の内田氏と次の白井聡氏くらいだ。反知性主義者について語っても、彼らがそれを読むとは思えないので、虚しいところがあるのは否めない。
むしろ面白かったのは、寄稿者たちが考える「知性とは何か」という答えの豊かなバラエティである。内田樹氏は、カール・ポパーを引いて説く。個人がいかほど知性的であろうと念じても、人は知性的であることはできない、知性は「社会的あるいは公共的」なかたちでしか構築されない。しかしまた、同時代に多くの賛同者を得たというだけでは「社会的・公共的」であると言うことができない。未来の読者たちとの協働の営みを想像する頭脳の働きこそが知性であり、「時間の中でその真理性がしだいに熟してゆくような言明」を「知性的」と呼びたい。ここでは、歴史の中におのれを位置づける想像力が、知性と深く関わりづけられている。
一方、高橋源一郎氏は、鶴見俊輔が小学生の息子に「自殺をしてもいいのか?」と聞かれて、「二つの場合にはしてもいい」と即答し、戦争に引き出されて敵を殺せと命じられたとき、それから、女を強姦したくなったとき、と答えたというエピソードを引いて、回答の「速さ」に瞠目する。どうして、こんなに速く答えられるのか。それは、鶴見が「どこかにある正しい回答」を探すのではなく、自分の身心を一種の「メートル原器」にしているからだ、と解説する(ここで鶴見の学んだ「プラグマティズム」が、アメリカで南北戦争の惨禍を背景に生まれた、という注釈が入る)。この世界には「深さ」よりも「速さ」を必要とする問題もある。そして(誰もついてこられないような)思考の「速さ」は、必然的にその人を「孤立」に追いやる。
内田氏と高橋氏の「知性」の定義は、一見正反対のようにも見えるが、どちらも確実に「知性」の一面を抉っていると思う。また、名越康文氏は内田樹氏との対談で、実体験を踏まえて語る。33歳くらいになって、自分には圧倒的に知性が欠けていると気づき、猛然と読書を始めたこと。教養主義や知性主義は「みんな知っていることを俺だけ知らない」という焦燥感から発動するが、その焦燥感が訪れる時期は人によって異なり、高校生だったり、大学生だったり、30過ぎてからだったりする。それは「負けず嫌い」ではない。競争とは違う渇望状態。そして、知らないことを学ぼうとすると、なんとなく健康状態がよくなる。知識を獲得すると「いいこと」があるわけではなく、獲得したいなあと思うだけで心身の調子がよくなる。「初恋の感覚に近いかもしれない」という表現に微笑みながら共感した。
映画監督の想田和弘氏は、「台本至上主義」がいかに反知性的かを語り、知性とは、到達した地点にしがみつくことなく、いつでも捨て去る勇気を持つことだと説く。作り上げては壊し、作り上げては壊していく不断の運動の中にしか知性は宿らない。いい言葉だ。鷲田清一氏は、知性とは、それを身につければ世界がよりクリアに見えてくるというものではなく、むしろ世界を理解する補助線あるいは参照軸が増すことで、世界の理解はますます複雑になるという。複雑さに堪えきれる耐性を身につけていることが「知性的」であるという意味なのだ。こうして並べていくと「知性的」であることは、しんどい、面倒くさいことばかりである。目に見える利得はあんまりない。それでも多くの人間は、知性に「恋をする」ように作られていたと思うのだけど、そこが不調になっているのは何故なのかなあ。
ちょっと異色だったのは仲野徹氏の論考。生命科学の研究者である著者は、高度な研究機器の開発、インフラ整備、情報や知識の膨大化によって、科学研究における知性的な活動が著しく低下してきたと語る。薄々そうではないかと思っていたことが、現場の研究者の発言で裏付けられて、やっぱり、という感じだった。多くの実験がキット化されることで、原理が分かってなくても実験ができてしまう。ビッグデータの網羅的な解析が可能になると、研究は、考え抜いてピンポイントで釣り糸をたらす一本釣りでなく、ごそっと底引き網で獲っていくトロール漁業化する。そんな研究は面白くないが、やらねば競争に負けてしまうので、やらざるをえない。ううむ…。論文を一流雑誌に掲載するために必要なデータ量は、20~30年前の4~5倍になり、その分、論文執筆の機会(深く考える機会)が減っている。
それから、データベースにキーワードを打ち込むと、膨大な参考文献がリストアップされるので、片っ端から読んでいく。「この便利さが、知性の平板化とでも呼ぶべき状態を引き起こしているような気がしてならない。」「かつて、文献情報というのは、経験的に身につけるにしても参考文献をたどるにしても、時系列的に、ある程度の歴史的経緯を伴いつつ、個人の中に蓄積されていくものであった。いわば進化を逆にたどるようなものであるから、意識せずとも、研究のおおきな流れや重要な分岐点が立体的に刻まれていった。そして暗黙知が形成されていった。」「しかし、すでに存在する情報を学ぶ、というのと、時系列をおいながら情報を獲得していくのとは相当に違う。」「フラットな検索は、結果として、ところどころ穴のあいたパッチワークのような知識構築になりかねない。」
このあたり(自分自身が研究者ではなくて)研究支援とか研究者教育にかかわっている人には、ぜひ一読してほしいと思う。不便な昔に戻ればいいという問題ではなく、「便利さ」を知性の平板化に落ち込まないように使いこなしていくにはどうしたらよいのか、重要な課題である。