○東京国立博物館・表慶館 特別展『コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流』(2015年3月17日~5月17日)
何も予習をせずに出かけたので、「コルカタ」というのが「カルカッタ市」のことであるというのを、さっきまで知らなかった。Wikiによれば「かつては英語圏では英語化された音でカルカッタ (Calcutta) と呼ばれた。(略)コルカタと言う呼称は現地の言葉であるベンガル語での呼称で、カルカッタにあたる発音とは無縁であった。2001年には正式にコルカタに変えられたが、世界では英語綴りがまだ使われている」そうだ。世界はどんどん変わっていく。
本展では、コルカタのインド博物館が所蔵する仏教美術の優品によって、インド仏教美術のあけぼのから1000年を超える繁栄の様子をたどる。紀元前2世紀(釈迦の誕生以前)に始まり、マトゥラーとガンダーラで仏像が生まれ(1世紀頃)、土着の信仰を取り込んだ多様な尊格が生まれ、9~10世紀頃には密教が興盛する。実は「マトゥラー仏」「ガンダーラ仏」といい、「クシャーン朝」「グプタ朝」といっても、東アジアの歴史ほど、きちんと頭に入っていないので、あらためて時代を確認しながら見ていく。
会場の冒頭には、時代順を無視して、5世紀の仏立像(グプタ朝、サールナート)。身体に密着した薄い衣、温もりを感じさせる茶色い砂岩。マトゥラー仏かな?と思ったが、マトゥラーでは身体に密着した衣に波紋状の襞を彫り出すのに対し、無紋とするのはサールナート仏の特徴だそうだ。広い額。弓形の眉。やや厚い唇。簡潔な中に、気品と精神性が表現されている。この展覧会でも随一の優品。
古い本生譚や仏伝図に基づく浮彫りや彫刻を見て行くと、その文学的な想像力の豊かさに引き込まれる。それから、釈迦も神々も本当に美しい肉体をしている。痩せ過ぎず、太り過ぎず、過剰な筋肉を誇ることもない。理想の精神を可視化するには、こういう身体が必要と考えられていたのは重要なことだと思う。
マトゥラー仏の典型だという仏坐像は、ほがらかで若々しく、みずみずしい姿をしている。脇侍も天女も、台座の下の供養人(?)も、顔いっぱいに笑みを浮かべ、何か話しかけたそうにこちらを見ている。一方、クシャーン朝の弥勒菩薩坐像は、ガンダーラ風の黒っぽい片岩に彫られている。立派な口髭をたくわえ、腹の弛みがリアル。長髪を複雑に結い上げ、厚い胸に装飾品を垂らす。富も教養も備えた中年男の色気が漂う。
このへんまで、インドの仏像はやっぱり違うなあ、という印象だったが、密教仏のセクションに入ると、急に親しみが増す。日本の観音や文殊とは似ても似つかない姿(女性のように胸が大きかったり、腰高で脚が長かったり)なのだが、それでもやっぱり似ている。日本の仏像のルーツはここにあるという感じがした。
カッコいいなあと思ったのは摩利支天像。四面八臂。正面から見える顔は三面で、向かって右はイノシシの顔である。摩利支天は陽炎を神格化したもので、太陽の前にあり姿を見ることができないという。急に『風林火山』の山本勘助が摩利支天を信仰していたこと、主君の武田信玄を日輪に譬えていたことを思い出してしまった(2007年の大河ドラマの話)。
めったに使わない音声ガイドを借りたのは、「インド仏像大使」みうらじゅん&いとうせいこうのトークが聴きたかったから。言いたい放題のことを言っているようで、解説の急所は外していない。さすがの見仏コンビ。しかし、オリジナルグッズを楽しみに行ったのに「ロータス・ピローカバー」は品切れ(追加生産待ち)だった。
※参考:「諸説オッケー」で楽しもう 「インドの仏」展 みうらじゅんさん&いとうせいこうさんと巡る(日経新聞 2015/3/20)
あとは恒例『博物館でお花見を』(2015年3月17日~4月12日)に注意しながら常設展示を見る。庭園開放は4月19日までだが、花は梢の先を除き、ほとんど残っていなかった。親と子のギャラリー『美術のくにの象めぐり』(2015年4月7日~5月17日)はインドの仏に合わせたのだろうか。それともサントリー美術館で公開中の伊藤若冲『象と鯨図屏風』に合わせた?
何も予習をせずに出かけたので、「コルカタ」というのが「カルカッタ市」のことであるというのを、さっきまで知らなかった。Wikiによれば「かつては英語圏では英語化された音でカルカッタ (Calcutta) と呼ばれた。(略)コルカタと言う呼称は現地の言葉であるベンガル語での呼称で、カルカッタにあたる発音とは無縁であった。2001年には正式にコルカタに変えられたが、世界では英語綴りがまだ使われている」そうだ。世界はどんどん変わっていく。
本展では、コルカタのインド博物館が所蔵する仏教美術の優品によって、インド仏教美術のあけぼのから1000年を超える繁栄の様子をたどる。紀元前2世紀(釈迦の誕生以前)に始まり、マトゥラーとガンダーラで仏像が生まれ(1世紀頃)、土着の信仰を取り込んだ多様な尊格が生まれ、9~10世紀頃には密教が興盛する。実は「マトゥラー仏」「ガンダーラ仏」といい、「クシャーン朝」「グプタ朝」といっても、東アジアの歴史ほど、きちんと頭に入っていないので、あらためて時代を確認しながら見ていく。
会場の冒頭には、時代順を無視して、5世紀の仏立像(グプタ朝、サールナート)。身体に密着した薄い衣、温もりを感じさせる茶色い砂岩。マトゥラー仏かな?と思ったが、マトゥラーでは身体に密着した衣に波紋状の襞を彫り出すのに対し、無紋とするのはサールナート仏の特徴だそうだ。広い額。弓形の眉。やや厚い唇。簡潔な中に、気品と精神性が表現されている。この展覧会でも随一の優品。
古い本生譚や仏伝図に基づく浮彫りや彫刻を見て行くと、その文学的な想像力の豊かさに引き込まれる。それから、釈迦も神々も本当に美しい肉体をしている。痩せ過ぎず、太り過ぎず、過剰な筋肉を誇ることもない。理想の精神を可視化するには、こういう身体が必要と考えられていたのは重要なことだと思う。
マトゥラー仏の典型だという仏坐像は、ほがらかで若々しく、みずみずしい姿をしている。脇侍も天女も、台座の下の供養人(?)も、顔いっぱいに笑みを浮かべ、何か話しかけたそうにこちらを見ている。一方、クシャーン朝の弥勒菩薩坐像は、ガンダーラ風の黒っぽい片岩に彫られている。立派な口髭をたくわえ、腹の弛みがリアル。長髪を複雑に結い上げ、厚い胸に装飾品を垂らす。富も教養も備えた中年男の色気が漂う。
このへんまで、インドの仏像はやっぱり違うなあ、という印象だったが、密教仏のセクションに入ると、急に親しみが増す。日本の観音や文殊とは似ても似つかない姿(女性のように胸が大きかったり、腰高で脚が長かったり)なのだが、それでもやっぱり似ている。日本の仏像のルーツはここにあるという感じがした。
カッコいいなあと思ったのは摩利支天像。四面八臂。正面から見える顔は三面で、向かって右はイノシシの顔である。摩利支天は陽炎を神格化したもので、太陽の前にあり姿を見ることができないという。急に『風林火山』の山本勘助が摩利支天を信仰していたこと、主君の武田信玄を日輪に譬えていたことを思い出してしまった(2007年の大河ドラマの話)。
めったに使わない音声ガイドを借りたのは、「インド仏像大使」みうらじゅん&いとうせいこうのトークが聴きたかったから。言いたい放題のことを言っているようで、解説の急所は外していない。さすがの見仏コンビ。しかし、オリジナルグッズを楽しみに行ったのに「ロータス・ピローカバー」は品切れ(追加生産待ち)だった。
※参考:「諸説オッケー」で楽しもう 「インドの仏」展 みうらじゅんさん&いとうせいこうさんと巡る(日経新聞 2015/3/20)
あとは恒例『博物館でお花見を』(2015年3月17日~4月12日)に注意しながら常設展示を見る。庭園開放は4月19日までだが、花は梢の先を除き、ほとんど残っていなかった。親と子のギャラリー『美術のくにの象めぐり』(2015年4月7日~5月17日)はインドの仏に合わせたのだろうか。それともサントリー美術館で公開中の伊藤若冲『象と鯨図屏風』に合わせた?