○東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく:史料が語るとっておきの42話』(中公新書) 中央公論新社 2014.12
東京大学には、学部・研究科(大学院)のほかに「附置研究所」と呼ばれる組織がある。史料編纂所は「研究所」と名乗ってこそいないけれど、この「附置研究所」のひとつである。というより、書店あるいは歴史好きの人間の印象で言えば、『大日本史料』『大日本古記録』という史料集を営々と(←この古めかしい形容詞がぴったり!)編纂し、刊行し続けている組織である。
本書は、史料編纂所に所属する42名の研究者が、それぞれの専門分野から、とっておきのトピックについて執筆した短編エッセイ(5ページ)のアンソロジーである。どこからお読みいただいても結構、というのが、所長の久留島典子先生のお言葉であるが、内容は「文書を読む、ということ」「海を越えて」「雲の上にも諸事ありき」「武芸ばかりが道にはあらず」「村の声、町の声を聞く」という四つの章に分類されている。
個人的には、「海を越えて」(対外交流史)の章がいちばん面白かった。冒頭は田島公氏の「鳥羽宝蔵の『波斯国剣』」。鳥羽宝蔵とは、鳥羽上皇が建てた勝光明院の宝蔵のことだが、ここに「波斯(ペルシャ)国剣」と注記される「剣一柄」が収蔵されていたというのである。ええ~!! 著者は、杉本直治郎氏の説により、真如親王(高丘親王)が長安で入手し、帰国する日本人僧に託した剣(ペルシャ起源で、スキタイ人が好んだ両刃の短刀)ではないかと推測する。同時期、仁和寺宝蔵には、インド製の杖剣も伝えられており、「平安時代の天皇家の宝蔵は、実に国際色豊かであった」という結びの文が放つ香気にあてられ、うっとりした。
須田牧子氏の「杭州へのあこがれ、虚構の詩作」は、明に向かった日本の朝貢使節団が、杭州観光にどれだけ執着していたかを物語る。歌詠みにおける「歌枕」の伝統と比較しているのは、達見。なお、サラリと流されていた「日本の朝貢使節団同士が喧嘩して寧波の町を焼失させた、1523年の寧波の乱」という事件を私は知らなくて、え?と本文を二度見してしまった。受けた教育の所為だけにはできないが、近世以前の日本が、周辺地域とどのような「対外交流」を持っていたかという点は、私の学生時代、あまり重視されていなかったように思う。
だからこそ、この「海を越えて」の章に収められたエッセイは、どれも面白かった。「16世紀末のリスボン市内の教会記録で、日本人の婚姻登録が少なくとも四件以上確認されている」とか、16世紀の大友宗麟が所有したフランキ砲が大阪城に保管されており、幕末に蝦夷地防衛のため持ち出したところ、ロシア艦に奪われ、最近、ロシア国立軍事史博物館で200年ぶりに「発見」されたなど、この国と世界の歴史が、何か従来と違った顔で立ち現れてくる感じがして、わくわくと心躍った。
ほかの章から印象に残ったエッセイを紹介すると、源頼朝と岩窟(洞窟)のかかわりの深さに着目し、その背景に「中世の日本に広く存在した洞窟に対する信仰があった」と考える一篇。ほんとかなあ。また、中世の薬師寺の寺僧には、唐招提寺に出向する者がいて、薬師寺は唐招提寺の運営に一定の影響力を持っていた。へええ。唐招提寺には、黒衣僧(遁世僧)と白衣僧(官僧)がいて、薬師寺の白衣僧(官僧)は地域社会の検断権(治安警察権)を握っていたが、罪を得てに落とされた人々を保護・救済することは黒衣僧(遁世僧)の役目だった。この件、興味深いので、もう少し詳しく知りたい。著者の及川亘さん、早く一般向けの本を書いてくれないかな。待っている。
東京大学には、学部・研究科(大学院)のほかに「附置研究所」と呼ばれる組織がある。史料編纂所は「研究所」と名乗ってこそいないけれど、この「附置研究所」のひとつである。というより、書店あるいは歴史好きの人間の印象で言えば、『大日本史料』『大日本古記録』という史料集を営々と(←この古めかしい形容詞がぴったり!)編纂し、刊行し続けている組織である。
本書は、史料編纂所に所属する42名の研究者が、それぞれの専門分野から、とっておきのトピックについて執筆した短編エッセイ(5ページ)のアンソロジーである。どこからお読みいただいても結構、というのが、所長の久留島典子先生のお言葉であるが、内容は「文書を読む、ということ」「海を越えて」「雲の上にも諸事ありき」「武芸ばかりが道にはあらず」「村の声、町の声を聞く」という四つの章に分類されている。
個人的には、「海を越えて」(対外交流史)の章がいちばん面白かった。冒頭は田島公氏の「鳥羽宝蔵の『波斯国剣』」。鳥羽宝蔵とは、鳥羽上皇が建てた勝光明院の宝蔵のことだが、ここに「波斯(ペルシャ)国剣」と注記される「剣一柄」が収蔵されていたというのである。ええ~!! 著者は、杉本直治郎氏の説により、真如親王(高丘親王)が長安で入手し、帰国する日本人僧に託した剣(ペルシャ起源で、スキタイ人が好んだ両刃の短刀)ではないかと推測する。同時期、仁和寺宝蔵には、インド製の杖剣も伝えられており、「平安時代の天皇家の宝蔵は、実に国際色豊かであった」という結びの文が放つ香気にあてられ、うっとりした。
須田牧子氏の「杭州へのあこがれ、虚構の詩作」は、明に向かった日本の朝貢使節団が、杭州観光にどれだけ執着していたかを物語る。歌詠みにおける「歌枕」の伝統と比較しているのは、達見。なお、サラリと流されていた「日本の朝貢使節団同士が喧嘩して寧波の町を焼失させた、1523年の寧波の乱」という事件を私は知らなくて、え?と本文を二度見してしまった。受けた教育の所為だけにはできないが、近世以前の日本が、周辺地域とどのような「対外交流」を持っていたかという点は、私の学生時代、あまり重視されていなかったように思う。
だからこそ、この「海を越えて」の章に収められたエッセイは、どれも面白かった。「16世紀末のリスボン市内の教会記録で、日本人の婚姻登録が少なくとも四件以上確認されている」とか、16世紀の大友宗麟が所有したフランキ砲が大阪城に保管されており、幕末に蝦夷地防衛のため持ち出したところ、ロシア艦に奪われ、最近、ロシア国立軍事史博物館で200年ぶりに「発見」されたなど、この国と世界の歴史が、何か従来と違った顔で立ち現れてくる感じがして、わくわくと心躍った。
ほかの章から印象に残ったエッセイを紹介すると、源頼朝と岩窟(洞窟)のかかわりの深さに着目し、その背景に「中世の日本に広く存在した洞窟に対する信仰があった」と考える一篇。ほんとかなあ。また、中世の薬師寺の寺僧には、唐招提寺に出向する者がいて、薬師寺は唐招提寺の運営に一定の影響力を持っていた。へええ。唐招提寺には、黒衣僧(遁世僧)と白衣僧(官僧)がいて、薬師寺の白衣僧(官僧)は地域社会の検断権(治安警察権)を握っていたが、罪を得てに落とされた人々を保護・救済することは黒衣僧(遁世僧)の役目だった。この件、興味深いので、もう少し詳しく知りたい。著者の及川亘さん、早く一般向けの本を書いてくれないかな。待っている。