見もの・読みもの日記

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修行と自由/なにわの華 文楽へのいざない(桐竹勘十郎)

2014-05-26 23:28:26 | 読んだもの(書籍)
○桐竹勘十郎『なにわの華 文楽へのいざない:人形遣い 桐竹勘十郎』 淡交社 2014.5

 桐竹勘十郎さんと吉田玉女さんの『文楽へようこそ』を読んだあと、近所の書店で本書を見つけた。よく似たサイズ、装丁で並んでいたので、一瞬、シリーズ化したのかと思ったが、あちらは小学館、こちらは淡交社で、全くの偶然のようだ。しかし、美しい写真満載で、文章も読みやすい文楽の案内書が、立て続けに出版されるとは、慶賀すべきことである。

 本書は、三世桐竹勘十郎さんの写真とインタビューで構成されている。写真は、比較的最近(2009年~2014年)の公演のもので、勘十郎さんのインタビューをもとにした演目・役柄の解説つき。撮影はヒロセマリコさん。ヒロセさんの「あとがき」によれば、勘十郎さんを撮りたくて、意を決して住大夫師に相談したところ、一言「勘十郎はええ」とおっしゃって、仲介を諾ってくださったという。

 勘十郎さんは目が大きいので、視線の向きがはっきり分かる。舞台上では、顔は客席に向けていても、厳しい視線は自分が遣う人形の頭や手元を注視していることが多い。私は強度の近眼(最近は老眼も)のため、舞台をいい加減に見ていることが多いので、こういう写真を前にすると、文楽人形の着物のふくらみやたるみ、皺(しわ)、襞(ひだ)、髪の乱れなどが形づくる繊細な表現にあらためて魅入られる。あと、何と言ってもキツネを遣う勘十郎さんというか、勘十郎さんに遣われる(懐いているw)キツネのあやしいツーショット。勘十郎さんは狐ものが大好きで、狐の人形は「MY狐」を持っていらっしゃるそうだ。

 本文「勘十郎ばなし」では、1953年、二世桐竹勘十郎の長男に生まれて、今日までの半生を淡々と語っている。これが、いろいろ考えさせられて面白い。中学二年生のとき、人手不足の文楽芝居の手伝いに駆り出されたのが始まり。いくら「学校が終わってから」とはいえ、今の文楽協会がこんなことをしたら大問題だろう。

 学校が嫌いで勉強ができなかった、のちの勘十郎、宮永くんは、中学を卒業すると人形遣いになりたいと言い出す。父は即座に「蓑助とこ行け」と言う。「私がそのとき(蓑助)師匠の立場ならぜったい断ったでしょうね」と勘十郎師。兄弟子の子を預かった以上、一人前にして世に出さなければならない。しかし、その子は、やることなすこと遅くてグズい、いじめられて泣いて帰ってくる「ほんまにアカン子」だったのだから、蓑助師匠の困惑はいかばかりだったろう。ああ、こういう覚悟で「弟子」を引き受ける師弟関係がまだ生きていたんだ、と感慨深かった。

 師匠は「教えない」タイプです、だいたい昔は「教える」ということをしませんでした、と勘十郎師は語る。見て盗めと言われ、「人が怒られてるときは、忙しいても一瞬立ち止まって聞け。他人が褒められているのは聞かんでええ」とか、含蓄に富む言葉、エピソードが並ぶ。ひとつずつ登っていかないとだめなのです。いきなり三つぐらい向こうを狙ってはいけません、というのも胸にひびく言葉だった。

 実は、私が勘十郎さんの存在を意識したのはすごく遅い。三世桐竹勘十郎を襲名なさった2003年前後は(文楽の人気沸騰し、急に国立劇場のチケットが取りにくくなり)観劇から少し遠ざかっていた。その前の吉田蓑太郎の時代は、ときどきチラシやプログラムにイラストを描いていらしたので、へえ、絵のうまい人形遣いさんがいるんだ、という程度の認識しかなかった。ほぼ同期スタートの吉田玉女さんの印象は記憶に残っているのに、である。

 いや、師匠のみなさんは、勘十郎さんの才能をもっと早くから見抜いていたのかもしれないが、グズで泣き虫のアカン子が、失敗を重ね、先輩師匠に叱られながら、「人形を遣うことが好き」だけを支えに、日本の宝になれるということにしみじみ驚嘆した。何というか、本当に日本が「取り戻す」べき教育と社会のありようって、こういうものじゃないかしら。

 「勘十郎ばなし」の後半には、文楽振興のために続けている、さまざまな努力が語られていて、これも面白かった。海外では、公演だけでなく、UNIMA(国際人形連盟)主催のセミナーで、世界中から集まる学生に実技指導もしているという。いまの国立文楽劇場の場所から移転した大阪市立高津小学校では「高津子供文楽」を続けていて、ここからプロになったのが咲寿大夫さん。おお、知らなかった! さらにNHK・Eテレの『にほんごであそぼ』に出演し、子供向けの新作をつくり、「杉本文楽」に参加し…。息つく暇もなさそうだが、たぶん勘十郎師は、人形遣いのどんな仕事も楽しく感じておいでだろう。

 こんなふうに自由で幸せで脂の乗った還暦は、なかなかいないと思う。それというのも、ひたすら先輩師匠の背中を追って、「足十年、左十年」という研鑽につとめてきたからで、60歳定年退職後の自由を指折り数えて夢見ているだけの自分を、かなり反省させられた。
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