見もの・読みもの日記

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創作よりも/永遠の0(ゼロ)(百田尚樹)

2014-05-22 23:20:35 | 読んだもの(書籍)
○百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』(講談社文庫) 講談社 2009.7

 同時代作家の書く小説をほとんど読まない私にとって、本当なら「どうでもいい」作品だった。だが、風聞で伝わってくる著者の言動が、いちいち私の癇に障る。現役の総理と共著で出した本のタイトルが『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』って、よほどの馬鹿か、露悪趣味の悪童としか思えない。

 これだけ自分と趣味の合わない作家だと、一体どんな作品を書いているのか、かえって興味が湧いてきた。書店で本書をチラとめくってみて、おや、氏の文章は「読める」という直感を得た。どんなに思想的に共感していても、文体を受け付けない作家というのもいるのだが。しばらく考えたのち、エイと勢いで買って、本書を読み始めた。う~む、面白いじゃないか…。

 主人公、というよりも、狂言回しとして登場するのは、現代に生きる若い姉弟。フリーライターの姉と、司法試験浪人で26歳になる弟。終戦から60年目の夏、二人は「実の祖父」について調べ始める。祖母の最初の夫、大正8年生まれの宮部久蔵は、昭和20年、終戦の数日前に神風特別攻撃隊員として戦死していた。残された妻は再婚し、宮部の娘を育て上げた。これが姉弟の母に当たる。

 戦争のことも特攻隊のことも何も知らない姉弟は、祖父の戦友たちを訪ね歩き、話を聞く。最初は、戦闘機乗りにあるまじき臆病者と思われた宮部が、妻子のもとに「生きて帰る」ために、ストイックな鍛錬を重ねていた勇者であることが次第に分かってくる。しかし、日本軍は、無能で無責任な大本営、幕僚、指揮官たちのせいで敗戦を続け、追い詰められていく。ついに特攻命令を受けた宮部は、生きて帰るチャンスがあったかもしれない飛行機を同僚に譲り、飛び立っていった。

 宮部久蔵は、はじめ、ほとんど個性のない、わずか26年の閲歴情報として、読者の前に現れる。最初の情報提供者は、常に命を惜しんでいた宮部を「海軍航空隊一の臆病者」と罵倒し、孫たちを落胆させる。いったん地に落ちた宮部の評価が、ここからじわじわ上がっていくのが小説の読みどころだ。セオリーどおりだけれど、巧い。そして、いつしか主人公は、読者が憧憬のまなざしで見上げる「英雄」に変身しているのである。

 ただ、私が本書を楽しみながら読んだのは、著者が仕掛けた創作部分かというと、そうではないような気がする。私は、第二次世界大戦前後の日本の飛行機に強い関心を持った時期があって(作り手にも乗り手にも)、柳田邦男の『零式戦闘機』『零戦燃ゆ』、前間孝則の『ジェットエンジンに取り憑かれた男』等々、ずいぶん読んだ。だから、本書の中に坂井三郎や西澤廣義、笹井醇一みたいな実在のエースパイロットの名前やエピソードが登場すると、それだけで懐かしくて、嬉しくなってしまった。実は読み終えて、一番ありありと瞼に浮かぶのは、主人公・宮部久蔵のいかなる場面でもなく、出血多量による意識喪失を繰り返しながら、奇跡の帰還を果たした坂井三郎の鬼神のような姿だったりする。さらに感動的なクライマックスで、宮部が繰り出す技が「左捻り込み」だったときは、涙が引っ込んで、つい笑ってしまった。

 特攻隊員をカッコよく描くのは罪が重い、という批判があると聞いているが、そもそも戦闘機乗りを主人公にして、カッコ悪く描くほうが難しいだろう。私はかつて松本零士の『戦場まんがシリーズ』をリアルタイムに読んでいた世代である。あの強烈な読書体験は30年以上経っても忘れていないが、それに比べると、本書の面白さは、かなり薄味だった。ひとつには、狂言回しの若い姉弟が戦争に対してあまりに無知であり、「正義派」新聞記者の戦争認識が上滑りすぎて、これじゃカリカチュアだろう、としか思えなかったこと。これは作品の瑕疵ではないかと思うのだが、現実の若者やジャーナリストも、昨今はこんなガキばかりなのだろうか。
コメント
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