見もの・読みもの日記

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昭和の思い出/テレビ的教養(佐藤卓己)

2008-05-19 22:58:48 | 読んだもの(書籍)
○佐藤卓己『テレビ的教養:一億総博知化への系譜』(日本の「現代」14) NTT出版 2008.5

 「私が生まれた1960年、テレビが家にやってきた」の一文とともに、著者は、自分の個人史に重ねるようなかたちで、テレビの戦後史を語り始める。著者と同い年の私には、共通する記憶が、次々によみがえってくるように感じた。

 そう、私は、著者と同様、テレビっ子だった。しかし、テレビは、暇つぶしの、娯楽メディアだっただけではない。当時(今は知らないが)、小学校の教室にはテレビがあって、週に1、2回は、みんなでテレビを見る授業(社会、理科、道徳など)が行われていた。NHK教育テレビは、四六時中、教育番組をやっていたし、テレビ朝日の前身がNET(日本教育テレビ)と呼ばれていたことも覚えている。テレビといえば「娯楽」「低俗文化」と考えられるようになったのは後年のことで、元来、テレビは「教育メディア」のひとつと考えられていた。「一億総白痴化」ならぬ「一億総博知化」である。

 テレビは、学校教育のみならず、社会教育・生涯教育の観点からも大いに期待された。一方、日教組の教研集会では、旧世代の教師から、俗悪マスコミ批判が繰り返された。その間をすり抜けるように大人になった元テレビっ子としては、どちらの議論もナイーブすぎて、失笑ものだ。

 たとえば、NHKが開発し、国際標準化を目指している(いた?)ハイビジョン放送。国内市場として最も期待されたのが学校教育部門で、臨場感あふれる高精細画面の導入により、「直接体験も間接体験もこえた新しい質の体験」「学習体験の質的変化」が可能になると言われていた。おいおい、子供をナメすぎじゃないか。

 また、テレビ普及期の教師たちの、強い使命感に対して、著者は冷ややかに問いかける。「教師が子どもを『育てる』という自負心は、テレビ時代以前の感覚ではあるまいか」。ラジオ、テレビ以前、両親あるいは教師は、子どもたちに対して「社会の解釈者」であり「趣味の独裁者」であった。しかし、テレビの普及は、大人と子どもの文化的境界、知的権威を掘り崩してしまった。この傾向は、携帯端末やインターネットが子どもたちの手に渡った今日、一層強まっていると思う。

 今日、テレビはむしろ弱者のメディアである。しかし、だからこそ、テレビを「教養のセイフティ・ネット」として、もう一度見直す意味があるのではないか、と著者は説く。そうねえ。個人的には、「昭和の思い出」となりつつある「テレビ的教養」に共感はある。でも、私より下の世代は、もはや首をかしげるだけではないか、とも思う。
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