見もの・読みもの日記

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分からないことばかり/日本売春史(小谷野敦)

2007-10-30 23:03:34 | 読んだもの(書籍)
○小谷野敦『日本売春史:遊行女婦からソープランドまで』(新潮選書) 新潮社 2007.9

 「幻想ばかりの売春論に喝。」というのがオビの謳い文句である。したがって、本書の記述は、先行研究が生み出した「通説」が、いかに根拠薄弱な飛躍と偽善に満ちたものかを反証しながら進む。この方面に、さほど明るくない私にとっては、へえーこの人はこんなことを唱えていたのか、というのが勉強できて、面白かった。

 まあ確かに、古代の遊部と遊女を一緒にするなんていうのは、かなりの噴飯物である。遊女の起源が巫女であるというのも、簡単に証明できるものではない。結局、本書から、古代の遊女について我々が知り得るのは、「いろいろ勝手なことを言っている人は多いが、真実はよく分からない」という結論に尽きてしまう。

 中世以降になると、「なるほど」と納得できる点が増えてくる。ただし、それも「遊女の起源」のような大命題ではなくて、「辻子(づし)君」(小通りにある屋内で待機する女→街角に立つのは「立君」)が次第に「辻(つじ)君」に取り違えられた、などという豆知識ばかりである。

 近現代も同じ。田山花袋『田舎教師』の主人公は、廃娼県である埼玉の教師であるため、利根川を越えて娼婦を買いに行く、という記述には虚をつかれた。そんな地域差があったのか。埼玉って偽善的な地域だったんだなあ。近代初期、片や「国家の尊厳を侵す」として娼妓の存在を否定した人々(矯風会など)がおり、片や廃娼運動の独善性に批判的だった伊藤野枝や与謝野晶子がいた。この対立も興味深い。

 近世から近代にかけて、多くの日本女性が海外に出て娼婦になった。こうした平時の歴史にフタをして、戦時下の従軍慰安婦だけを批判することは、確かに、少しいびつな感じがする。逆に、唐権氏の『海を越えた艶ごと』によれば、明代までの遊里文化になじんだシナ文人たちは、清の建国によってその伝統が途絶えて以降(←ほんとか~)長崎丸山で遊女との交情を楽しんだという。一般の日中交流史には絶対乗らないエピソードだろうと思った。

 そのほか、現代のソープランドの料金システムまで、興味深いトリビアいろいろ。しかし、巻末で著者が自慢するほどの「一貫した日本売春史」にはなっていないように思う。残念ながら。
コメント
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