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見もの・読みもの日記

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戦う者たち/血涙(北方謙三)

2007-10-04 00:36:27 | 読んだもの(書籍)
○北方謙三『血涙:新楊家将』上・下 PHP研究所 2006.12 

 先日、読み終えた北方『楊家将』の続編。物語は『楊家将』の後日談である(以下ネタバレ)。楊業の死から2年後。生き残った六郎、七郎は、楊家軍の再興を志す。その頃、北辺の遼国には、記憶を失ったひとりの宋の武人が留められていた。彼は石幻果と名づけられ、蕭大后の娘・瓊峨姫に愛され、勇将・耶律休哥を師とも父とも慕う。やがて、宋国と遼国が再び干戈を交えるに至り、石幻果は、自分が楊家の四男であることを知る。苦悩の末、遼の武人として生きることを選んだ石幻果は、血を分けた兄弟たちとの激戦に臨む。

 面白かった。ただ、前作『楊家将』が、あまりにも衝撃的だったのに比べると、続編は、一定の期待を抱いて読み始めるので、よしよし期待どおりという感じである。

 私は、この続編のほうが”中国ぶり”が強いと思った。前作は最後に楊業と息子たちをカタストロフ的な悲運が襲う。これに対して続編では、楊業の長男延平のひとり息子延光とか、女武将の九妹とか、けっこう重要な人物が物語途中でバタバタと死んでいく。しかも、首が飛び、血しぶきの上がる壮烈な戦死も、淡々と片付けられ、その傍らで戦闘は続いていくのである。この恐ろしいほどの命の軽さ、死者を悼むことよりも生者のドラマを重視する態度は、たとえば『水滸伝』の後半を読んでいて感じたものに似ている。それから、破戒僧の姿でふらりと戻ってきて、石幻果(四郎)との果し合いに赴く五郎の、アクの強いキャラクターも、中国の武侠小説っぽい。

 石幻果が、楊四郎としての記憶を取り戻し、2つの国の間でアイデンティティに苦しむところは、金庸『天龍八部』の主人公のひとり、喬峯を思い出した。自分を宋人(漢民族)と思い込んで育った喬峯は、殺された両親が遼人である(しかも宋人は仇)と知って衝撃を受ける。中国中央電視台(CCTV)制作のドラマでは、喬峯は「我是契丹人」と何度もつぶやいていた。つまり、中国人の認識では、「宋」「遼」というのは国号よりも民族の違いなのである。この感覚は、日本人にはちょっと分かりにくい。

 物語は、1004年、宋と遼の和睦(澶淵の盟)をもって閉じられる。楊業の息子たちのうち、楊六郎だけが生き残るが、「もはや武門の時代ではない」ことが繰り返し語られているところからして、続々編は作られないだろう。でも、できれば北方さんに、ぜひ岳飛の時代(南宋×金)も書いてほしいと思う。

 本作は、中国の史書あるいは民間伝承にどのくらい拠っているのだろう。ほとんど著者の創作なのだろうか。楊業の長男延平の息子が延光、六郎延昭の息子が延礼、延昇となっているが、こういう(父親の名前の1字を貰う)名付け方は、中国ではアリなのか。些細なことだが、名作であるだけに気になる。

■おまけ:絶世の美女占い
http://www.cortigiana.net/uranai/index.html
 むかし、これをやってみたら、私の診断結果は『楊家将演義』や『楊門女将』に登場する女将軍、穆桂英(本作には登場せず)だった(笑)。興味があれば「穆桂英」で検索されたし。
コメント
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