見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

江戸の外交/朝鮮通信使(仲尾宏)

2007-10-10 00:48:14 | 読んだもの(書籍)
○仲尾宏『朝鮮通信使:江戸日本の誠信外交』(岩波新書) 岩波書店 2007.9

 朝鮮通信使という存在を知ったのはいつ頃だろう。少なくとも教科書で習った記憶はない。私は、徳川300年イコール鎖国の時代、という日本の歴史を教わったので、慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで、12回に及ぶ朝鮮通信使の来日があったと聞いても、しょせん人々の記憶にも残らず、正史で語る必要もない程度の、マイナーな行事であったに違いない、と思っていた。しかし、この認識は誤りで、朝鮮通信使の来日は、幕府にとって重要かつ盛大な外交イベントであり、知識人から庶民まで、多大な文化的影響を残していることが、近年、次第に分かってきた。

 本書を読んで、いちばんスリリングに感じたのは、江戸時代になって初めての通信使を迎えるまでのいきさつである。1592年の壬辰倭乱(文禄の役)と1597年の丁酉再乱(慶長の役)の記憶も新しく、朝鮮の人々には、日本に対する不信と怨恨がくすぶっていた。そんな中で、徳川新政権が行った「戦後処理」の具体的な成果が、通信使の来聘だった。このとき、国書改竄という離れ業をも辞さず、「国交回復」を主導したのは、対馬の宗氏だった。むろんそこには、「日朝貿易」の利権を命綱とする、宗氏の財政事情が絡んでいる。――なんだか、もうひとつの「戦後」における田中角栄を思い出した。

 このときの日朝国交回復に際し、ある案件に関して「政治的決着」が図られたことを、私は初めて知った。すなわち、さきの戦役で漢城府内の王陵をあばいた犯人を差し出すように求められた日本政府は、2人の青年を犯人として送致した。当初、朝鮮政府は、2人の年齢が若すぎ、真犯人とは認めがたいとしながらも、両国関係の紛糾を避けて、彼らを処刑してしまった。――今もむかしも外交って、国と国の利益のために行われるものであって、個々の人間なんて、いかようにもなる使い捨ての道具なのだなあ。また、国内の民衆を納得させるには、時間をかけた真相の追及よりも、「犯人の処刑」という目に見えるイベントが必要、という点も、妙に生々しく今日的である。

 やがて、対馬の宗氏に代わって、徳川幕府が朝鮮外交を主導する体制が作られていく。日光東照宮の参拝強要やら、文書における呼称・用語の問題、儀式次第の改変と復旧など、時にトラブルを引き起こしながら、両国は、なんとか知恵を絞って乗り切っていった。朝鮮は、日本の天皇制について、かなり正しい認識を得ていたようである。もっとも儒教の名分論の立場からは、「陪臣」である将軍が実権を握っていることも、「女帝」の存在も、理解しがたいことだようだ。こうしたことは、朝鮮通信使たちが遺した多くの日記(たいていは『海槎録』とか『東槎録』とか、それらしい名前が付いている)から知られる。

 それにしても、1811年の次は、たびたび派遣が延期され、最終的に1866年、10年後の1876年に対馬で聘礼行事を行うと取り決められたにもかかわらず、徳川政府の瓦解によって実現しなかった。つまり、明治維新の主役となった人々は、朝鮮通信使というイベントを全く体験していない世代なのだ。もしも幕末ぎりぎりに、あと一度でも通信使の来日が実現していたら、維新後の日韓関係は、違ったものになっていただろうか。

■参考:朝鮮通信使一覧(九州大・松原研究室)
http://matsu.rcks.kyushu-u.ac.jp/p/study/
13tsusinsi-kenkyu/1chousentsuusinsi/0chousentsuusinsi.html

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする