○名古屋市博物館 特別展『本丸御殿の至宝―重要文化財名古屋城障壁画―』
http://www.museum.city.nagoya.jp/
金曜日の仕事が比較的早く終わりそうだったので、思い立って名古屋まで行ってきた。例によって金曜から土曜にかけてのショート・ステイである。見たかったのは、この特別展。NHKの新日曜美術館で、チラリと会場が映ったとき、金地に勇壮な虎の図(桃山っぽい!)を見て、行きたい!と思ってしまったのだ。テレビの画面では、照明を抑えていたのか、渋い輝きを放つ金の背景が印象的だった(地の底でまどろむ黄金を思わせる)。実際の会場は、明るすぎて、金地濃彩の魅力が半減していたようにも思う。
会場の初めに飾られているのは、展覧会のポスターにもなっている『竹林豹虎図』(豹は虎の雌と考えられていた)。本丸御殿玄関の襖絵である。以下、しばらくこってりした金地濃彩が続く。障壁画の画題は「格」が決まっており、「走獣」は格の低い殿舎に用いられた。そのあとが「花鳥」「人物」だっけ? いちばん格が高いのは墨絵の「山水」だったと思う。たとえ虎好きの君主でも、自分の居室に虎の絵を描かせるってわけにはいかなかったのね。東博の特集陳列『下絵-悩める絵師たちの軌跡』を見て、御用絵師って大変だったんだ、と思ったけれど、注文主の側も何もかも自由だったわけではないのだ。
藩主と身内の対面・宴席に使われた対面所には、風俗画が描かれている(慶長造営)。市中の商店、行き交う人々、見世物、物乞い、子どもの遊びなど、江戸初期の洛中洛外図屏風を見るようで楽しい。路傍に畳半畳ほどの台を設けて髪を結っているのは、髪結いと月代剃りの商売なんだろうか、とか。農村風景の中に相撲を取っている男たちが見える、とか、興味が尽きない。
名古屋城本丸御殿は慶長19年(1614)に造営された。まさに「大阪冬の陣」の年であり、翌年が「大阪夏の陣」である。江戸時代に入り、本丸御殿は将軍家の宿所となり、寛永11年(1634)、家光を迎えるにあたって大改築が行われた。指揮に当たったのは狩野探幽。これによって、名古屋城には、桃山様式(慶長年間)と江戸初期様式(寛永年間)が直結した稀有の空間となる。
確かに、寛永造営部分の襖絵になると、印象が一変する。余白が大きく、描かれている人物や景物が小さいので、部屋が広々した感じになると思う。金の印象も淡く軽やかになる。中華料理から懐石料理に変わるくらいの大変化である。格式の違いで、枯淡な画題を選んでいるということもあるのだろうけど、時代(趣味)の変化も加わっているのではないだろうか。
障壁画には作者名や落款がないため、誰がどの作品を分担したかには議論があるそうだが、上洛殿の『雪中梅竹鳥図』は、「探幽独特の画風の出発点」とされるそうだ。なるほどね。新し”すぎる”くらい新しい。「カワイイ」と言ったら語弊があるけど、少なくとも前時代の武家好みからは、激しく逸脱していると思う。
慶長と寛永の建築様式の差異も勉強になった(前者では座敷の南側は、採光のため障子戸とする→後者では全て戸襖)。それから、さきの戦争中、空襲に備えて、襖・天井の板絵など、外せるものは解体して避難させたため、今日に残ったが、壁に描かれていた部分は失われてしまったこと。しかし、明治のガラス乾板写真や江戸以来の指図・文献(『金城温古録』)が豊富に残っているので、これらを基に、2023年完成に向けて、本丸御殿復元プロジェクトが始まっているそうである。木下直之先生の『わたしの城下町』を思い出した。
残念だったのは、表書院三之間の『麝香猫(じゃこうねこ)図』が、全て前期展示で、見られなかったこと。この部屋、四方の襖が全て『麝香猫図』なのだ。この画題、気になっているので、機会があったら改めて。
http://www.museum.city.nagoya.jp/
金曜日の仕事が比較的早く終わりそうだったので、思い立って名古屋まで行ってきた。例によって金曜から土曜にかけてのショート・ステイである。見たかったのは、この特別展。NHKの新日曜美術館で、チラリと会場が映ったとき、金地に勇壮な虎の図(桃山っぽい!)を見て、行きたい!と思ってしまったのだ。テレビの画面では、照明を抑えていたのか、渋い輝きを放つ金の背景が印象的だった(地の底でまどろむ黄金を思わせる)。実際の会場は、明るすぎて、金地濃彩の魅力が半減していたようにも思う。
会場の初めに飾られているのは、展覧会のポスターにもなっている『竹林豹虎図』(豹は虎の雌と考えられていた)。本丸御殿玄関の襖絵である。以下、しばらくこってりした金地濃彩が続く。障壁画の画題は「格」が決まっており、「走獣」は格の低い殿舎に用いられた。そのあとが「花鳥」「人物」だっけ? いちばん格が高いのは墨絵の「山水」だったと思う。たとえ虎好きの君主でも、自分の居室に虎の絵を描かせるってわけにはいかなかったのね。東博の特集陳列『下絵-悩める絵師たちの軌跡』を見て、御用絵師って大変だったんだ、と思ったけれど、注文主の側も何もかも自由だったわけではないのだ。
藩主と身内の対面・宴席に使われた対面所には、風俗画が描かれている(慶長造営)。市中の商店、行き交う人々、見世物、物乞い、子どもの遊びなど、江戸初期の洛中洛外図屏風を見るようで楽しい。路傍に畳半畳ほどの台を設けて髪を結っているのは、髪結いと月代剃りの商売なんだろうか、とか。農村風景の中に相撲を取っている男たちが見える、とか、興味が尽きない。
名古屋城本丸御殿は慶長19年(1614)に造営された。まさに「大阪冬の陣」の年であり、翌年が「大阪夏の陣」である。江戸時代に入り、本丸御殿は将軍家の宿所となり、寛永11年(1634)、家光を迎えるにあたって大改築が行われた。指揮に当たったのは狩野探幽。これによって、名古屋城には、桃山様式(慶長年間)と江戸初期様式(寛永年間)が直結した稀有の空間となる。
確かに、寛永造営部分の襖絵になると、印象が一変する。余白が大きく、描かれている人物や景物が小さいので、部屋が広々した感じになると思う。金の印象も淡く軽やかになる。中華料理から懐石料理に変わるくらいの大変化である。格式の違いで、枯淡な画題を選んでいるということもあるのだろうけど、時代(趣味)の変化も加わっているのではないだろうか。
障壁画には作者名や落款がないため、誰がどの作品を分担したかには議論があるそうだが、上洛殿の『雪中梅竹鳥図』は、「探幽独特の画風の出発点」とされるそうだ。なるほどね。新し”すぎる”くらい新しい。「カワイイ」と言ったら語弊があるけど、少なくとも前時代の武家好みからは、激しく逸脱していると思う。
慶長と寛永の建築様式の差異も勉強になった(前者では座敷の南側は、採光のため障子戸とする→後者では全て戸襖)。それから、さきの戦争中、空襲に備えて、襖・天井の板絵など、外せるものは解体して避難させたため、今日に残ったが、壁に描かれていた部分は失われてしまったこと。しかし、明治のガラス乾板写真や江戸以来の指図・文献(『金城温古録』)が豊富に残っているので、これらを基に、2023年完成に向けて、本丸御殿復元プロジェクトが始まっているそうである。木下直之先生の『わたしの城下町』を思い出した。
残念だったのは、表書院三之間の『麝香猫(じゃこうねこ)図』が、全て前期展示で、見られなかったこと。この部屋、四方の襖が全て『麝香猫図』なのだ。この画題、気になっているので、機会があったら改めて。