見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

「紙」のアドヴァンテージ/希望の書店論(福嶋聡)

2007-06-18 22:08:43 | 読んだもの(書籍)
○福嶋聡『希望の書店論』 人文書院 2007.3

 ジュンク堂池袋本店の福嶋さんの本――と書こうとして「著者略歴」を見たら、2007年4月から大阪本店の店長になられたそうだ。知らなかった。本書は、1999年から現在まで、人文書院のホームページに連載中のコラム「本屋とコンピュータ」を核に、書き下ろしを加えたものである。連載開始当初の文章を読むと、なんだか大昔の話のような気がした。8年前なんて、実生活では、つい最近のはずなのに。

 たとえば、当時の在庫データベースは前方一致でしか検索できなかったそうだ。書名の先頭にカギ括弧が来るか来ないか、”「”なのか”『”なのかで見落としが発生してしまう。外国人の著者名がカタカナで入力されているかアルファベットを使っているか、姓名のどちらが先か等、「データベースに記されたものは、入力した人の判断(や癖、趣味)によっており、恣意的と言ってもよい」状況だったという。ええ~。1999年なら、既に図書館には書誌データベースのノウハウは相当に蓄積されていたはずなのに。それを使おうとか提供しようとかいう発想は、お互いに無かったのだろうか。

 ともあれ、その後、状況は大きく変わった。近年は「インターネット」や「オープン・ソリューション」「Web2.0」などの言葉を抜きにして、書店や出版を語ることはできなくなってしまった。流通システムの変化だけでない。アマゾンやグーグルが書物のコンテンツそのものを取り込んで提供しようという動きは、本という商品形態それ自体を脅かしているとも言える。

 しかし、著者は、リアル書店で「紙の本」を売ることの意味を、なお信じるという。「新しいメディアが登場してくればくるほど、むしろ『紙の本』のアドヴァンテージが浮き彫りになってくる面もある」というのだ。この指摘は、直感的に正しいと思う。

 作家・保坂和志氏は「読書とは第一に、”読んでいる精神の駆動そのもの”のことであって情報の蓄積や検索ではない」と述べているそうだ。分かる。この「精神の駆動」こそが「読書の快楽」の本体である。そして、「精神の駆動」の装置として、「紙の本」には、ネットに勝る点があると思う。たとえば、他の機器が要らず、携帯に便利で、物理的にもコンテンツの面でも「堅牢」であること。

 それと、見識ある書店員が流通のゲートキーパーとして介在している点も、「紙の本」のアドヴァンテージなのではないか。地下鉄サリン事件のあと、オウム関連の書籍をジュンク堂がどう扱ったかという一段は、書店の責任について考えさせられ、アルゴリズムで検索順位が決まるネットの世界とは、一線を画しているように思った。
コメント
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