見もの・読みもの日記

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妖精国の終わり/逝きし世の面影(渡辺京二)

2005-09-24 00:59:39 | 読んだもの(書籍)
○渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)平凡社 2005.9

 めずらしく文庫の新刊棚をチェックしていて、本書を見つけた。オビに「読書人垂涎の名著、ペーパーバック版でいよいよ刊行!」とある。読書人垂涎の名著? そう言えば、このタイトルには覚えがある。1998年に福岡の葦書房から刊行され、1999年度の和辻哲郎賞を受けた本だから、東京の書店にも並んでいたろうし、マスコミでも取り上げられたことだろう。本書は、幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人が遺した、膨大な日記・紀行文を読み込み(未だ日本語訳がないものも多い)、まさに消えゆく寸前にあった「古き日本の面影」を再構築しようと試みた労作である。

 しかし、出版当時、私が本書を手に取らなかったのは、なんとなく胡散臭さを感じてしまったためだ。これは、素朴で美しい「失われた日本」に対する、手放しの愛惜の書ではないか。結局、「ニッポンは特殊」「ニッポンは素晴らしい」というありふれた結論に、読者を招き寄せ、愛国主義者を喜ばせるだけの本ではなかろうのか。

 そうして警戒しているうちに、本書は絶版となり、書店から消えてしまった。こうした顛末について、著者は文庫版のあとがきに、苦々し気に書きつけている。「私が日本はこんなにいい国だったのだぞと威張ったのだと思う人、いや思いたい人が案の定いた」と。それは、恥ずかしながら、まさに私のことだ。

 著者は「私は”日本”について語りたいのではない」ということを、本文中でたびたび断っている。本書の執筆意図を語った第1章には、「ある文明の幻影」という表題が付けられていて、その「文明」が、たまたま、「日本」という著者の祖国(正確には、著者は大連生まれ)に存在したものであるという事実から、著者は、注意深く距離を置こうとしている。さらに言えば、本書が論じた「ある文明」を、「江戸文明とか徳川文明」と言い換えることはあっても、大雑把に「日本文明」と括って、古代以来、この列島に、連綿とひとつの文明が続いていたかのような誤解を避けている点でも、著者の用意は周到である。

 19世紀末から20世紀の初め、日本にやってきた欧米人たちは、奇妙な文明を見出して、たちまち魅了される。住人たちは融和的で礼儀正しく、陽気で、子供のように無邪気に遊び、裸体を罪とせず、自然を愛し、簡素な生活に満足していた。そこは、全てが小さくて可愛らしい不思議の国「妖精国(エルフ・ランド)」だった。

 著者は、「自由と身分」「裸体と性」「女の位相」「子どもの楽園」など、さまざまな視点で、広範な資料を漁り、欧米人の驚きと熱狂を再現していく。しかし、それは、西洋と東洋の出会いというものではなく、むしろ、「近代」すなわち産業資本社会からやってきた旅人が、「前近代」に出会った衝撃と解すべきものであろう。「近代」と「前近代」という区分は、一方が他方より進んだもの=優れたものという意味を含まない。

 とにかく、そこには、ひとつの文明があった。そして、「近代日本」とは、前代の文明の「扼殺」の上にうち立てられた文明なのだ――言葉は厳しいが、著者はその是非を問うているのではない。ただ「逝きし世」の実体を、細部にわたり、生き生きとよみがえらせたいというのが、本書の意図なのである。

 日本の場合、明らかな王朝交代がないので意識されにくいが、古代から中世、中世から近世という変わり目も、実は、ひとつの文明の滅亡の上に、次の文明が築かれてきたのではないか。もしかすると、歴史とは、常にそういうものかも知れない、と考えた。
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