もう毎日 目が回る ほど忙しい。
音楽&オーディオ、ブログの更新、図書館(3か所)への往来、録りためたテレビ番組の視聴、ウォーキング、刻々と返却期限が迫ってくる図書の購読、そして身の回り品の買い物など・・。
優先事項がつけられないほどすべてが大切なので、今よりも倍くらいの時間があると大いに助かるんだけどなあ(笑)。
そういう中で興味を惹かれた本を2冊紹介しよう。
✰ 「歴史を変えた10の薬」
中高年で薬のお世話になっていない人はまずおるまいと思う。かくいう自分もその例に漏れず、血液がサラサラになる薬、血糖値を下げる薬など毎朝4種類ほどの薬を服用している。
とりわけ、血液がサラサラになる薬は心臓にステントを入れているので「1週間服用しないと貴方は死にますよ」と医者から脅されている(笑)。
まあ、薬というのは日頃意識することはあまりないが、身近で生死にかかわる問題だけにいくら知識があってもそれほど邪魔にはならないだろうと、新刊を見かけたらまず借りることにしている。
本書のプロローグに次のような文章があったのでご紹介しよう。
「本書全体にわたって、あなたに伝えたい教訓は次のことだ。
ひたすら いい薬 などというものはない。とにかく悪い薬というものもない。
どの薬もいいところと悪いところがある。別の言い方をすれば効果が高い薬はどれも例外なく危険を及ぼしうる副作用がある。
けれども、この(厳粛な)事実は新しい薬が市販され、熱狂的に迎えられたりすると簡単に忘れ去られてしまう。
大規模な広告キャンペーンに後押しされ、また熱心なマスコミのニュースやレポートで期待が増幅された、市販されたばかりの話題沸騰の新薬はサイゲサイクル(人名に由来)と呼ばれるものに突入する。それは(これまで)幾度も繰り返されている。
つまり、画期的な薬が市販されると、熱烈に迎えられ広く受け入れられる(これが第一段階)。
蜜月期間のあと、数年間、この新たな売り出し中の薬の危険性について数多くのネガティブなニュース記事が続く(第二段階)。昨日まで驚くべき薬だったものが今日は危険だと警告を与えられるのだ。
そして、この段階も過ぎると第三段階に突入する。その薬がほんとうにどういうものなのか、人々は冷静に理解し、バランスの取れた態度を取るようになり、薬は適度な売れ行きになり、薬の神殿の適切な位置に納まる。
そして・・・。(性懲りもなく)製薬会社がつぎの魔法の薬を発売し、前述のサイクルが再び最初から繰り返される。」
とまあ、本書は薬に対して随分醒めた見方をしているが妙に説得力のある話でもある。薬のほんとうの効果は長期間、それも数えきれないほどの人体実験をしないと判明しづらいというわけだ。
そして、現在、大いに注目しているのが「認知症」に利くという「レカネマブ」(エーザイ)・・、画期的な薬だそうだが先日のテレビ番組では「認知症は遺伝するケースが多い」といってた。
13年前に94歳で亡くなった母は88歳ごろから「認知症」になり、その悲惨さを目(ま)の当たりにしてきたので、この薬に対する期待感は大きい・・、しかし、とても88歳まで長生きする自信はないので、うれしさ半分というところかなあ~(笑)。
✰ 「釣りの名著50冊」
本書で紹介されているのは「釣り文学の傑作」ぞろいで、近年、稀に見るほどの感銘を受けた本だった。数多(あまた)の文豪の「釣り随筆」には、人生観も含めて大いに身につまされる。
というのも、若い時分に釣りに熱中していた時期があり「波止の上で死ねたら本望だ」とさえ思っていたほどの凝り性ぶりだった。
では、その中の1冊を紹介しよう。明治期の文豪「幸田露伴」(こうだ ろはん)の娘「文」(あや)が記した「鱸」(スズキ)の名文の一節をぜひ~。
「料理の腕は船頭がふるう。夕陽のなごりが明るく船上での炊事が始まるのである。文豪はいつものように一杯やり始める。そこへ、塩をぶっかけて大雑把に焼いたスズキを節くれだった漁師の手が供す。皿からはみ出す大物だ。
弟は、今しがた自分が釣りあげたばかりの尾頭付きを頬張ってうまいなあと破顔。それに続いて次のような情景描写が続く。
色の白い子が一日で陽に焼けて頬が紅く笑う。それは親の目には浸みつく顔だったようである。ただ愉快とか満足とかだけではなく、浸み入ってくるもののある表情である。
魚を食べてうまいなあと微笑む少年の心には何の翳りもないけれど”少年”というもの自体には美しさのかなしさ、詩の哀しさのようなものがある。
少年の笑顔は親の心の奥底に映像として刻印され、それは単に美しいだけではなくて哀しささえにじませている。
そして、そのすぐ後に突然、次のような文章が立ち上がる。
”父は何度この話をしたろう”・・、あの可愛い少年は結核のために20歳で先立ってしまっていたのである。露伴59歳のときだ。
それからというもの、老後の文豪は娘の文(あや)にこのスズキ釣りの話を何度も何度も語り聞かせるようになったのである。随筆の最後は次のように終わる。
少年の姿が可愛いのか、父親の心が哀しいのか、釣られる魚がいとおしいのか、供をする船頭が辛いのか、水が切ないのか、船が寂しいのか、・・いちばんはっきりわかっていることは、父は息子を可愛がっていてそれに先立たれたということである」
「ものの哀れ」もここに極まれり、でしょうか・・。
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