10日前(9日付け)に投稿した「音楽家とオーディオの希薄な関係」だが、今年最大のヒット作となって反響が大きかったのはすでに述べた通り。
といっても、すでに忘却の彼方にあり、どれだけの方が覚えておられるかな・・(笑)。
かいつまむと、指揮者や演奏家などの音楽家は練習時間が多すぎて音楽をゆったり楽しむ暇がなく自宅でもオーディオを必要としないという内容だった。
そして、文中の中で実例としてこういうことを記載していた。
「身近な例をあげると、桐朋学園を卒業後渡独して指揮者「チェリビダッケ」の薫陶を受けた高校時代の同窓生をはじめ、プロと称される音楽家でオーディオに熱心な事例を未だ見聞したことがない。」
で、その該当する高校時代の同窓生を仮にO君としておこう。福岡で「音楽教室」を主宰しているその「O君」からつい先日メールが届いたのには驚いた。10年ぶりぐらいだろうか・・。
「〇〇くん、ご無沙汰いたしております、福高17回生のOです。何年振りかで音楽ブログ・ランキングを開いてみたら、貴君が不動の〇位を続けておられて驚かされました。素晴らしいですね!!
書かれている内容を読んで、欧州留学の第一歩をしるしたザルツブルグからウィーンに移り住んだ9月の下旬に、西日本新聞の依頼を受けた寄稿文をいくつかの短い文章にして書き送った事を思い出しました。
それらは10月中旬に一括して<文化欄>に掲載されたのですが、その中で〇〇くんの書かれていることに関連する部分を抜粋してお送りします。これが私なりの<答え>になるのではないかと思い、PDFを添付するとともに、以下に文章をペーストしておきます。
熱狂を読んだ小澤征爾 ーザルツブルグ音楽祭ーより抜粋)
なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にも咳一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。
それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。
マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。
この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。」
というものでした・・。
オーディオだけで音楽的感性を養っている身にとっては、非常に考えさせられる内容ですね・・。
畢竟(ひっきょう)「生の音楽」に比べると「オーディオ」は「箱庭」の世界かもしれない。
つまり、家庭でどんなに大型スピーカーや高級オーディオを揃えようと所詮は「五十歩百歩」・・。
とはいえ、長年親しんだ趣味であり、理屈抜きで生活の中に深く沁み込んでいるので今さら止めようがないし、止めるつもりもない。
むしろ、ほんの小さな音質の差にこだわり、微妙な差をかぎ分ける楽しみだってある・・、いわば「壺中の天」である。
ただし、O君のような現実論を脳裡の片隅に置いておくことは必要なことに違いない。
と、あれこれ物思いに耽るのに相応しい秋の好日が続く・・。