「広大で深いその森…」
アラントンのガーデンでは、様々な野菜とともに多くの果物も栽培している。ストロベリーやリンゴなど、その季節になると、もう、ふんだんに採(と)れる。農薬を一切使用しない完全オーガニックやから、めちゃ美味(おい)しいよ。
いつだったかなあ、女房のキャロラインさんが「ブルーベリーを食べると眼がよくなるわよ」と、摘(つ)み取ったばかりを何粒かくれた。
それらを口に含み、しっかり飲み込んだあと、彼女の顔をしげしげと見てから云っちゃった…
「キャロラインさんって、へぇー、いやぁー、美人だったんだねえ…」
目の衰(おとろ)えはあまり感じない。文庫本も含め、この歳になって本を読むのに眼鏡(めがね)が必要ないのは有難い。
音楽と共に、読書は、日々の暮らしの中で、いや、人生に於(お)いて、かなり重要な柱です。やや大袈裟(おおげさ)かも知れないけど、音楽と読書が、我が人生最大の楽しみと云っちゃっていいかも知れない。それに映画もそうですね。
でも、そう思ってる人はかなり多いと思うよ、世界中に…
ところで僕は、数多く書いてきたこの「ウマ便り」で、本と音楽の話をしたことがほとんどないんです。なぜか?
本と云う世界…、あまりにもその森が広大で奥深く、一体何を話してよいのやら、途方(とほう)に暮れるからなんですね。大好きな音楽に関してもほとんど語らないのは、その膨大な量を前にして、どこから書いて良いのやら迷うからです。ま、いずれ書いて見たいと思っている。
一冊を一気に読む…
これは、小学校時代からの僕の習性と云っていい。とにかく、本を読みだして途中で邪魔が入ると不機嫌になっちゃうんだよね。本の中、つまり非日常の世界に没入(ぼつにゅう)しているのに、突然、現実の世界に引き戻されるのはちょっと…なんですよね。
一旦(いったん)読みだすと、よほどのことがない限り最後まで読み切る。文庫本でもハードカバーの長編でも…ま、読むのがかなり早いせいでもあるけど…
ごく普通の厚さの親書や文庫本だと、読了するのに一時間を超えることはまずない。でも、速読じゃなくって、ちゃんと脳内音読はしてるよ。
だから、キャロラインは、僕のそんな習性を知っているので、僕が本を読んでいる間は、よほどのことがない限り声をかけない。ま、ワインなど、そっと僕の脇に置いてくれたりはするけど…。そんな彼女、好きやなあ。
たまに、遠くから「洗濯もん畳(たた)んでねーッ」ってなことはあるけどさ…
いくら読むのが早い僕でも、一気に読むってことは、まとまった時間が必要だということです。つまり、忙しい日々が続くと、本を読まない日も続くということになる。これは辛(つら)いね。
最初の読書体験は小学校時代、そう、たしか四年生だったと思う。
江戸川乱歩(えどがわらんぽ)の「少年探偵団」に、まあ、熱中しましたねえ。小学生向けの月刊雑誌に連載されていたのを毎号欠かさず読んでいた。
当時は、江戸川乱歩というけったいな名が実はペンネームで、あの「モルグ街の殺人」のエドガー・アラン・ポーからきているなんてまったく知らなかった。
子供ってアホなことを考えるんやなあ。なんと、クラスメートを集めて少年探偵団を結成したんや。学校裏の田んぼのあぜ道で結団式をした。同じクラスの男女、そう、七名か八名はいたと思う。
僕は、一応リーダー、つまり本に出てくる小林少年役やから、団員を一列に並ばせ、なにやらわけのわからん訓示(くんじ)みたいなもんをたれた記憶がある。
ちょうどその時、僕と団員の間を、畑仕事を終えた麦わら帽の爺ちゃんが自転車で通り過ぎたんや。その爺ちゃんが通り過ぎた直後、僕は、何の脈絡(みゃくらく)もなく団員に叫んでいた。「あいつが犯人やー!」
全員一丸となって、その爺ちゃんを追いかけた。ワーーッ!!ワーーッ!!
爺ちゃん必死で逃げよったなあ。わけもわからんでな。
次の日、担任の中原先生にえらい怒られたわ。せやけど、先生、苦笑(にがわら)いしてはった。先生に、…こいつアホちゃうか?…と思われたのは間違いない。
と云うわけで、僕の読書初体験は探偵ものだったんやね。
で、その影響甚大(じんだい)で、その後、読(よ)み漁(あさ)ったのは探偵もんやミステリーばっかりや。
たしか、六年生の頃からアガサ・クリスティやコナン・ドイルを読みはじめた。もちろん小学生向けの月刊雑誌に振(ふ)り仮名付(がなつ)きで連載されていたもの、或いは、その付録(ふろく)でついていたものですね。今から思うに、フリガナはもちろんのこと、小学生向けに読みやすくアレンジされたものだったと思う。
かなり後年、お遊びで、ストーリーまがいのものを書き出した時、ペン・ネームに、アンタガタ・クリスティーってな、ふざけた名を使ったこともあった。
中学校に入っても、そんな読書傾向は続き、クリスティやドイルをかなり読み終え、同時に、イアン・フレミングにも熱中した。僕の007好きはその頃以来だから、かなり年季(ねんき)が入ってまっせ。ただ、いわゆる呑(の)んフィクション、あ、ちゃう、ノンフィクションにも興味を示し始めてましたね。
ヘイエルダールが古代の作り方を真似(まね)た素朴な筏(いかだ)で、南米からポリネシアまで漂流した「コンティキ号探検記」や、堀江健一の「太平洋ひとりぼっち」など何度読んだかわからない。それがヨット好きになるきっかけだった。
そうそう、中学二年の時、初めてストーリーらしきものを書いた。
黒木先生の理科の時間、授業そっちのけで書き出した。そのストーリーは完結しなかったけど、出だしは今でも良く覚えている。
…黒木警部補は、新米刑事に、現場検証の指示をした…
「こりゃ毒殺やな。害者をよく見ろ。恨み(うらみ)が足らん顔つきをしとるやろ。見てろ、汗が出てくるぞ」「しかし、すでに心臓は停止していますが…」「それがこの薬物の特徴や」「で、その薬物の名は?」「ウラ・ミタリン酸・ミテロ・アセデルや」…
高校に入っても、ミステリーや冒険譚(ぼうけんたん)ばっかり読んでたけど、ある日、ラグビー部の同期だったK君が「これ読んでみ」と貸してくれたのが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。
それまでその手の翻訳本はまったく読んだことがなかった。それがきっかけで、後年、ジャック・ケルアックやレイモンド・カーヴァー、チャンドラーなど、アメリカの現代文学に傾倒(けいとう)することになったと思う。
特にジャック・ケルアックの「路上(オンザロード)」には惹(ひ)かれた。何度も読み返した。当時のアメリカに対する憧れがあったせいかも知れないね。
この「路上」、ヒッピーブームのはるか以前に、ビートニックの存在を世界に知らしめた点も含め、今でもアメリカ現代文学の金字塔(きんじとう)だと僕は思っている。もちろん、異論があるのは、大いに承知していますよ。
村上春樹さんは、フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」こそ小説や、云うてはるけど、「路上」に出て来る若者群像と比べると、登場人物の、その抱いてる思いがまったく別もんなのには唖然(あぜん)としてしまう。同じ国なのに…
ま、それはとにかく、読書の世界を広げてくれたK君には感謝しています。
いつだったか、海上保安大学に入った彼が、僕の下宿を訪ねてきた時「これ読んでみ」と渡されたのが、庄司薫(しょうじかおる)の「赤ずきんちゃん気を付けて」だったのは意外だった。で、いっそう、彼の読書の守備範囲の広さを知り驚くことになる。僕もK君みたいに、色んな本を読まんとあかんなあ…
大学時代は、当時の誰もがそうであったように、まわりの人間の影響を大きく受けることになる。特に大学紛争で騒然(そうぜん)としていた頃は…
サルトル、マルクス、エンゲルス、ショーペンハウエル、ドストエフスキー、安吾、織田作、太宰…それに埴谷雄高に丸山真男…
でも、この頭では難しすぎて内容を覚えてないのが多かったね。ショーペンハウエルの言葉「若くて妻帯、我が身の災難…」は、よく覚えてるけど…
特に惹(ひ)かれたのは「堕落論」の坂口安吾だった。その無頼(ぶらい)ぶりが非日常的かつ魅力的に映(うつ)ったんだと今にして思う。
彼は、たった一つだけミステリーを書いている。「不連続殺人事件」…
犯人が明かされる場面…、彼は、探偵が犯人を突き止めた理由、その心理描写を非常にユニークに書いている。興味のある方は読んでごらん…
日本と云う画一社会における安吾の存在意義を書いた安吾論を、どっかの大学の同人誌に送り付けたこともあった。今から思うと、ああ恥ずかし…
そうそう、詩人・中原中也の「汚れっちまった悲しみに」や、寺山修司の短歌に惹(ひ)かれたのもその頃です。寺山修司の短歌集を読んでごらん。涙なしには読めないよ…
でもね、読んでいて楽しいのは、相変わらずエンターテイメントだったですね。
ロバート・B・パーカー、レイモンド・チャンドラー、ロバート・ゴダード、ギャビン・ライアル、パトリシア・スミス、コーネル・ウールリッチ、彼の別名ウィリアム・アイリッシュ、松本清張、五木寛之、野坂昭如、安部公房、植草甚一…いや、もう、きりがない…
「ロング・グッドバイ(長い別れ)」などチャンドラーの一連の作品が、ハードボイルドと形容されているのは後で知った。
で、ハーフボイルドと冠したアホなショートストーリーを、いくつか書いたことがあったなあ。もちろん、アンタガタ・クリスティーの筆名でね…
安部公房の「第四間氷期(だいよんかんぴょうき)」…
この、とんでもない小説には驚いた。
こんな凄い小説を書く作家が日本にいるんやと驚嘆したことを今でも鮮明に憶えている。「砂の女」もそうだけど、あり得ない話をここまでリアルに描けるのは、もう、天才にしか持ちえない想像力・創造力だと、ため息をついてしまった。
世界的にも評価が高かった彼は、日本にとっても世界にとっても、最も重要な作家の一人とちゃうかと、その頃思っていた。彼は68歳の若さで亡くなったけど、もう少し生きていたら、間違いなくノーベル賞を貰(もら)っていた。実際、ノーベル賞の選考委員がそう云ってる。今、僕が全集を欲しいなと思っているのは安部公房さんだけです。
そうそう、安部さんとは渋谷の東急ハンズの工具売り場で偶然お会いし、十分ほどお話ししたことがある。偉そうな態度などまったくなく、僕の目をまっすぐ見て、真剣に御相手してくださったのが忘れられない。
ところで、翻訳ものに関して、日本は、もう、圧倒的に入超ですよね。
ま、日本語の特殊性を思うと仕方がないかな。でも、もっともっと日本の作家や作品を海外に紹介すべきだと僕は強く思っているし願ってもいる。文学は、その国に対する理解を大きく促進(そくしん)するからね。
こちらの本屋で、ハルキ・ムラカミコーナーを設けているのは珍しくないし、安部公房や三島由紀夫の本もよく見る。特に、村上春樹は、もう誰でも知ってると云っていい。僕を日本人だと知って、ハルキ・ムラカミの話をはじめる方さえいる。
余談だけど、こちらの本屋って、いっさい雑誌は置いてない。雑誌は、コンビニ、スーパー、ニューススタンド、駅の売店です。ヨーロッパもそうだと思う。
この事実、面白いと思わない? 本屋に雑誌が一切置いてない…
僕は無名時代の村上春樹とは何度も会っている。さらに、学生結婚した奥さんの陽子さんとも会っている。
当時、世田谷区の会社に勤めていた僕は、得意先のあった千駄(せんだ)ヶ(が)谷(や)に、週に一度ほど行ってたんだけど、近くに偶然ジャズ喫茶を見つけ、仕事の終わりにちょくちょく寄るようになったん。その店が村上春樹の経営だったと、何年か前に、ある雑誌で知ってびっくりした。
その店に初めて行った時、派手にコーヒーをこぼしてしまった。
飛んできた彼は、テーブルを拭(ふ)く前に、僕のズボンを気にかけてくれた。そして、すぐ、かわりのコーヒーを持ってきてくれた。
彼に誠実さを感じた僕は、以来、そのジャズ喫茶「ピーターキャット」に寄るようになった。彼は、カウンターの中で、ボロボロの辞書を傍(かたわ)らに、英語のペーパーバックなどを読んでいることが多かった。
あまり、客にしゃべらない人だったけど、他にお客さんがいなかった時、僕に「何かレコードかけましょうか?」と訊(き)いてきた。
「じゃ、エロル・ガーナーのコンサートバイザシーをお願いします」に対し
「いいですね、僕も大好きです」…
カウンター越しに僕から彼に声をかけたこともある。
「その辞書、相当年季(ねんき)が入ってますねえ」
「いろいろ書き込みをしてるんでこれ以外使えないんです」
当時、彼が関西出身で、僕と同じ年だとは、まったく知らなかった。
実は、奥さんの陽子さんをピーターキャットで見た時「どっかで見た人やなあ」と思った。
それは、ピーターキャットを知る何年も前のことだった…
当時、僕がよく通っていた神田駿河台裏のジャズ喫茶「響(ひびき)」は中年夫婦の経営だったけど、ある日、初めてアルバイトの女の子が入ってきた。それが陽子さんだったんですね。
その店のアルバイトは、あとにも先にも彼女以外見たことがなかったんで覚えてたんです。彼女が村上春樹の奥さんだとわかったのは、響のオーナー、大木さんが、後年、彼のブログで披露しておられたからです。
さてさて、何年か前に、元劇団民芸の女優で、あの宇野重吉さんの薫陶(くんとう)を受けた前田光子さん、テレビの時代劇などにちょくちょく出演していた彼女が、松本清張や三島由紀夫などの文庫本を、お住いの宇治市から、僕にどっさり送ってくれたことがあった。
アラントンでの世界平和を祈る集いに参加したことがある彼女は、実は大のジャズ好きで、僕より十歳?近く年上にもかかわらず、同時代のジャズを語ることが出来たことは嬉しかったですね。そう、ジャズなども含め、趣味の話は、歳の差をなくすんだよね。
光子さんが送ってくれた三島由紀夫の戯曲集を初めて読んだ僕は、彼の作品に対する思いを新たにすることになった。さらに、宮部みゆき編集の、松本清張の短編集は、すでに多くの彼の作品を読んでいた僕にとって、あらためて彼の凄さを再認識することとなった。光子さんありがとう。
週刊誌や月刊誌、文芸誌などに、同時に、五つも六つも、内容のまったく違う連載を抱(かか)えるなんて常人ではあり得ない。松本清張は超人です。ところが…
彼自身の述懐(じゅっかい)を思い出す…
「作家の才能とは、いかに長時間、机に座っていられるかだ」…
短編集の最後に、宮部みゆきを含めた編集者たちの座談会が掲載されているが、僕が印象深かったのは、松本清張の担当だった編集者の言葉です。
「彼は努力の人でした…」
学歴のなさなどにコンプレックスを抱いていた彼は、だからこそ、人一倍、いや、それ以上の努力を重ねてきたんでしょう。光子さんが送ってくれた彼の自伝「半生の記」を読んだけど、貧しく、そして、将来に希望を持てない、なんとも暗い青春だったようです。作家デヴューもかなり遅く、四十歳を過ぎていた…
コーネル・ウールリッチの短編集を読んでいて、その描かれる世界(社会)の暗さが松本清張のそれとよく似ていると思ったことがあった。
だけど、ウールリッチ、つまり、ペンネーム、ウィリアム・アイリッシュの描く暗さは、純文学を目指していたのに、たまたまミステリーで成功して世に出てしまった自分に対する屈折したコンプレックスから出ている部分があるという。松本清張のコンプレックスとはかなり違う。
因(ちな)みに、僕が、どんでん返しの面白さを初めて知ったのは、アイリッシュの「幻(まぼろし)の女」だった。衝撃的だった。あのね、なんと目次を見てるだけで興奮してしもたのよ。この作品を読んだ江戸川乱歩は「すぐにでも日本語に翻訳して出版すべきだ」と語ったと言う。と言うことは、彼は英語が出来たんですね。
ところで、アガサ・クリスティーの作品に共通する暗さは何だと思う?
スコットランドに長年住んでいる僕の意見だけど、それは、英国って云う国の天候の悪さと階級社会の存在だと思う。ちゃうかなあ? 冬場など、ほぼ連日、あの「嵐が丘」の空やしなあ…おっと、犯罪小説は、暗いのが当たり前だよね。明るかったらアンタ…いや、明るい犯罪小説を思い出した。宮部みゆきの「我らが隣人の犯罪」や。
なんかほのぼのと明るかったように記憶している。
ところで、かなり以前、大阪阿倍野(あべの)の老舗の居酒屋・明治屋で、すごくミステリーに詳しい方に出逢(であ)ったことがある…
五時を過ぎるといつも満席のその古い酒場…
その日の朝刊の広告でみた待望のコーネル・ウールリッチの短編集を買ったばかりの僕は、わくわくしながらカウンターに座った。ビールを一口含み、おもむろに本を開いた僕だったけど、僕の右隣に、やはり手酌(てじゃく)で本を読む、かなり身なりのいい紳士がいた。
以下、続く。
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