前々回の「~その4~」からの続きです。
モーツァルトを愛する人は世界中におおぜいいると思う。でも、Tさんみたいにモーツァルトと出逢(であ)った人は、いないんとちゃうやろか?
こんなひと時って、ほんまに楽しいですよねえ。酒場の陰(かげ)で、いやちゃう、墓場の陰で、モーツァルトさんもニコッとしてはるんとちゃうやろか…
もし、モーツァルトさんが蘇(よみがえ)って我々の席に同席したとしたらさあ…
「よっしゃ! おたくら二人ともええ男や! 俺もビール呑むでぇ! ほんでシュニッツェルも食(く)うでぇ!」モーツァルトさんも大阪弁や! あゝ楽しい!
モーツァルトさんって、音楽を離れると、めちゃ柄(がら)が悪く、品もなく口も悪く、しかもギャンブル三昧(ざんまい)で借金だらけ、品行方正(ひんこうほうせい)にかなり問題の多い人やったらしいけどさ、ま、いっしょにビールを呑むのは大歓迎でっせ。
茶臼山(ちゃうすやま)ウィリーの店にはピアノが置いてある。
ちょいと! ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトさんや! あんたな、ビール呑むのもええけど、そこにあるピアノ弾きなはれ…「唐獅子牡丹(からじしぼたん)」はアカンでぇ! エッ? なんやて? アカンアカン!「兄弟仁義(きょうだいじんぎ)」もアカン!
Tさんと会うのは二回目やったけど、もう、旧知の友のように、親しく楽しく話が弾(はず)んだんです。なんと素晴らしい宵(よい)であることか! 僕はこの時、Tさんとの出逢(であ)いに、ほんまに幸福を感じたんですよ。
ところが…、です…
「Tさん、その後ずっと独身なの?」と訊(き)いた僕に、彼はやや顔を曇(くも)らせた…
「いや、結婚しましてん。けど、すぐ離婚しましたわ」
その理由が家庭内暴力だと云うんで僕はエーッ? と首をかしげてしまった。
「そら、あかんわTさん、(前歴がヤクザの)君が家庭内暴力やなんて、そら、ぜったいあかんわ」
「いや、ちゃうんです。アル中の女房の暴力ですねん。彼女と知り合った時、いろいろ悩みの多いこの女は俺が助けてやらんとあかんと思って一緒になったんやけど、無理でしたわ。ノイローゼにアル中、連日の暴力にかなり耐(た)えたんやけど…、ほら、灰皿を投げられて…。彼女、今でも病院に入ってます…」
彼の額(ひたい)、髪の生(は)え際(ぎわ)に、小さいけど傷跡(きずあと)があった…
しかし、しかしや…
おのおの方なあ、世の中、何が起こるかわからんもんやなあ…
その後、まったく予想すらしなかった相手、なんと、芦屋(あしや)の社長令嬢と再婚し、今は、一転、めちゃシアワセなんですと云う。
彼のその話、いや、そのストーリーに、僕は完全に惹(ひ)きこまれてしまった。
そのストーリー、もしタイトルを付けるとしたら、絶対にこれしかない。
「モーツァルトが変えた人生」…
以下、彼が語(かた)った素晴らしいストーリー、出来るだけ忠実に再現したいと思う…
…彼が専務として働く兄の鐵工所(てっこうしょ)の納品先に、尼崎(あまがさき)にある、割と大きな自動車部品製造会社があった。
ある年(とし)の瀬(せ)に、上得意(じょうとくい)のその会社に御歳暮(おせいぼ)を携え挨拶(あいさつ)に行った彼は、社長室に入った途端(とたん)、もう、びっくりしてのけぞりそうになったと云う。
社長室の壁にあるボーズの小さなスピーカーから、なんとなんと、 モーツァルトの21番が流れてるんや! しかもリパッティやないか!
挨拶もお歳暮を渡すのも忘れ、咄嗟(とっさ)に「社長さん! これ、モーツァルトの21番、演奏はリパッティですよね」と云ってしまった。
この社長、もう、目を丸くして引(ひ)っ繰(く)り返(かえ)りそうになりながら立ち上がり「君!これ知ってるの!?」
この一瞬が、彼の、再婚劇(さいこんげき)の始まりとなった…
それまで何度も会っているこの社長と、まさかモーツァルトやリパッティの話で盛り上がるなんて、それまで夢にも思わなんだと、Tさんは大きく微笑(ほほえ)み、グーッとビールを呑(の)みほした。ほんでそれからどないしたの?
社長は興奮しつつ「今日は仕事は止(や)めや! 君、今からうちへ来ないか?」
関西屈指(くっし)の高級住宅地芦屋(あしや)の大きな邸宅、その社長の部屋には立派なオーディオ装置があり、社長のNさんは、嬉嬉(きき)としてターンテーブルにモーツァルトのLPを乗せたという。
「ほんでな、二人で、次から次とモーツァルトを聴いて話が弾(はず)んでいる時に、めちゃ綺麗(きれい)な娘さんが御寿司やお酒を持ってきてくれはったんでドキドキしてしもた。ほんで、ボク、車ですから呑(の)めません云うたら、社長が、明日は土曜やから、今日は泊(と)まっていきなさいやて!
そのあと、三人でブランデーをいただいてるうちに、三人ともザルツブルグへ行ったことがわかり、さらに話が盛り上がったんですわ」
「その夜はな、もう明け方近くまで、三人でモーツァルト三昧(ざんまい)でしたわ」
以来、その社長Nさん、そして一人娘のS子さんと、商売抜きの個人的な付き合いが始まったという。奥さんに先立(さきだ)たれたN社長にとって、フルートを吹くS子嬢とコンサートへ行くのが何よりの楽しみだったそうやけど、その日以来、N社長は、しょっちゅうTさんをコンサートに誘うようになった。
で、ある時、社長に急用が出来、S子さんと二人きりでコンサートに行くことになった。最初、ちょっとよそよそしかった彼女やけど、大阪シンフォニーホールでのコンサートのあと、梅田のJRガード下の焼き鳥屋でイッパイやってるうちにめちゃ打(う)ち解(と)け、音楽の話で、もう、大いに意気投合(いきとうごう)したと云う。
S子さん、恥ずかしそうに「いつかTさんに、私のフルート聴いてもらおうかな」と、はにかんだそうや。話をするTさんの嬉しそうな顔を見ていて、彼にとっては、もう、夢のようなひとときだったんやろと簡単に想像がつく。
「彼女は武庫川(むこがわ)女子大出の芦屋の社長令嬢、しかもめっちゃ別嬪(べっぴん)さんや。亡くなったお母さんは元ミス芦屋だったと云うしな。ところが、こっちは少年院あがりの元ヤクザや。血筋はもちろん、住んでた世界が全然ちゃうやろ?
ま、こんな綺麗(きれい)な人と知り合いになれて嬉しいとは思ったけど、これ、なんかの間違いちゃうかと、ずーっと長いあいだ思ってたんですわ」
淡々(たんたん)とそんな話をする彼を見ていて、ハッと気が付いた。
とてもきれいな目をしてるんや。元ヤクザだなんて誰も信じない優(やさ)しい澄(す)んだ目をしている。これもモーツァルトの影響かいな?
以来、S子さんと二人でコンサートに行く機会がちょくちょくあった彼だけど、ある時、ハタと気が付いた。
「ひょっとして、社長がわざと我々が二人きりになる機会を作ってるんとちゃうやろか? これ、まずいんとちゃうか?」
それに彼女の、彼を見る目つきが以前と違っていることにも気が付いた。
それからというもの、誘われてもなんとか理由を作り、出来るだけS子さんと二人きりになるのを避(さ)けたとTさんは言う。
しかし、ある年の暮れ、大阪シンフォニーホールでの恒例の第九コンサートは、社長もあとから来ると云うので、どうしても断ることが出来なかった。
で、コンサートのあと、合流(ごうりゅう)した社長も含め、最高のフレンチレストランで食事をしている時、ほろ酔いの社長が冗談めかして言ったことに、彼は、もう、目が点になってしまったと云う。
「うちの娘も年頃(としごろ)やし、いや、ちょっと年頃を過(す)ぎとるかな? で、どうやろT君、もろてやってくれへんか?」
目が点になったままの彼の口から、ようやく出てきた言葉が「む、無理です。僕、離婚してますし、ほんでかなり年上ですし…それに…」
社長のNさんは、なにか云いかけたけど「君から云いなさい」と娘のS子さんを促(うなが)した。
「Tさん、あなたのこと、パパも私も、全部知ってるんです…」
一瞬ぎくっとしたTさんに、社長が真剣な表情で言(い)い添(そ)えた…
「T君な、覚えてるか? いつやったか、君と車で一緒やった時、社長!シンフォニーアワーの時間ですわと云って、カーラジオのスィッチを入れたことがあったやろ? その時な、娘の伴侶(はんりょ)はこの男しかいないと思ったんや。
それでな…、君には悪いと思ったんやけど、その後、実は、君のことは全部調べさせてもろたんや。
正直に言うけど怒らんといてや。最初、調査報告書を見て、ちょっと顔をしかめたこともたしかにあった。しかしな、今の君があるのはモーツァルトが原因やっちゅうことが分かった時な、私も娘も、もう、ほんまに嬉しなってしもたんや。我々にしたら、もう、信じられないぐらい素晴らしいことでな、親子二人、感激したんやで。
T君、どうやろ? 昔のことは、ま、置いといて、これから先のことを考えて見ないか?」
Tさん、どっと涙が出てきて、あとは、なんの言葉も出てこなかったという。
…その時のことを思い出したんやろね、彼、ウィリーの店でも目が大いに潤(うる)みだした。ドイツ人のウィリー亡(な)きあと、店を一人で切(き)り盛(も)りしている雅美(まさみ)さんが心配して
「ウマさん、この人、大丈夫?」「大丈夫や、この人な、めっちゃ幸せな人やねん」
彼ほど人格が変貌(へんぼう)した人を、僕は他に知らない…
ほんでな、あのニーチェの言葉を思い出したんや…
以下、続く。