およそ1か月前のブログに登載した「演奏をとるか、録音をとるか」について。
この中でフルトヴェングラー指揮のオペラ「ドン・ジョバンニ」(モーツァルト)を例に挙げて、「録音よりも演奏優位」とコメントしたが、すぐにジャズファンの方からメールが来て「ジャズの場合も演奏優先ですよ。」とあったのはちょっと意外だった。
ジャズファンといえば圧倒的にオーディオ愛好家が多くて、おそらく「音キチ」だろうから録音の方により一層こだわるはずと思っていたので・・・。どうやら勘違いしていたようでたいへん失礼しました(笑)。
それにしても、いくらCD盤といったって録音状態は周知のとおり千差万別だが、オーディオシステムの再生能力との関係はいったいどうなってるんだろう。
自分の経験では音が悪いCD盤ほどその中に刻み込まれた情報を余すところなく再生する必要があるので、システムの質の向上がより一層求められるように思っているが、有識者の見解を一度訊いてみたい気がする。
さて、表題のモーツァルトのヴァイオリン協奏曲だが、娘に貸していたCDがこの3連休(16日~18日)を利用して帰省したのでようやく手元に戻ってきた。音楽評論家によるランキングで最も評判のいい「グリュミオー」盤である。
久しぶりに「3番と5番」を聴いてみたが何だかやたらに甘美(技巧)に走り過ぎた演奏のような気がして、昔とはちょっと悪い方向に印象が変わってしまった。このところオーディオシステムが様変わりしたせいかもしれないし、前述のフルトヴェングラー盤で「音楽&オーディオ」観が少しばかり変わったせいかもしれない(笑)。
ちなみにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の最後となる5番は作品番号(KV:ケッヘル)219だから19歳のときの作品となる。一方、ピアノ協奏曲の最後となる27番はKV.595だから亡くなる年の35歳のときの作品だ。
「作曲家の本質は生涯に亘って間断なく取り組んだジャンルに顕われる」(石堂淑朗氏)とすれば、比較的若いときにモーツァルトはこのジャンルを放棄したことが分かる。あのベートーヴェンだってヴァイオリン協奏曲の表現力に限界を感じて1曲だけの作曲にとどまっているので、このジャンルの作品はそもそも大作曲家にとっては「画家の若描き」(未熟だけどシンプルな良さ)の類に属するのだろう。
改めてもっとマシな演奏はないものかと手持ちのCDを眺めてみた。
前述のグリュミオーのほかにフランチェスカッティ、レーピン、オイストラフ、ハイフェッツ、オークレール、シュタインバッハー(SACD)、そしてフリッツ・クライスラー。
フルトヴェングラーのこともあって、この中から一番期待した演奏はクライスラー(1875~1962)だった。往年の名ヴァイオリニストとしてつとに有名だが、何せ活躍した時代が時代だから現代に遺されたものはすべて78回転のSP時代の復刻版ばかり。
近代のデジタル録音からすると想像もできないような貧弱な音質に違いないとは聴く前から分かるが、あとは演奏がどうカバーするかだろう。
このクライスラーさんは自分が作曲した作品を大家の作品だと偽っていたことで有名だが、通常は逆で「大家の作品を自分の作曲だ」というのがありきたりのパターンなのでほんとにご愛嬌。
「フリッツ・クライスラー全集」(10枚セット)の中から、1939年に録音された「ヴァイオリン協奏曲第4番」(モーツァルト)を聴く。ちなみに昔の録音は少し大きめの音で聴くに限る。
音が出た途端に「こりゃアカン」と思った。高音も低音も伸びていなくて周波数レンジが狭く何だか押しこめられた様な印象を受けたが、段々聴いている内に耳が慣れてきたせいかとても滋味深い演奏のように思えてきた。
近年のハイレゾとはまったく無縁の世界だが、ときどきこういう録音に浸るのもいい。むしろ音質がどうのこうのと気にしないでいいから、つまり、はなっから諦めがついているので純粋に音楽を鑑賞するにはもってこいだろう。
はじめに「ウェストミンスター」で聴き、途中から「AXIOM80」に切り替えたが、このくらいの名演になると、もうどちらでもヨロシ(笑)。