webDICE-2015-11-13 17:30
『光のノスタルジア』『真珠のボタン』探検家・関野吉晴さんによるトークイベント・レポート
映画『真珠のボタン』より、セルクナム族 © Atacama Productions, Valdivia Film, Mediapro, France 3 Cinema - 2015
南米ドキュメンタリーの巨匠、パトリシオ・グスマンが自国チリの歴史を圧倒的な映像美で描く2部作『光のノスタルジア』『真珠のボタン』が岩波ホールにて公開中。両作を読み解くトークイベントが3日間にわたり実施され、11月8日は探検家・医師の関野吉晴さんが登壇した。
関野さんは人類のルーツを南アメリカからアフリカのタンザニアまで逆ルートから踏破するという旅「グレートジャーニー」を敢行。このトークイベントでは、『真珠のボタン』の舞台となるパタゴニア、『光のノスタルジア』で描かれるアタカマ砂漠といったチリの自然や現地の人々との交流、今作で明らかになったチリの歴史の暗部について、といったエピソードが披露された。
【『真珠のボタン』について】
全長4300キロ以上に及ぶチリの長い海岸線。その海の起源はビッグバンのはるか昔まで遡る。そして海は人類の歴史をも記憶している。チリ、西パタゴニアの海底でボタンが発見された。―そのボタンは政治犯として殺された人々や、祖国と自由を奪われたパタゴニアの先住民の声を我々に伝える。火山や山脈、氷河など、チリの超自然的ともいえる絶景の中で流されてきた多くの血、その歴史を、海の底のボタンがつまびらかにしていく。
【『光のノスタルジア』について】
チリ・アタカマ砂漠。標高が高く空気も乾燥しているため天文観測拠点として世界中から天文学者たちが集まる一方、独裁政権下で政治犯として捕らわれた人々の遺体が埋まっている場所でもある。生命の起源を求めて天文学者たちが遠い銀河を探索するかたわらで、行方不明になった肉親の遺骨を捜して、砂漠を掘り返す女性たち……永遠とも思われる天文学の時間と、独裁政権下で愛する者を失った遺族たちの止まってしまった時間。天の時間と地の時間が交差する。
グレートジャーニーのスタート地点、パタゴニア
1971年に初めて南米に行きました。約40年前ですが、最初の20年は南米と言ってもほとんどアマゾン、アンデス、パタゴニア、ギアナ高地などの先住民といることが多かったんです。彼らと過ごすうちに、先住民と日本人は非常に似ていると思って、ルーツが知りたくなりました。アフリカで人類が生まれて世界中に拡散していくのですが、その中で一番遠くまで行った人たち……シベリア、アラスカ経由で最南端まで行った人々の旅路をイギリスの考古学者はグレートジャーニーと名付けたわけですけども、私は逆ルートでそれを自分の腕力と脚力だけで10年かけて歩きました。人類が一番最後に到達した地点は、この映画にも出てくる先住民、ヤマナ族の住むナバリーノ島のプエルト・ウィリアムズです。すから敬意を表して、彼らの先祖の墓があるメヒジョンという場所を出発地点にしました。
当時のチリの空気
アマゾンに1年ほどいて、72年にチリに行きました。アジェンデ政権の時ですね。世界で初めて民主的な手続きで社会主義政権ができたわけですから、世界中が注目していました。
アマゾン疲れしていたのでヒッチハイクでチリに向かいました。ペルーからアタカマに入って陸路でチリを縦断して、最後パタゴニアに行きます。
印象的だったのは、サンティアゴより南のほうで汽車に乗って旅をした時のことです。車内で歌を歌いだしたグループがいました。すると同じ車内の他のグループが別の歌を歌い始めました。それが終わると最初に歌ったグループがまた歌い始めました。交互に歌い始めたのですが、お互いに自分の土地の自慢話を即興で歌っているんです。曲は古いチリの曲だったようですが、詩は即興でした。それで、真ん中にいる私に声がかかったんです。「歌わなくてもいいから、こっちに来なよ」 と。やがて、1グループが列車から降りる時、私に「汽車を降りて私たちの町に来て、泊まっていきなさい。いいところだから」とお呼びがかかりました。一方、残ったグループからも、「泊まるならうちらの町においで、もっといい村だから」と誘われました。私は当てのない旅だったので、最初に声を掛けてくれた村に行くことにしました。そのグループは町に住む工場労働者、小売業者と学生たちが主体でしたが、1家族だけ郊外に住んで農業を営んでいました。チリでは夏休みを1か月くらいたっぷり取るんです。毎日がフィエスタのように音楽に合わせて踊り、土日は海や湖に行ってワインを飲み、フルーツを食べ遊び、休みます。メロンなんかをくりぬいて、そこにワインをどぼどぼと注いで、みんなで回し飲みします。ワインが水より安いんです。
私の泊めてもらった家の主人は露店で雑貨を売っていました。狭い家に住んでいましたが、私の寝る空間を作ってくれ、常に私に気を使ってくれました。彼らはアジェンデ政権を熱烈に支持していました。1週間ほど彼らに世話になった後に、郊外に住む1家族を訪れました。ここでも大歓迎してくれました。彼らは広い土地を持つ地主で、農園を経営していました。アジェンデ政権の農地改革で土地を奪われていたので、アジェンデ政権を非常に憎んでいました。悪口ばかり言っていましたね。当時のチリは、アメリカのCIAが経営者や運輸業者にストをやらせたりして、非常に混乱していました。その後私はいったん日本に帰ったのですが、1973年4月ごろ、再びアマゾンに入って、9月12日に出てきました。ペルーで新聞を見たら、一面トップに「クーデター発生」と書いてあった。9.11に軍事クーデターが起こったんですね。たしかに物はないし、経済的にはボロボロだった。クーデターが起こるんじゃないという予感はありましたが、びっくりしました。
パタゴニアの先住民―カウェスカル族のマリア・ルイサと、
ヤマナ族のクリスティナ・カルデロン
その後、ゆっくりとパタゴニアに行きました。『真珠のボタン』の舞台ですね。映画にも出てくるカウェスカル族の家に何度か行って、しばらく居候していました。僕は旅をするときいつも「泊めてください。同じご飯を食べさせてください。なんでもしますから」どこかの家を訪ねます。ほとんど断られたことはありません。
カウェスカル族は25年前の当時で16人しかいませんでしたから、今はもっと減ってるかもしれませんね。滞在していた家はお父さんが結核でいなくて、お母さんと13歳の娘、マリア・ルイサがいました。私はいつも、旅先で子供がいたら「大きくなったら何になるの?」と聞くんですが、南米ではだいたいスチュワーデスや先生や看護師、という答えが多い。今回もそういう答えが返ってくるのかなと思っていたら、彼女は「考古学者になりたい」と。そんな答えは初めてでした。
彼女はある冊子を見せてくれました。それはチロエ島の先住民ウィジチェの歴史を描いた劇画でした。つまり彼女は、カウェスカルの歴史もこのように本にしたい、それが夢だと言ったんです。彼女は学校に通っていましたから「社会科の教科書みせて」と言って見たら、太古からコロンブスまでの歴史は1ページ。あとは全部スペイン人がやってきてからの歴史でした。案の定。そうじゃない歴史を彼女は作りたかったんですね。
ちなみに、ウィジチェとカウェスカルは交流があって、ウィジチェは船を作る技術を持っているんですが、仕事がないので技術を活かせない。一方、カウェスカルは漁をしているけど漁船がないので、白人や白人の混血の人のもとで、本当に安い賃金で働かされています。それを助けようと、あるベルギーのNGOが支援をしたんです。ウィジチェに11メートルの漁船を作らせ、カウェスカルに船を操業させて自由に漁業ができる形にしました。まったく理想的な形ですよね。2つの民族が船を作る技術、魚をとる技術を活かせる。船の名前は、カウェスカルの少女マリア・ルイサからとってマリア・ルイサ号という名前がついています。
マリア・ルイサはその後、プンタアレナスで高校に通って大学受験の準備をしていました。先住民には枠があるので入学できるかもしれないと言っていたのですが、残念なことに大学を諦めていました。そして、混血の男性と結婚していました。彼女はカウェスカル族の中で最年少だったので、もう純血のカウェスカルが残る可能性はなくなって彼女がいなくなったら純粋なカウェスカルはいなくなります。
それから『真珠のボタン』に出てくる、クリスティナ・カルデロンさんというヤマナ族のおばあちゃんに何回か会ったことがあります。最後に会ったときはお姉さんがいたんですけど、亡くなってしまって今は一人になってしまったんですね。彼らは世界最南端のプエルト・ウィリアムズというチリ海軍基地の近くのウキケというムラにいて、かつては先祖の墓があるメヒジョンという、放牧にも農業にも適した集落に住んでいましたが、現在は海軍に占拠され、追い払われてしまったのです。もう90歳に近いのですが、カルデロンさんが最後です。ですから彼女が国宝となっていますが、彼女がなくなった後はみんなが混血なんです。ですからヤマナも滅びてしまう。
アタカマ砂漠のミイラ
アタカマの話に移りますが、アタカマは本当に天気がいいんです。『光のノスタルジア』にカラマの女性たちが出てきますが、カラマでは観測史上、一回も雨が降ったことがない。それなのに人が住んでいるのはどうしてだと思いますか?それは人が住むのに雨は必要がないからです。アンデス山脈から川が西の方に伸びて流れていて、川があれば緑や畑が広がるので、実は砂漠の土地はとても肥沃なんです。アタカマには博物館があって、そこにはミス・アタカマというミイラがあります。アタカマはミイラ文化で有名なんです。実は一昨年前に科学博物館でわたしの「グレートジャーニー」という特別展をやったのですが、そのときにアタカマから持ってきた世界最古のミイラを飾りました。ようするにエジプトより古いミイラがあります。おもしろいのはミイラを飾っている家があることです。そしてまるで生きているように朝、食事をあげるという文化が根付いています。
西パタゴニアとアタカマって本当に正反対です。パタゴニアの氷河を歩いたのですが、ずぶずぶで着生植物だらけのところを縫っていかなくてはならない。それでやっと岩や氷のところにたどり着けます。『光のノスタルジア』『真珠のボタン』、この2本の映画の舞台はまるで対照的な2つの地域なんです。政治的なことを扱ってはいますが、それをちょっと引いた目で、啓示的な視点で観てるから、ダイレクトじゃない。チリの歴史に興味がなくても、知らなくても見られる。そして素直に入っていける、とてもすばらしい映画ですね。
(2015年11月8日、岩波ホール内・岩波シネサロンにて)
関野吉晴(せきの・よしはる) プロフィール
一橋大学在学中に探検部を創設、アマゾン全踏査隊長としてアマゾン川全流を下る。その後医師となり、南米への旅を重ねる。1993年から2002年にかけて、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸に拡散した道を、南米最南端から逆ルートでたどる「グレートジャーニー」に挑んだ。2004年からは「新グレートジャーニー 日本列島にやってきた人々」をスタート。シベリアから稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナを経由して朝鮮半島から対馬までの「中央ルート」、インドネシア・スラウェシ島から石垣島までの「海上ルート」を踏破。1999年植村直己冒険賞受賞。現在武蔵野美術大学教授。
http://www.webdice.jp/dice/detail/4906/
『光のノスタルジア』『真珠のボタン』探検家・関野吉晴さんによるトークイベント・レポート
映画『真珠のボタン』より、セルクナム族 © Atacama Productions, Valdivia Film, Mediapro, France 3 Cinema - 2015
南米ドキュメンタリーの巨匠、パトリシオ・グスマンが自国チリの歴史を圧倒的な映像美で描く2部作『光のノスタルジア』『真珠のボタン』が岩波ホールにて公開中。両作を読み解くトークイベントが3日間にわたり実施され、11月8日は探検家・医師の関野吉晴さんが登壇した。
関野さんは人類のルーツを南アメリカからアフリカのタンザニアまで逆ルートから踏破するという旅「グレートジャーニー」を敢行。このトークイベントでは、『真珠のボタン』の舞台となるパタゴニア、『光のノスタルジア』で描かれるアタカマ砂漠といったチリの自然や現地の人々との交流、今作で明らかになったチリの歴史の暗部について、といったエピソードが披露された。
【『真珠のボタン』について】
全長4300キロ以上に及ぶチリの長い海岸線。その海の起源はビッグバンのはるか昔まで遡る。そして海は人類の歴史をも記憶している。チリ、西パタゴニアの海底でボタンが発見された。―そのボタンは政治犯として殺された人々や、祖国と自由を奪われたパタゴニアの先住民の声を我々に伝える。火山や山脈、氷河など、チリの超自然的ともいえる絶景の中で流されてきた多くの血、その歴史を、海の底のボタンがつまびらかにしていく。
【『光のノスタルジア』について】
チリ・アタカマ砂漠。標高が高く空気も乾燥しているため天文観測拠点として世界中から天文学者たちが集まる一方、独裁政権下で政治犯として捕らわれた人々の遺体が埋まっている場所でもある。生命の起源を求めて天文学者たちが遠い銀河を探索するかたわらで、行方不明になった肉親の遺骨を捜して、砂漠を掘り返す女性たち……永遠とも思われる天文学の時間と、独裁政権下で愛する者を失った遺族たちの止まってしまった時間。天の時間と地の時間が交差する。
グレートジャーニーのスタート地点、パタゴニア
1971年に初めて南米に行きました。約40年前ですが、最初の20年は南米と言ってもほとんどアマゾン、アンデス、パタゴニア、ギアナ高地などの先住民といることが多かったんです。彼らと過ごすうちに、先住民と日本人は非常に似ていると思って、ルーツが知りたくなりました。アフリカで人類が生まれて世界中に拡散していくのですが、その中で一番遠くまで行った人たち……シベリア、アラスカ経由で最南端まで行った人々の旅路をイギリスの考古学者はグレートジャーニーと名付けたわけですけども、私は逆ルートでそれを自分の腕力と脚力だけで10年かけて歩きました。人類が一番最後に到達した地点は、この映画にも出てくる先住民、ヤマナ族の住むナバリーノ島のプエルト・ウィリアムズです。すから敬意を表して、彼らの先祖の墓があるメヒジョンという場所を出発地点にしました。
当時のチリの空気
アマゾンに1年ほどいて、72年にチリに行きました。アジェンデ政権の時ですね。世界で初めて民主的な手続きで社会主義政権ができたわけですから、世界中が注目していました。
アマゾン疲れしていたのでヒッチハイクでチリに向かいました。ペルーからアタカマに入って陸路でチリを縦断して、最後パタゴニアに行きます。
印象的だったのは、サンティアゴより南のほうで汽車に乗って旅をした時のことです。車内で歌を歌いだしたグループがいました。すると同じ車内の他のグループが別の歌を歌い始めました。それが終わると最初に歌ったグループがまた歌い始めました。交互に歌い始めたのですが、お互いに自分の土地の自慢話を即興で歌っているんです。曲は古いチリの曲だったようですが、詩は即興でした。それで、真ん中にいる私に声がかかったんです。「歌わなくてもいいから、こっちに来なよ」 と。やがて、1グループが列車から降りる時、私に「汽車を降りて私たちの町に来て、泊まっていきなさい。いいところだから」とお呼びがかかりました。一方、残ったグループからも、「泊まるならうちらの町においで、もっといい村だから」と誘われました。私は当てのない旅だったので、最初に声を掛けてくれた村に行くことにしました。そのグループは町に住む工場労働者、小売業者と学生たちが主体でしたが、1家族だけ郊外に住んで農業を営んでいました。チリでは夏休みを1か月くらいたっぷり取るんです。毎日がフィエスタのように音楽に合わせて踊り、土日は海や湖に行ってワインを飲み、フルーツを食べ遊び、休みます。メロンなんかをくりぬいて、そこにワインをどぼどぼと注いで、みんなで回し飲みします。ワインが水より安いんです。
私の泊めてもらった家の主人は露店で雑貨を売っていました。狭い家に住んでいましたが、私の寝る空間を作ってくれ、常に私に気を使ってくれました。彼らはアジェンデ政権を熱烈に支持していました。1週間ほど彼らに世話になった後に、郊外に住む1家族を訪れました。ここでも大歓迎してくれました。彼らは広い土地を持つ地主で、農園を経営していました。アジェンデ政権の農地改革で土地を奪われていたので、アジェンデ政権を非常に憎んでいました。悪口ばかり言っていましたね。当時のチリは、アメリカのCIAが経営者や運輸業者にストをやらせたりして、非常に混乱していました。その後私はいったん日本に帰ったのですが、1973年4月ごろ、再びアマゾンに入って、9月12日に出てきました。ペルーで新聞を見たら、一面トップに「クーデター発生」と書いてあった。9.11に軍事クーデターが起こったんですね。たしかに物はないし、経済的にはボロボロだった。クーデターが起こるんじゃないという予感はありましたが、びっくりしました。
パタゴニアの先住民―カウェスカル族のマリア・ルイサと、
ヤマナ族のクリスティナ・カルデロン
その後、ゆっくりとパタゴニアに行きました。『真珠のボタン』の舞台ですね。映画にも出てくるカウェスカル族の家に何度か行って、しばらく居候していました。僕は旅をするときいつも「泊めてください。同じご飯を食べさせてください。なんでもしますから」どこかの家を訪ねます。ほとんど断られたことはありません。
カウェスカル族は25年前の当時で16人しかいませんでしたから、今はもっと減ってるかもしれませんね。滞在していた家はお父さんが結核でいなくて、お母さんと13歳の娘、マリア・ルイサがいました。私はいつも、旅先で子供がいたら「大きくなったら何になるの?」と聞くんですが、南米ではだいたいスチュワーデスや先生や看護師、という答えが多い。今回もそういう答えが返ってくるのかなと思っていたら、彼女は「考古学者になりたい」と。そんな答えは初めてでした。
彼女はある冊子を見せてくれました。それはチロエ島の先住民ウィジチェの歴史を描いた劇画でした。つまり彼女は、カウェスカルの歴史もこのように本にしたい、それが夢だと言ったんです。彼女は学校に通っていましたから「社会科の教科書みせて」と言って見たら、太古からコロンブスまでの歴史は1ページ。あとは全部スペイン人がやってきてからの歴史でした。案の定。そうじゃない歴史を彼女は作りたかったんですね。
ちなみに、ウィジチェとカウェスカルは交流があって、ウィジチェは船を作る技術を持っているんですが、仕事がないので技術を活かせない。一方、カウェスカルは漁をしているけど漁船がないので、白人や白人の混血の人のもとで、本当に安い賃金で働かされています。それを助けようと、あるベルギーのNGOが支援をしたんです。ウィジチェに11メートルの漁船を作らせ、カウェスカルに船を操業させて自由に漁業ができる形にしました。まったく理想的な形ですよね。2つの民族が船を作る技術、魚をとる技術を活かせる。船の名前は、カウェスカルの少女マリア・ルイサからとってマリア・ルイサ号という名前がついています。
マリア・ルイサはその後、プンタアレナスで高校に通って大学受験の準備をしていました。先住民には枠があるので入学できるかもしれないと言っていたのですが、残念なことに大学を諦めていました。そして、混血の男性と結婚していました。彼女はカウェスカル族の中で最年少だったので、もう純血のカウェスカルが残る可能性はなくなって彼女がいなくなったら純粋なカウェスカルはいなくなります。
それから『真珠のボタン』に出てくる、クリスティナ・カルデロンさんというヤマナ族のおばあちゃんに何回か会ったことがあります。最後に会ったときはお姉さんがいたんですけど、亡くなってしまって今は一人になってしまったんですね。彼らは世界最南端のプエルト・ウィリアムズというチリ海軍基地の近くのウキケというムラにいて、かつては先祖の墓があるメヒジョンという、放牧にも農業にも適した集落に住んでいましたが、現在は海軍に占拠され、追い払われてしまったのです。もう90歳に近いのですが、カルデロンさんが最後です。ですから彼女が国宝となっていますが、彼女がなくなった後はみんなが混血なんです。ですからヤマナも滅びてしまう。
アタカマ砂漠のミイラ
アタカマの話に移りますが、アタカマは本当に天気がいいんです。『光のノスタルジア』にカラマの女性たちが出てきますが、カラマでは観測史上、一回も雨が降ったことがない。それなのに人が住んでいるのはどうしてだと思いますか?それは人が住むのに雨は必要がないからです。アンデス山脈から川が西の方に伸びて流れていて、川があれば緑や畑が広がるので、実は砂漠の土地はとても肥沃なんです。アタカマには博物館があって、そこにはミス・アタカマというミイラがあります。アタカマはミイラ文化で有名なんです。実は一昨年前に科学博物館でわたしの「グレートジャーニー」という特別展をやったのですが、そのときにアタカマから持ってきた世界最古のミイラを飾りました。ようするにエジプトより古いミイラがあります。おもしろいのはミイラを飾っている家があることです。そしてまるで生きているように朝、食事をあげるという文化が根付いています。
西パタゴニアとアタカマって本当に正反対です。パタゴニアの氷河を歩いたのですが、ずぶずぶで着生植物だらけのところを縫っていかなくてはならない。それでやっと岩や氷のところにたどり着けます。『光のノスタルジア』『真珠のボタン』、この2本の映画の舞台はまるで対照的な2つの地域なんです。政治的なことを扱ってはいますが、それをちょっと引いた目で、啓示的な視点で観てるから、ダイレクトじゃない。チリの歴史に興味がなくても、知らなくても見られる。そして素直に入っていける、とてもすばらしい映画ですね。
(2015年11月8日、岩波ホール内・岩波シネサロンにて)
関野吉晴(せきの・よしはる) プロフィール
一橋大学在学中に探検部を創設、アマゾン全踏査隊長としてアマゾン川全流を下る。その後医師となり、南米への旅を重ねる。1993年から2002年にかけて、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸に拡散した道を、南米最南端から逆ルートでたどる「グレートジャーニー」に挑んだ。2004年からは「新グレートジャーニー 日本列島にやってきた人々」をスタート。シベリアから稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナを経由して朝鮮半島から対馬までの「中央ルート」、インドネシア・スラウェシ島から石垣島までの「海上ルート」を踏破。1999年植村直己冒険賞受賞。現在武蔵野美術大学教授。
http://www.webdice.jp/dice/detail/4906/