華盛頓Webライター 1/28(火) 0:01
アベナキ族とロジャーズ・レンジャーズの交錯
1759年の夏、ジェフリー・アマースト将軍はイギリス軍を率いてフランスからタイコンデロガ砦を奪取しました。
その勝利の余韻冷めやらぬ中、アマーストはさらなる勝利を目指し、ケベック攻略を進めるウルフ将軍に密使を送ったのです。
同時に、アベナキ族との和平を図るべく、ロジャーズ・レンジャーズのクイントン・ケネディ大尉を交渉の使者として派遣しました。
しかし、和平への期待とは裏腹に、事態は急速に暗転します。
ケネディらはアベナキ族に捕らえられ、その後の噂はイギリス軍内を駆け巡ります。
「捕虜が拷問され、頭皮を剥がされた」という衝撃的な内容に、アマーストを含む将校たちの怒りは頂点に達しました。
過去のニューイングランド襲撃やウィリアム・ヘンリー砦での暴行も重なり、アベナキ族への報復は避けられないものとなったのです。
9月13日、アマーストはロジャーズに「ならず者のインディアンには慈悲は不要」と命じました。
ただし、「女子供には手を出すな」という条件付きの命令です。
この命令を受けたロジャーズは、142人の兵を率い、シャンプラン湖を北上しながらアベナキ族の拠点、サンフランソワを目指します。
しかし、この遠征は始まりから波乱含みでした。
クラウンポイントを出発したロジャーズ・レンジャーズは、捕鯨船を駆使し密かに進軍しますが、船がフランス軍に奪われるという不運に見舞われます。
加えて、行軍中の事故や病気で兵士を次々と失い、旅の厳しさは隊を疲弊させました。それでもロジャーズは歩みを止めませんでした。
彼らが目指すサンフランソワまでは、泥濘(ぬかるみ)と沼地が続く悪路。
夜間には木の上で眠り、追跡を警戒しながら進みます。
一方、フランス軍もイギリス軍の動きを見逃してはおらず、指揮官のブールラマクは警備を強化しました。
ケネディ捕囚の報告を受け、イギリス軍の目的がサンフランソワであると察知したフランス軍は、付近に数百人の兵を配置します。
ロジャーズたちはまさに敵地のど真ん中にいる状況でした。
ミシスコワ湾に隠した物資は、戻るべき船とともに失われてしまいました。
そのため、ロジャーズは作戦の変更を余儀なくされます。
サンフランソワ襲撃後は来た道を戻るのではなく、コネチカット川上流のナンバーフォー砦に向かう計画を立て、クラウンポイントに戻る使者を送り出しました。
ロジャーズたちは泥沼を進み、フランス軍の追撃をかわしながら、なんとか乾いた土地へたどり着きます。
それはサンフランソワのすぐ近く。襲撃の時が迫っていました。
サンフランソワの集落はロジャーズが予想したよりも小さく、川を渡る困難さを除けば、奇襲の成功はほぼ確実と思われました。
10月3日、川を渡るために倒した木々の音が村に響きましたが、住民たちはそれを気に留めなかったのです。
ロジャーズたちは静かに準備を整えます。
これから何が起きるのかを知らずに眠るアベナキ族の集落に、夜の帳が下りていきました。
この遠征は、単なるイギリスとフランスの戦争の一場面ではありません。
先住民族の生存戦略、ヨーロッパ列強の野心、そして個々の兵士たちの運命が複雑に絡み合う物語です。
歴史の霧が覆うこの戦いを越えた時、彼らは何を目にしたのでしょうか。
そしてその先には、どのような未来が待っていたのでしょうか。
10月4日
その静かな夜明け、サンフランソワの集落は深い眠りに包まれていました。
アベナキ族の男たちはフランス軍とともにイギリス軍を追跡しており、村には護るべき者がほとんどいなかったのです。
一方で、疲労と飢えに耐えながらも進軍を続けてきたロジャーズ・レンジャーズの142人は、ついに目的地を目前にしていました。
ロジャーズは偵察のために一人、インディアンに扮して村へ潜り込み、一晩をそこで過ごします。
その目に映ったのは、ヨーロッパ風の教会と、多様な部族が共存する生活の跡。
ここにはフランスと結びついた「敵」の姿だけでなく、さまざまな人々が暮らしていました。
しかし、その平穏な景色は、次の日には血と炎の地獄へと変わるのでした。
10月4日、午前3時。ロジャーズは兵士たちを二手に分け、集落への攻撃を命じました。
午前5時、未明の静けさを破って襲撃が始まります。
前夜に踊り明かして眠り込んでいた村人たちは、不意打ちを受け、対応する間もなく次々と命を奪われていきました。
レンジャーズの兵士たちは銃を撃ち、斧を振り、容赦なく住民を斃していきます。
アマースト将軍の「女子供には手を出すな」という命令も、この混乱の中では無意味でした。
逃げ出した者も追い詰められ、川へと逃げ込んだ住民は、カヌーもろとも沈められていきました。
日の出とともに、村の終焉が訪れます。
ロジャーズの命令で家々が次々と焼き払われ、炎が村全体を飲み込みました。
屋根裏に隠れていた住民もまた、家とともに命を落とします。
村の中央に立つ教会も例外ではなく、神父はロジャーズの慈悲を拒んだ末に、炎の中で命を閉じました。
この襲撃で生き残った者はわずかだったのです。
襲撃の凄惨さはその場にいた者たちの心に深い傷跡を残しました。
あるスコットランド人兵士は「この報復はアメリカでも最も凄惨なものだ」と記し、ロジャーズはこの時以降「ウォビ・マダオント(白い悪魔)」の名で恐れられることになります。
しかし、彼らの戦いはこれで終わりではありませんでした。
フランスと先住民の軍勢が彼らの帰路を封じるべく待ち受けていたのです。
サンフランソワ襲撃は終わりを迎えましたが、ロジャーズ・レンジャーズの苛烈な旅路は、まだ続くのでした。
飢えと追跡の果てに
10月の冷たい風が吹く中、サンフランソワ襲撃を終えたロジャーズ・レンジャーズは、持ちきれないほどの略奪物を抱え、来た道とは異なるルートを選んで退却を開始しました。
しかしその背後では、総督ヴォードルイユの命を受けた700人の兵が彼らを追ってきたのです。
過酷な旅路の中で、ロジャーズは重大な決断を下します。
食糧探しと生存率を上げるため、隊を10人から20人の小部隊に分けたのです。
しかし、この判断は効率を高めるどころか、追跡者にとって絶好の機会を与える結果となりました。
各小隊は山林を彷徨いながら次々とフランス軍や先住民の部隊に狙われ、捕らえられた兵士たちは過酷な運命に直面しました。
ある者は捕虜として連行され、怒れる先住民女性たちによる報復の犠牲に。
別の小隊では、飢えと疲労により崩壊寸前の状態で辛うじて逃げ延びる者もいました。
一方、記録によればロジャーズ自身は部下の約半数を失いながらも生還を果たしたといいます。
隊は約束の地、クーズ・インターヴァル(ムース・メドウ)に到着しましたが、そこに期待していた食糧はありませんでした。
ほんの2時間前、アマーストの命令で食糧を運んだ兵士たちが、敵が近づいたと誤解して撤退してしまったのです。
くすぶる焚き火を前に、ロジャーズとその仲間たちは深い絶望に沈みます。
やがてロジャーズは、自らナンバーフォー砦へ向かい食糧を手配することを決意。
10日以内に戻ると約束し、川をいかだで下りました。
彼の行動が功を奏し、10月31日、ようやく砦にたどり着いた彼は、即座に食糧を仲間たちへ送り届けました。
その間、残された兵士たちは飢えに苦しみ、森林の中で極限状態に追い込まれていました。
樹皮や根をかじり、挙げ句の果てには昆虫や腐肉、さらには仲間の死体の肉まで食べたという記録も残っています。
中尉のジョージ・キャンベルは、死体を生で貪った兵士の姿を歴史家に語り、ロジャーズが捕虜を殺害し、肉を分け与えたという衝撃的な証言も残されています。
飢えの恐怖は、レンジャーズの名誉と誇りさえも打ち砕いたのです。
最終的にレンジャーズの遠征隊は、生還者わずか100人ほどとなり、これにより彼らの死闘の実態が浮き彫りになりました。
フランスとアベナキ族の記録では、彼らの襲撃による死者は男10人、女22人、計32人。
レンジャーズ側も犠牲者を数十人出し、双方の記録は矛盾を孕みつつも、その惨状を伝えています。
ロジャーズ自身はアマーストへの報告の中で、自らの判断と行動を正当化し、結果として称賛を受けました。
しかしその背後には、多くの犠牲者と未解決の感情が横たわっていました。
この遠征の後もロジャーズは英雄として扱われ、次の任務でさらなる名声を得ることになります。
しかし、サンフランソワでの襲撃と追跡、飢えと死の記憶は、彼と彼の兵士たちの心に深い爪痕を残し続けたことでしょう。
果たしてそれは、彼らにとって正義の名の下に為したものだったのか。それを裁くのは、歴史の中の静かな時間だけなのかもしれません。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f71b5e1f5ea8101e1532a73abf1277e093cb1fc9