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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

道文化賞に宇梶さんら アイヌ文化継承に貢献 白老 /北海道

2023-10-31 | アイヌ民族関連

毎日新聞 2023/10/31 地方版 有料記事 383文字

 芸術や教育、文化向上に貢献した個人や団体を表彰する2023年度北海道文化賞の贈呈式が30日、札幌市内であり、アイヌ民族の詩人で古布絵(こふえ)作家の宇梶静江さん(90)=白老町=らが受賞した。

 宇梶さんはアイヌの伝統刺しゅうの技法を基に、古い布を重ね、アイヌに伝わる叙事詩「ユカラ」を表現する古布絵の世界を切り開いたことが、アイヌの文化や精神の普及・継承に貢献したと評価された。

贈呈式には俳優で長男の剛士さん(61)も出席。鈴木直道知事から賞状を受け取った宇梶さんは、感謝の言葉とともに「アイヌは神謡集による言葉で育てられた。これからも先祖を敬い、大地に学び、子弟と一緒に平和な世界をつくっていきたい」と喜びをかみしめた。

 ・・・・・

【真貝恒平】

https://mainichi.jp/articles/20231031/ddl/k01/040/027000c


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故新井満さんに思い寄せ公演 3日、秋川雅史さんのライブとイランカラプテ音楽祭【七飯】

2023-10-31 | アイヌ民族関連

函館新聞2023.10.30

 【七飯】名曲「千の風になって」で知られるテノール歌手の秋川雅史さんのミニライブ(七飯大沼国際観光コンベンション協会主催)が11月3日午後1時から、町文化センター(本町)で開かれる。終了後、同2時からは「第6回 イランカラプテ音楽祭inななえ」(町、町教委主催)を開催する。

 「千の風になって」は七飯町大沼に住み、2021年12月に亡くなった作家、新井満さんが訳詞・作曲。新型コロナウイルス禍で新井さんの追悼行事ができていなかったことから、12月に迎える3回忌に合わせて企画。秋川さんによる町でのライブは今回が初めて。チケットは自由席で2000円。町文化センターや大中山コモン、大沼国際交流プラザ内のコンベンション協会であつかう。

 イランカラプテ音楽祭は16年に新井さんとユーカラ劇の脚本演出家・秋辺デボさんが共同制作した「イランカラプテ~君に逢えてよかった」をイメージソングとし全道各地で開催。国の「アイヌ政策推進交付金」活用事業で、アイヌ伝統楽器の演奏やアイヌ古式舞踊を披露。大沼岳陽学校の児童生徒による合唱のほか、秋辺さん、17年に「イランカラプテ―」のシングルをリリースしたポップデュオ「トワ・エ・モワ」、中国語訳を手掛けた中国蘇州市出身の歌手・李広宏さんのトークやライブがある。秋川さんのライブ後、無料で観覧できる。定員900人。

 問い合わせはコンベンション協会(0138・67・3020)へ。

https://hokkaido-nl.jp/article/31432


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「肉」はあまり食べず「魚」と「野菜」はしっかり食べているのに、なぜ「日本人」の「大腸がん」は多いのか

2023-10-31 | 先住民族関連

現代ビジネス10/30(月) 7:03配信

日本人には、日本人のための病気予防法がある!  同じ人間でも外見や言語が違うように、人種によって「体質」も異なります。そして、体質が違えば、病気のなりやすさや発症のしかたも変わることがわかってきています。欧米人と同じ健康法を取り入れても意味がなく、むしろ逆効果ということさえあるのです。見落とされがちだった「体の人種差」の視点から、日本人が病気にならないための方法を徹底解説! 

*本記事は『欧米人とはこんなに違った 日本人の「体質」 科学的事実が教える正しいがん・生活習慣病予防』(講談社ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。

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日本人の「弱点」は?

 魚は少し増やすほうが良いにしても、食物繊維は足りている。肉は食べてはいるが欧米ほどじゃない。野菜も十分摂取できている。こんな日本で、なぜ大腸がんが減らないのでしょうか? 

 大腸がんの原因が単純でないのは、一つには大腸そのものが複雑だからです。先に書いたように、部位によってがんの発生率が違い、がんの発生原因が異なる可能性もあります。たとえば結腸がんと直腸がん。日本では、以前は直腸がんが多かったのが、次第に結腸がんが増えて、今では結腸がんのほうが発症率が2~3倍高くなっています。発生原因にも違いがあって、直腸がんは塩分の取り過ぎが関係することが知られています。このことから直腸がんは、結腸がんの性質と胃がんの性質の両方を持っていると指摘する専門家もいます。

 さらに、大腸がんは発生する道筋も一つではありません。図8-6をご覧ください。道筋は大きく分けて二つあり、ここでは簡単に、「ポリープありルート」と「ポリープなしルート」と呼ぶことにしましょう。

 図の左から右に向かって、がんが進行します。上の図が、全体の8割を占めるポリープありルートで、がんの発生に先だって良性のポリープができ、これが次第にがん化します。下の図はポリープなしルート。これは正常な大腸の粘膜から直接がんが発生するものです。このどちらの道筋にも、さまざまな遺伝子の異常が関係しています。

 ポリープありルートでは、まず1個のがん抑制遺伝子に変異が起きて、良性のポリープができます。次に、がん遺伝子が作用すると、ポリープの細胞が異常な増殖を開始し、さらに、もう1個のがん抑制遺伝子が正常に働かなくなると、がんが発生すると考えられています。ここまで早くて5年、たいていは10年から、ときには20年くらいかかります。

 このとき遺伝子に目で見てわかる異常が起きていなくても、その遺伝子のオン、オフが変わる現象がありました。そう、エピジェネティクスですね。下のポリープなしルートを含めて、ほとんどの大腸がんにおいて、多数のがん遺伝子とがん抑制遺伝子にエピジェネティクス変化が起きていることが観察されています。

「悪いエピジェネティクス」

 とくに日本人に「悪いエピジェネティクス」を起こすと考えられているのが飲酒です。大規模なコホート研究から、日本酒に換算してアルコールを1日2合以上飲む日本人男性は、まったく飲まない人とくらべて大腸がんに2倍なりやすいことがわかりました。アルコール飲料に含まれる純粋なアルコールの量をもとに換算すると、第2章で書いたように、日本酒1合は、ビールなら中びん1本、焼酎なら0・6合、ワイン4分の1本、缶チューハイ1・5缶に相当します。

 そして、2005年までにおこなわれた5件の調査を総合的に分析したところ、男性も女性も、1日に飲む量が増えるにつれて大腸がんの発症率が上がり、男性は最大で3倍高くなることも明らかになりました。この傾向は、結腸がんでも直腸がんでも認められます。

 さらに、この研究結果を欧米でおこなわれた調査と比較すると、飲酒による影響は、欧米人より日本人のほうが深刻なことが確認されました。日本人を含む東アジア人の約半数が、肝臓でのアルコールの分解にかかわる遺伝子に生まれつき変異があるからです。こういう人は、変異がない人とくらべて、アルコールを16分の1しか分解できないことがあります。欧米白人とアフリカ系には、この変異を持つ人はいません。

 図8-7の世界地図に、遺伝子変異を持つ人の割合を描きました。米国には、さまざまな人種が住んでいるため、アメリカ先住民についてだけ調査しています。同じ黄色人種でも東南アジア人やアメリカ先住民はアルコールに弱い人が少なく、この遺伝子変異を持つ人の大部分が東アジアに集中していることがわかります。アルコールに弱い人も、若いころから続けて飲んでいると次第に飲めるようになりますが、飲む量が同じなら、欧米人より高い確率で、食道、のど(咽頭、喉頭)、膵臓、大腸、肝臓、乳房などのがんが発生します。

 日本人のアルコール依存症患者の大腸を調べると、半数以上でポリープが見つかります。また依存症患者と健康な人では、便に含まれる細菌の種類や数が明らかに異なり、アルコール依存症でタバコも吸う人は、この傾向がさらに強まることがわかりました。大量の飲酒と、喫煙により、腸内環境が変化するようです。

 研究者らは、この原因は飲酒や喫煙によって体内に発生する活性酸素ではないかと考えています。活性酸素は動脈硬化のところで出てきました。強い酸化力でDNAの材料になる物質を破壊してしまうので、DNAを合成したり、キズついたDNAを修復したりできなくなって、がん化につながるのではないかと推測されています。

 飲酒に喫煙が重なると大腸がんの発症率が上がるのは、アルコール依存症患者だけではありません。日本人男性が日本酒に換算して1日2合以上アルコールを飲み、タバコを吸うと、飲酒も喫煙もしない人とくらべて大腸がんの発症率が3倍になります。男性は、年齢で調整した大腸がんの発症率と死亡率が、ともに女性の2倍高いことが知られており、直腸がんに限ると男女差はさらに広がります。飲酒、喫煙する人の割合が高いからでしょう。

 そのため専門家らは、日本人男性がはじめから飲酒も喫煙もしなければ、大腸がんの半数近くが予防できると試算しています。タバコの煙にはさまざまな発がん性物質が入っていて、煙に直接ふれることのない大腸の粘膜からも発がん性物質が検出されます。喫煙により、肺だけでなく、あらゆるがんの発症率が上がるのもうなずけます。

 ところが、欧米を含む海外では、喫煙が大腸がんの発症率を高めるという報告があまりありません。喫煙が大腸がんの発生と関係するのかさえ、不明なままです。もしかしたら、ここにも人種差があって、日本人の大腸は、アルコールだけでなく、タバコにも弱いのかもしれません。

 飲酒、喫煙に加えて、大腸がんを招くのが机に向かう仕事、デスクワークです。なかでも結腸がんの発症率が上がります。オーストラリアの研究者らは、デスクワークを10年間続けた人は、デスクワークについたことがない人とくらべて、大腸がんの発症率が2倍高いと述べています。

 また、日本でおこなわれた研究で、立ち仕事の人とデスクワーク中心の人を比較すると、立ち仕事の人は、大腸がんの発症率が70%以上低かったと報告しているものがあります。そして、日本人約6万5000人を対象とした大規模な調査によると、立つ、歩く、走る、重いものを持つ、激しいスポーツなど、すべてをひっくるめた身体活動が多い男性は、結腸がんの発症率が40%以上低くなりました。女性については、はっきりしたデータが得られていません。

 大腸がんは、北海道、東北、山陰という、冬に雪が積もる地方で多い傾向があり、国立がん研究センターによる2016年の全国推計値で死亡率が最も高かったのは青森県でした。これも、体をあまり動かさない生活と大腸がん発生の関連を裏づける証拠の一つと言えます。机に向かう時間が長いと結腸がんが増える原因については、肥満になりやすいこと、腸の動きが悪くなって、発がん性物質の影響を受けやすくなること、胆汁分泌の乱れ、免疫機能の低下などが考えられています。

 日本で大腸がんの発症率が上がり始めた1960年代は、会社でデスクワークにつく人が増え、乗用車が普及した時期と一致します。これらは糖尿病増加の原因でもありました。先のデータでモンゴルの発症率が低かったのは、運動量の違いによるのでしょうか。大腸がんは欧米病と言うより、現代病なのかもしれません。

 さらに連載記事<ヨーグルトを食べて体調が悪化…じつは「日本人」にとっては「意味がない8つの健康法」>では、日本人の体質とがんの関係について、詳しく解説しています。

奥田 昌子(医学博士)

https://news.yahoo.co.jp/articles/027e9799c06343ef744042a40ee0e451e4ab9b3b


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かつて、「わたし」という主語を持たない女性が多かった…抵抗する女性たちを封じ込めようとした「社会の正体」

2023-10-31 | 先住民族関連

現代ビジネス10/30(月) 8:03

焼き芋とドーナツ。それは女性労働者のソウルフードで彼女たちの抵抗の一部でもあった。

法政大学人間環境学部教授、湯澤規子の著書『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』によると、女性労働者は一方的な弱者でなく、実は「わたし」の人生を強かに拡張していたという。ではなぜ、「わたし」という主語で語る術を私たちは失ってきたのだろうか? 本書から一部抜粋して紹介する。

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アメリカ大陸に降り立った最初の女性たち

 津田梅子が再度のアメリカ留学時代にひと夏滞在したウッズホールは、有名な海洋生物学研究所の存在によって世界の生物学者たちに知られているが、ウッズホールを知らないアメリカ人でも、大西洋に鉤型に延びたコッド岬には特別な感慨を抱く人が少なくない。

 というのも、一六二〇年、いまから約四〇〇年前の一一月二一日に、長い船旅を終えてメイフラワー号が最初に錨を下したのは、このコッド岬の北端だったからである。沿岸を探索した結果、定住に適当な土地と判断できなかったため、メイフラワー号は岬にそって移動し、今日のプリマスに辿り着いた。移民してきた人びとが第一歩を踏み出したマサチューセッツ植民地は、その後、商業地域として大いに繁栄していくことになる。

 アメリカ大陸に降り立った最初の女性たちは、イギリスのピューリタン、クエーカー、アイルランドのカトリック、スコットランドのプレスビテリアン(註1)などであり、移住の目的は、信教の自由と経済的機会を得ることであった。

 ニューイングランドと中部の植民地では、たいてい女性は家族と一緒に移住してきた。一七世紀の末になると、もう一つ別の女性の集団が到着し始めた。それは、アフリカから労働のための奴隷として連れて来られた女性たちである。

 ヨーロッパから、そしてアフリカからやって来た女性たちは、植民地時代初期、つまり一七~一八世紀にどのような暮らしをしていたのだろうか。この激動の時期に関する研究は少なくないが、女性たちに注目した研究に限ってみると、それほど多いとはいえない。

 比較的よく知られているのは、この新しい植民地は、当初はジェンダーの区分に基づく男女についての明確な観念が浸透していた社会であったということである。神の前では魂は平等であると信じるプロテスタントでさえ、家庭内では女性は当然、男性に従属すべき存在であると考えていた。(註2)また、植民地時代、女性たちは正式な教育を受けることができなかった。ニューイングランドでは、少女は見習いや女中として他家へ奉公に出され、そこでの日々を通して読み書きの初歩を学ぶことがせいぜいであった。

 つまり、一九世紀に津田梅子が出会ったアメリカ合衆国の新しい女性たちが誕生する以前には、おそらく「わたし」や「わたしたち」という主語を持たない女性たちが多くを占めていた時代もあったことになる。そればかりか、一七世紀の植民地時代において、「わたし」や「わたしたち」という主語で発言するような女性は疎まれ、裁かれ、コミュニティから排除されることのほうが一般的であった。

 例えば入植が始まった一七世紀のニューイングランド地域では、そうした女性たちを宗教的な異端者、あるいは魔女として排除しようとする裁判が頻発した。アメリカ女性史上に刻まれ、とくに有名なのは、以下の二つの事件である。

一七世紀、新しい女性は追放され、魔女にされた

 一つ目は一六三六年~一六三八年に起こったアン・ハッチンソンをめぐる裁判である。アンは一五九一年にイギリスで生まれ、聖職者で教師でもあった父親から、当時の一般的な女性たちよりもはるかに恵まれた教育を授けられた。二一歳の時に繊維商のウイリアム・ハッチンソンと結婚し、信教の自由を主張する宣教師ジョン・コットンに師事して熱心に学ぶようになる。コットンが一六三三年にアメリカへ移住した翌年、それを追うようにハッチンソン一家も現在のボストンへと移住した。夫はできたばかりの植民地で商業的な成功をおさめ、アン自身は病人の看護などを行うようになった。(註3)彼女の聡明さと親切な態度は多くの人を惹きつけたという。

 ほどなくして、一五人の子どもの母親であり、かつ助産師でもあったアンは、多数の男女を家に招いて「恩寵」という教義を説く勉強会を開くようになった。当時のピューリタンの牧師たちが善行や世俗的な成功である「業」ばかりを強調することに対して、アンは業によっては稼ぐことのできない神の恩寵を強調した。その主張は、当時において世俗的な成功を決して手に入れられない女性たちにとっての希望となり、女性に「わたし」という主語を持たせる可能性を孕んでいたともいえる。

 こうしたアンの言動への支持が高まると、それを家族、宗教、政治のヒエラルキーに対する脅威とみなした宗教的権威者、政治的権威者は彼女を裁き、沈黙を命じた。そしてアン・ハッチンソンはアンティノミアニズム(反立法主義)と名づけられて破門されたうえ、家族と共に、ボストンから南に下ったロードアイランドの小さな植民地に追放された。

 一六四二年に夫が亡くなった後、アンは再び子どもを連れてロングアイランドの入り江近くにあるオランダ植民地(現在のニューヨーク市域)に移住した。ほどなくして、彼女はそこで、祈りの最中に先住民の襲撃によって五人の子どもたちと一緒に殺され、その生涯を閉じたのである。(註4)

 アンに対して恩赦が与えられ、追放令が撤廃されたのは、それから三五〇年を経た、一九八七年のことである。アン・ハッチンソンは現在、マサチューセッツ州議会議事堂の前に、生き残った唯一の子どもスザンナと寄り添った姿で記念碑として佇んでいる。

 二つ目の出来事は、アンがこの世を去ってから五〇年を経た一六九二年に、マサチューセッツ州のエセックス郡セイレム村で起こった魔女裁判である。魔女裁判の嵐は一七世紀には定期的に起こっていたが、セイレムのそれは、アメリカ最大にして最後のものだったと伝えられている。裁判の結果、拷問され、処刑された一四人の女性と六人の男性は、何らかの形で体制の秩序を脅かしていると見られていた人びとだった。例えば、兄弟や息子がいないために遺産を直接相続した女性は、男系による財産譲渡という秩序を乱したと見なされた。口うるさい老女は、自分の分をわきまえたくない意思表示をする者と解釈された。

 事件は少女たちの取るに足らないような、小さな魔術から始まった。それは当時のニューイングランドの至る所で若者たちが夢中になっていた、ささやかな運命占いであった。しかし、この時に少女たちがパニック状態に陥ったことが魔女呪術の被害であるとみなされ、それが瞬く間に村中に知れ渡っていく。その結果、魔女の嫌疑がかけられた者たちが次々と逮捕され、投獄され、そして処刑されるに至った。だが、その後、少女の内の何人かが、パニックはすべて作り話だったと告白したことで、裁判は唐突に終了したのである。

 これまでこの出来事は、その怪奇的で異常な部分が強調されるきらいがあった。ところが、実際には怪奇的なのではなく、「名もない、口べたな人々の退屈な日々の生活の中に根ざしている」出来事だったのだという新たな見解が、膨大な一次資料にもとづいて提示された。(註5)ポール・ボイヤーらによれば、歴史家は一六九二年という特異な年について論じることはあっても、「セイレム村の長年の歴史、あるいはそこに住んだ普通の人たち─男たち、女たち、そして子供たち─の生活を探究しようとしなかった」のだという。では、彼らの歴史と生活からは何が見えてくるのだろうか。

 植民地期のアメリカでは、誰もが予定調和的な将来が約束されているわけではない日々の中で、不安に苛まれていた。少女たちもその例外ではなかった。彼女たちは将来の不安を抱えていたがゆえに、未来を占う超自然的な現象を弄んだのであった。つまりこの事件は、当時のニューイングランド地方に生きる、ごく普通の少女たちの不安や鬱屈した気持ちの発散に端を発していたのだといえる。

 重要なことは、こうした少女たちの行動が叱責されることはなく、むしろ巧みに利用されて魔女裁判へと展開したことであろう。この事件の決定的要因は、周囲の大人たちの思惑にあったからである。

 具体的に言えば、二つの状況がそれを説明している。第一に、商業的に成長・発展し続けていたセイレム町と、伝統的な農業に固執して斜陽の一途を辿るセイレム村との間に相克があったということ、第二に、セイレム村内部にも、商業と農業の選択と村のアイデンティティをめぐって派閥の対立が生じていたことである。そして、結果的に魔女として告発されたのは、セイレム村の商業推進派閥の人びとばかりであった。

 この出来事の背景にある、セイレム村のおかれた保守的な状況と、そこに日々生きるがゆえに蓄積していく人びとの恨みや嫉妬、憂鬱などを見逃すことはできない。とりわけ女性は、こうした経済的、社会的不安定を背景とする、漠然とした不安のはけ口になることが少なくなかった。(註6)

 自分の地位やアイデンティティが脅かされる、変化の激しい流動的な社会ではなおのことである。魔女として告訴された人びとは、村にとっては部外者であり、流動的な者たちばかりであった。彼女たちのライフヒストリーを丹念に追ったポール・ボイヤーらは、次のような共通点を見出したと述べている。

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自分たちの従来の生活様式を変更して、全てを新しく始めることになる、馴染みの薄い経済活動に従事して、社会の梯子を上へ上へと昇っていった経歴をもっていた。(註7)

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 時代に先駆けて変化していこうとする女性たちが集中的に裁かれ、処刑されたということになる。つまり、セイレムでの出来事は、一七世紀の植民地時代に新しく建設された町や村での暮らしにおける、光と影の中に存在した女性に対する社会的圧力と、経済的緊張の帰結にほかならなかったのである。

 【もっと読む】『女工の雑誌『ローウェル・オファリング』を支えた2人の「女性の書き手」…その力強い人生』

 [註]

 1 プロテスタントの一派。

 2 サラ・M・エヴァンス著、小檜山ルイ、竹俣初美、矢口祐人訳『アメリカの女性の歴史─自由のために生まれて』明石書店、一九九七年、四六頁。

 3 倉橋洋子「ホーソーンの作品にみる咎められる女性─「ハッチンソン夫人」について」『共生文化研究』創刊号、二〇一六年、八一~八九頁。

 4 前掲2、六〇~六一頁。

 5 ポール・ボイヤー、スティーヴン・ニッセンボーム著、山本雅訳『呪われたセイレム─魔女呪術の社会的起源』渓水社、二〇〇八年。以下、詳細は同書による。

 6 前掲2、六一~六四頁。

 7 前掲5、二三三頁。

湯澤 規子(法政大学人間環境学部教授)

https://news.yahoo.co.jp/articles/7764e74bccc48bcda7197a3f979122a369f5d9c8


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