クーリエ2023.10.3
ワシントン・ポスト(米国)
Text by Nicole Dungca, Claire Healy and Andrew Ba Tran

スミソニアンに保管されているハードリチカについて報じる新聞記事 Photo by Salwan Georges / Washington Post
米国立スミソニアン博物館に255の脳を含む3万を超える人体部位が保管されていることが、米紙「ワシントン・ポスト」の調査報道で明らかになった。その多くが、世界各地の先住民や黒人から残忍な手法で摘出されたものだ。
非白人の「劣等性」を証明するために「人種別の脳コレクション」をつくった人類学者の知られざる蛮行を暴く──。
「食屍鬼」と呼ばれた男
アラスカ州ラーセン湾に暮らす先住民族アルティークの子供たちの間で、ある噂が広まった。ワシントンDCから来た人類学者が、人骨を見つけたら10セントくれるという。
米国立スミソニアン博物館の人類学者、アレス・ハードリチカは1930年代、先住民の墓を発掘するため、コディアック島にあるこの小さなコミュニティを繰り返し訪れた。大規模な略奪同然に、ハードリチカは少人数のチームとともに約1000人の遺骨を掘り起こし、スミソニアンに持ち帰った。
「彼は、ここではグール(食屍鬼)のようなものと考えられています」と、ラーセン湾で育ったアルティーク族の祖父を持つエイプリル・ラクトネン・カウンセラーは言う。
彼女は、ハードリチカの発掘作業や、10セントで人骨を募っていた話をしてくれた。「彼は当時、『骨博士』と呼ばれていました」
しかし、この小さなコミュニティ以外の場所では、ハードリチカは名声を轟かせていた。
ハードリチカは世界有数の人類学者で、スミソニアンの自然人類学部門を約40年間率いた。膨大な人体部位を収集し、アラスカでの研究から、北米に最初に居住した人類はベーリング海峡の陸橋(大陸間をつなぐ陸地)を渡ったという説を広めた。人類が最初に太平洋を横断した時期をめぐる、いまなお続く熱い論争をハードリチカは長年支配していた。
本人の著作やスピーチによれば、ハードリチカは非白人を劣等人種とみなし、身体的特徴から人種を判別できると確信して、非白人の脳や体の一部を収集した。彼は当時、議会で証言し、法廷で専門家証人を務めるなどして名を馳せ、FBIからは捜査への協力を求められることもあった。
1943年に74歳で死去して以来、ハードリチカの名前も、彼が40年以上かけてアラスカやその他の地域から周到に集めた人体部位も、世間の目に触れることはなくなった。しかし、彼のぞっとするような「遺産」は残っている。
スミソニアン博物館には、255の脳を含む少なくとも3万700の人体部位が保管されており、そのほとんどはハードリチカ本人によって、あるいは彼の指示で収集されたものだ。
万博でフィリピン先住民の脳を…
白人が最も優れた人種だと信じていたハードリチカは、現在では否定されている人種間の解剖学的差異についての理論を推進するために人体部位を収集した。
彼は先住民を餌食にし、遺体を手に入れるためには過激な、時には残忍な手段もいとわなかった。メキシコでは、政府に虐殺された先住民の遺体の首を切り落とした。ペルーでは2000以上の頭蓋骨を収集した。
1904年、ミズーリ州セントルイスで万国博覧会が開催された際には、「展示」されるフィリピンの先住民から会期中に死者が出ると予想し、彼らの脳を摘出する計画を立てた。
米政府は当時、植民地化したばかりのフィリピンの先住民約1200人をアローヘッド湖畔の約20万平方メートルの土地で7ヵ月間生活させ、白人を中心とした観客が「原始的な」彼らを見物したのだ。
スミソニアンの記録によれば、その夏にセントルイスに向かったハードリチカは、イゴロット族2人の検死をおこない、彼らの脳をワシントンへ持ち帰っている。
さらにハードリチカは、自ら出向かずとも世界中から脳を収集するネットワークを築いていた。スミソニアンで彼は、世界各地の人類学者や医師に人体部位の収集に協力するよう呼びかけ、人目を引かずにおこなう方法を助言した。
病院や死体安置所、墓地から集められた人体部位が、フィリピン、南アフリカ、マレーシア、ドイツ、そして米国全土からハードリチカに送られた。彼自身、米国内で死亡した黒人少なくとも57人の脳を採取した。
ハードリチカが集めた人体部位の一部は、スミソニアンの「人種別脳コレクション」や「人種別骨盤コレクション」に加えられ、彼はそれを人種比較に利用しようとした。そのように当時、人種の差異に関する専門家と見なされていたハードリチカは新聞にもたびたび取り上げられ、彼の考えは人種に関する米政府の政策にまで影響を与えた。
「彼は神格化されていました」
ハードリチカの人種差別主義的な考えと手法に対して世論が変わりはじめたのは、彼の死後数十年が経ってからだった。
1991年までに、ラーセン湾の住民らは博物館に対し、ハードリチカが発掘した約1000人分の遺骨を返還させた。だが当時のスミソニアン内部には、コレクションの喪失を嘆き、まだ彼のレガシーを称える者もいた。
2000年代初頭にスミソニアン国立自然史博物館で働いていた生物文化人類学者のレイチェル・ワトキンスは、ハードリチカの死後50年以上経った後も、彼の誕生日を祝って博物館職員がケーキを囲んでいたことを覚えている。
「彼は神格化されていました」と、現在アメリカン大学で人類学の准教授兼学科長を務めるワトキンスは話す。
本紙ワシントン・ポストは過去1年にわたり、ハードリチカの私信、出版物、フィールドノートなど数千の文書を分析したほか、スミソニアン関係者、専門家、人体部位が収集されたコミュニティの人々らに取材。ハードリチカの「人種コレクション」についてかつてない規模の広範な調査を実施した。
この調査報道を受け、スミソニアン協会のロニー・バンチ事務局長は、博物館が過去に多くの人体部位を収集した方法について公式に謝罪し、協会はハードリチカによる人種差別を認識しなければならないと語る。
「これは容認できるものではなく、償う方法を見つけなくてはなりません。彼がどんな人間だったかを明らかにするだけでなく、科学の分野における人種差別と、その影響を解明していく必要があります」
白人と黒人の子供の性器を比較
ハードリチカの人種への執着は、キャリアの初期に始まった。
幼い頃に両親とともに現在のチェコ共和国から米国に移住したハードリチカは、19歳の時に腸チフスにかかったことがきっかけで、1890年代にニューヨークの大学で医学を学んだ。
マンハッタンの病院での研修期間中、彼は人体の計測が人間の差異について重要な科学的発見をもたらすと確信し、それに夢中になった。当時は他の人類学者や科学者、医師が人類の起源を研究し、人種を比較することに熱心で、人体部位を世界中で探し求めていた。
1898年、ハードリチカはニューヨークの少年保護施設と黒人孤児院で暮らしていた白人の子供908人と黒人の子供192人を対象にした研究を発表した。彼は、性器を含む子供たちの体の部位を計測して比較し、子供たちの「劣等性」は遺伝によるものではなく、ネグレクトや栄養失調の結果と考えられると記している。
だがその一方で、人種による「顕著な」身体的差異も指摘した。
ニューヨーク州立病院の病理学研究所の人類学者だったハードリチカは、人体部位を収集するため、貧しく弱い立場の人々が死ぬ場所を探した。また、政策立案者に対して、人類学者が引き取り手のない遺体(親族によって身元が確認されていない遺体や、家族が埋葬できない遺体)を病院や墓地から引き取ることを許可する法律を採択するよう公に働きかけた。
1902年、マンハッタンのアメリカ自然史博物館に勤務していたハードリチカは、軍がヤキ族の子供を含む男女124人を虐殺したメキシコのソノラ州を訪れた。人類学者らの調査によると、ハードリチカは虐殺されたヤキ族の男性たちの首を切り落とし、12の頭蓋骨を博物館に持ち帰って人種の研究に利用したという。
議会記録に記されたある新聞記事によると、科学者のための人体部位のコレクションの作成に関するハードリチカの出版物をきっかけに、スミソニアンは国立自然史博物館に自然人類学部門を設立した。
人体収集の世界的ネットワーク
ハードリチカは、1903年にスミソニアン博物館の自然人類学部門の初代学芸員に就任してほどなく、人体部位を収集するための世界的なネットワークを築いた。南アフリカやフィリピンの研究者、米国各地の大学で働く医師や学者などの協力者には、収集費用はのちにスミソニアンから支払われると説明していた(実際に送料などが支払われていた)。
サンフランシスコ万国博覧会が1915年に開催されることが決まると、出展準備のために人類学者アダルベルト・シュックをアフリカに派遣し、子供の身体測定や、人体部位の収集にあたらせた。万博後、スミソニアンは1000点を超える人体部位を受け入れている。そこには、ズールー人(南アフリカからジンバブエ一帯で暮らすアフリカ最大の民族のひとつ)の脳2つも含まれていた。
シュックがインド洋に浮かぶタンザニアの島ザンジバル滞在中の1914年に受けった手紙には、「可能な限り多くの人骨を収集するまで、その島を離れないでください」と書かれていた。署名はないが、ハードリチカが書いた手紙だと思われる。
「言うまでもありませんが、人骨収集については先住民に何も明かさないでください。実際には、何も知らせるべきではありません。手助けが必要な場合は、然るべき白人男性の力を借りてください」
異人種間の結婚は「白人の進化を妨げる」
ハードリチカは、白人はどの人種よりも優れており、アジア人、米先住民がそれに続くと固く信じていた。最後は黒人で、彼らの存在が米国にとっての問題だと言ってはばからなかった。
1930年、メソジスト監督教会がハードリチカに手紙を送り、異人種間の結婚について意見を求めると、彼はこんな返事を書いた。
「人種が入り混じった人間は、決して優位に立ったり支配者になったりするべきではありません。そのために必要な知能と資質を兼ね備えていないからです」
「米国の白人が他人種と入り混じることで憂慮すべき唯一の懸念は、白人の進化が妨げられることです。そうなれば、この国の未来の世代は、ニグロ(黒人の蔑称)をこの地に持ち込んだ祖先の罪を償うことになるでしょう」
ハードリチカはまた、1926年にバーモント大学の教授に宛てた手紙のなかで次のように述べている。
「ニグロとヨーロッパ民族の脳には重大な違いがあり、一般的には前者が劣っています。個々のニグロの脳は、一部の白人の脳と同等か、その標準と肩を並べる程度である可能性はあります。しかし、一般的な白人にはみられないほど原始的な脳を持つニグロもいるのです」
日本人の「同化政策」に助言
ハードリチカは長年、優生学を支持していた。優生学は現在は否定されている思想だが、かつては有色人種や障がい者を標的にするために利用され、ナチス・ドイツも優性思想を信奉した。1926年に発行された米優生学協会のパンフレットをみると、ハードリチカが同協会の諮問委員だったことがわかる。
ハードリチカは1930年に書いた手紙で、強制不妊手術について医師から協力を得る方法を、優生学協会の職員に助言している。精神疾患の患者を指して、「精神状態の回復が望めない」人の不妊手術に重点を置くようにとある。
「そういった種類の個々人に厳正な不妊処置を施すことは、人類にとって確実かつ否定しがたい恩恵をもたらすでしょう。これが達成されれば、正しい方向へと大きく一歩を踏み出せるのです」
同年の新聞記事では、ハードリチカの発言が引用されている。人類はすべて共通の起源を有しており、人種の生理学的な違いは「表面上」に限られている、というものだ。しかし続けて、人類が進化したことで「人種間に差が生じ」、特定の人種は「追いつく」ことができないだろうと断言している。
ハードリチカは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトならびに第32代大統領フランクリン・ルーズベルトと手紙をやり取りしていた。その内容によれば、両大統領とも戦争や移民政策に関するハードリチカの理論を受け入れていたようだ。
1922年、米議会の属領に関する下院委員会の委員長はハードリチカに電話をかけ、ハワイ(当時はまだ米国の属領)住民の半数近くを占める日本人の「同化性」について証言を依頼。ハードリチカはこれを受け、日本人は同化させるのが「難しく」、白人ほど知能が高くないと、委員会で証言した。
返還されないままの人体部位
ハードリチカが1943年にこの世を去ると、新聞はその死を悼む記事を掲載し、米国における自然人類学の第一人者だったと賞賛した。そのようにハードリチカは自然人類学という分野の地位向上に一役買ったと評価する声は少なくなかった。
実際、米自然人類学会はその業績を称えた「アレス・ハードリチカ賞」を設立・授与していた。その名を冠した賞がようやく廃止されたのは2019年になってからだ。
さらにスミソニアンの公式ウェブサイトでは、ハードリチカの業績に言及した記述がいまも散見される。「世界有数の著名な人類学者のひとり」と位置付けられているほか、同博物館で法医人類学に初めて取り組み、40年にわたって自然人類学局を率いてきた人物として評価されている。
冒頭のアルティーク族の女性、エイプリル・ラクトネン・カウンセラーは現在、アラスカ州コディアック島にあるアルティーク博物館の事務局長を務めている。「骨博士」と呼ばれていたハードリチカについて祖父から話を聞いて以来、何十年という月日が経過した。
カウンセラーに言わせれば、スミソニアン協会がハードリチカの過去の行いについて責任をとるためにできることは、きわめて単純だ。
「遺骨をそれぞれの故郷に返還し、改めて埋葬するのであれ、地元特有の方法で弔うのであれ、その手助けをすればいいのです。スミソニアンにできることはそれだけです」
スミソニアン側は、保管されている人体部位について個人的または法的権利をもつ人は返還を申請するよう求めている。しかし、当事者であろう人々の多くは、申請することが実質的に不可能だ。そもそも、そんなコレクションが存在することさえ知らないからである。
ワシントン郊外のスミソニアン協会の施設には、いまだ無数の人体部位が保管されている。
© 2023, Washington Post
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